75.君が約束を果たすなら
「そういえば、私は他の令嬢より会いにくいと言っていたけれど、それって…?」
庭を覗いた時に手を引いてくれたから、今は私の右手にアベルの左手が重なっている。「他の令嬢」に一人だけ心当たりがあって、私はドキドキしながら聞いた。
アベルルートでは、彼がとある女子生徒と二人きりで話しているところをヒロインが目撃してしまい、身を引こうとする時期がある。
実はその相手こそ私の友人であり、一つ上の学年に所属するフェリシア・ラファティ侯爵令嬢なのだ。
ちなみに、カレンが勘違いしていたと知った時の、フェリシア様といったら…
『アベル殿下!?あり得ない、絶ッッッ対にあり得ませんわ!』
『えっ?』
『わたくし、あの方とだけは無理です!家族になる事を思えばウィルフレッド殿下も無理なのですわ!あぁ、勿体無い!アベル殿下のご兄弟でさえなければわたくしにもチャンスが……こほん。とにかく、アベル殿下とわたくしが恋仲では?などという戯言、誰にも言わないでくださいませね。』
『だ、誰にも言ってません。でも、それじゃあ中庭で親しそうにされていたのは…』
【 私はあの日の事を思い浮かべる。二人は寄り添うように立って、親しげに話をしていた。ただの友達というには距離が近かったと思うけど…。フェリシア様は、「中庭?」と首を傾げた。 】
『いつの話かわかりませんが、わたくし…そうね、《仕事》でお話をする事はございます。殿下とわたくしは恋仲でも友人でもありません。これは貴女が殿下やシャロン様に信頼されているから話しているのですよ。下手にぺらぺらとお喋りなさらない事ね。』
『わかりました。あの…一つお聞きしてもいいでしょうか。』
【 私がおずおずと見上げると、フェリシア様は扇を広げて目で続きを促した。 】
『どうして、絶対にあり得ないとまでおっしゃるのですか?』
『……言っておきますけれど、決して殿下の人格に問題があるわけではないのです。そこは誤解なきよう。ただわたくしは無理なのですわ。……でも、そうね。それは別問題として、貴女。アベル殿下を狙うのは止めた方がよろしくてよ。』
『ね!狙うだなんて!』
【 顔が熱くなるのを自覚しながら、私は慌てて手を横に振る。彼に気持ちを返してほしいと思っているわけじゃない。ただ力になりたいだけで、フェリシア様に真偽を聞いたのだって、気持ちを整理した上で二人の力になれればって、私は……。俯いてしまった私に、フェリシア様は悩ましげなため息を吐く。 】
『あの方は普段鋭いくせに、こういった事は大層鈍いのです。今も昔も、ご自分の事すらわかっておられないのですからね。』
――大体、そんな会話だったはず。
絶対にあり得ない!とフェリシア様が言うのが面白くて、前世では印象に残るシーンの一つだった。
ただ、今世の私が付き合ってきた中で、フェリシア様から第二王子と接点があるなんて話は聞いた事が無い。だから名指しせずに聞いてみたのだけれど…。
「アンソニー・ノーサムは子爵家の息子という事になってる。ある程度自由に動けるけど、五公爵は流石に敷居が高い。」
アベルから返ってきたのは、「誰なのか」ではなく「どうやって会うか」だった。
私の聞き方が曖昧過ぎたわね…。
「アンソニーとして会いに行っているという事?」
「対外的にはね。外食や観劇に誘えば使用人も距離を取るし、話がしやすいよ。」
「…公爵家の娘は誘いにくい?」
「第一、君の父親がどれだけ令息からの誘いを断ったと思ってるの。」
そんな中で一人だけ受けたら目立ってしまうという事ね。対外的に目立たないために偽名を使うのに、それでは意味がない。
王子と公爵の娘なら地位的に何も問題がないけれど、その場合私達の関係はそうだと思われてしまうだろう。少なくとも、どちらかはそういう目で見ているのだと。
私達の目的が《本当に二人きりで話す事》である限り、誰にも知られずに会うようにしないと、互いに外聞が悪い。
「君は貰い手が決まってるかもしれないけど、僕との噂なんて立たない方がいいでしょ。」
ほんの僅かだけ、アベルの指に力が入った気がした。
お父様が色んな方の誘いを断る理由を、内々に私の相手が決まっているからだと考えたみたい。もしくは、チェスターに聞いたのかしら。オークス公爵から「望むなら」と言われた事を。
「アベルこそ気を付けないと、たとえ昔の噂でも、未来のお妃様は悲しむかもしれないわ。」
「僕は妃を迎えるつもりはない。」
アベルは平然と、ゲームにも出てきたセリフを言う。
皇帝になってからも本当に誰も娶らないものだから、国の上層部はとても困っていた。
「今はそう思っていても、いつか貴方も恋をするかもしれないし、愛せる女性に出会うかもしれないわよ?ふふ、もう既に会っているかも。」
下町で会った時のカレンを思い出して、私は微笑む。
最初はか弱い友人を守るようだったアベルが、いつしか仲間として、騎士として彼女を信頼し、惹かれて、最後には共に未来を歩んでいこうと誓うのだ。
「お前は」
重なった手に力を込められて、驚いた。
痛みはないけれど、気のせいなんてとても言えないほどしっかりと握られている。どうしたのかと目を見開いてアベルを見ると、彼は眉根を寄せていた。
「……君は、その《恋》とやらをしてるわけ?」
「へっ?」
どきりと心臓が鳴る。
「貴方も恋をするかも…と言ってたでしょ。」
「そ、それはあくまで一般論で言っただけで…」
顔に熱が集まっていくのを感じて、私は慌てて目をそらした。
だってこの物語の主役はカレンだし、私はサブキャラで、未来を変えるためにそれどころじゃなくて。とはいえ女の子ですから、たとえアベルだとしても、二人の時にそんな事を直球で投げられると恥ずかしくなってしまう。
それに手を握られた状態で――と思い至った瞬間、反射的に身を引こうとしてしまった。
当然同じように後退しようとした手を、ぐっと留め置かれる。逃がさないとでも言うような行動と、アベルらしくもない話題に頭が混乱して、私は視線を上げてしまう。
何か答えろとばかり、眉を顰めて唇を引き結んだアベルが私を見ている。
心臓がどくどくして少し息苦しいし、握られた手は暖かいし、きっと顔は真っ赤だ。
「わ…からないわ。その、自分が恋だなんて……物語は読むけれど。」
「じゃあ、ウィルとの約束は?」
ウィル?
唐突に出てきた名前に、瞬いた。アベルの声色は真剣だ。
「君、ウィルとの約束を果たす気はあるんだよね。」
約束。
何年も一緒に遊んできた彼との約束はたくさんある。
悪戯をしたのはランドルフには内緒という約束――バレてしまったけど――それから、また遊ぶ約束、次に会う時はお互いお菓子を用意しようねという約束、ずっと友達だという約束……
アベルが知っているなら最近のはずだ。二人が一緒にいる時に何か、約束しただろうか?
『また遊びに来てね、ウィル。いつだって歓迎するわ。』
『本当に…ありがとう、シャロン。君が友達でいてくれて嬉しいよ。』
『私もよ。待ってるから』
『うん、それじゃあね。』
――いつだって歓迎する、という事?
友人である私が嫁入りの途端に会えなくなって、ウィルが落ち込む事を懸念しているのかしら。できれば、そこまで狭量な旦那様はお断りしたいけれど。
いらぬ心配ではなかろうかと、私は首を傾げる。
「……?もちろんよ。」
「そう。ならいい」
アベルは安心したように短く息を吐いて、口角を上げた。
話題の方向転換っぷりに、ドキドキしていた私の心臓もすっかり落ち着いている。緊張から解放するように離された右手を、夜風がひやりと撫でた。
「何で僕が知ってるか聞かないの?」
「聞こえていたんでしょう?」
「まぁね。」
その時同じ場所にいたのだから、聞こえていて当然だ。
私は話題を元に戻す。
「ところで他の令嬢というのは、例えばどなたなのかしら。」
アベルは不思議そうに私を見返した。
「知ってどうする?」
「もし共通のお友達がいるのなら、知っておきたいじゃない?」
もちろんフェリシア様の事だ。
ゲームのセリフに出てきた「今も昔も」という言葉を考えると、既に二人は知り合いである可能性が高いと思う。
アベルは考え込むように視線を横にずらして、ふむと息を吐いた。
「友人かどうかは疑問だね。」
「そうなの?」
確かにフェリシア様も「恋仲でも友人でもない」と言っていたけれど、全員そうなのかしら。
アベルは頷いた。
「少なくとも僕はそういう認識をしていない。だから、君に言う必要もないかな。」
「……わかったわ。」
誰と会っているか言うつもりはない、という事だ。
もしかしたら最初に質問した時も、本来の意図をわかっていて、敢えてずれた回答をしてきたのかもしれない。
「それにしても、よく偽名だけで悟られずにいるわね…?」
私は首を傾けてアベルをじっと見る。
黒髪も金色の目もそこまで珍しくはないけれど、その組み合わせと剣を提げている事を踏まえると、たとえ顔を知らなくても察してしまうのではなかろうか。
特に、王城で顔を合わせた事のある貴族に出くわしたりだとか、しないのだろうか。
「必要があれば姿を変えてる。」
アベルがそう言った途端に、彼の髪色が金に、瞳が青色に変わる。
ウィルとお揃いカラーのアベルという劇物を目撃して、前世の自分としての感覚が静かに合掌したのを感じた。今すぐここにウィルを召喚して写真を撮りたい。カメラなんて存在しないけれど。
せめて目に焼き付けようと思ったら、茶髪に黒目の、あまり特徴のない顔をした見知らぬ男の子がいた。
どちら様でしょうか。
「魔法だから、誰かが一緒だと使えないけどね。」
そう言って、彼はアベルに戻った。
明るい昼間に姿を消すなら光の魔法、暗い夜中に姿を消すなら闇の魔法。
だから前世で「逢魔が時」なんて言われた夕方こそ、外で姿を消すには難しい時間帯だったりする。
そして、姿を「変えられる」人はそう多くない。
光の魔法と闇の魔法、そのどちらをも使いこなせなくてはならないから。…本来、こんなにさらりとやってのける事ではないのだ。
「街に出かける時、ひょっとしたら変装した貴方とすれ違うかもしれないのね?」
なんて聞いてみると、アベルは一度瞬いてから、くくっと笑った。
「そうだね。」
「ねぇ、それは私にもかけられる?色を変える魔法。」
この世界にも髪染めはあるけれど、カラーコンタクトレンズのような、瞳の色を変えるものは存在しない。
わくわくしながら聞いた私を、金色の瞳が一瞥する。
返事を待つ間に手が伸びてきて、じっとしている私の黒髪をすくった。
「わぁ…!」
それは気付かせるためだけの行為で、すぐに手は離れて髪が流れ落ちる。
私は額縁からベッドに降り、部屋に置かれた姿見の前へ急いだ。
……いつも通りの薄紫色。
振り返れば、第二王子殿下が楽しそうに肩を揺らしている。私はむむむと眉根を寄せてベッドへ駆け寄った。
「アベル!……っ。」
つい大きな声を出してしまって、私は口を押さえる。ちらりと部屋の扉を見やりながらそうっとベッドに上がり、窓の方へ戻った。
誰にも聞こえなかったのかしら?
はらはらしながらアベルを見上げると、彼は目を細めて微笑んでいる。
「大丈夫だよ。ここに来た時から、風の魔法で防音してる。」
「そうなの!?」
そういう事は早く言ってほしい。
でもそれ以上に、結構な時間が経っていると思うのだけれど、大丈夫なのかしら。本当に魔力量の底が知れない。
「帰りは平気なの?魔力の残りは。」
「問題ない。」
アベルはそう言って、カップに残っていた紅茶を飲み干した。
私もミルクティーを喉に流して、サイドテーブルのトレイへと二つとも片付ける。
「さっきの私は、瞳の色も変わっていた?」
「ん?うん。」
「何色に?」
聞くと、アベルの目がついと横にずれた。
「………青。」
「瞳はウィルとお揃いだったのね。せっかくなら見せてくれればよかったのに。」
「次の機会があればね。」
素っ気ない口振りのアベルを見上げながら、私はまた二人になる時があれば手鏡を用意しようと心に決めた。
「そろそろ行くけど…治癒は、少し待て。ウィルに一つ提案してみる」
「ウィルに?」
「そう。だから早まって自分で練習したりしないように。」
「…わかったわ。」
目の前で自傷した人に言われるのはちょっと不服だけれど、私は頷いた。
アベルは腰を上げると、外側へ開け放った窓の上に手をかける。
「じゃあね。」
「えぇ。アベル」
私はベッドの上で膝立ちになると、彼の方へ手を差し出した。
すると躊躇いなく、空いている方の手で、下から支えるようにして触れてくれる。指先をきゅっと軽く握って、私は微笑んだ。
「またね。」
「…あぁ。」
一瞬だけ握り返してくれた指を、そっと離す。
トン、と軽い音がして、アベルの姿は見えなくなった。




