74.初めての治癒
落ちてなかった。
それがすぐわかったのは、彼の左手が窓枠に掴まっていたから。
体重を支えるために力の入った指は白く、人差し指からは一度吸い取られた血がまたみるみる滲みだしていく。
「アベル!大丈…」
「どいて。」
私が身を乗り出そうとするのを察してか、棘のある声が返ってくる。
急いでベッドの上に座り直すと、ナイフを握ったままの右手が窓枠を掴み、壁を蹴る音がした直後にアベルが現れた。ブーツの底を窓枠に乗せ、左手をついていた所に付着した血をローブで雑に拭う。
ものすごく、しかめっ面で。
「……君さ」
「ご、ごめんなさいっ!」
私はベッドの上で後ずさって平伏した。
やってしまった瞬間に「今世でしかも自分以外にやるのはまずいわ!」と思ったものの、時すでに遅しだったのだ。
「なんと言うか、その!慌ててしまって…!」
「………はぁ。」
ため息の後、衣擦れの音がする。アベルがまた座ったのだろう。
「顔を上げなよ。」
「はい…」
練習台になろうとしてくれたアベルに申し訳なく思いながら、ゆっくりと彼を見上げた。
もう眉間に皺はないようで、血が擦れて痛々しい見た目になった左手が招くまま、おずおずと近付く。
「いきなり血を見せて悪かった。君を驚かせた」
「あ、なたが謝る事では…」
自分の行動が突飛過ぎた事はよくわかっている。
棚からハンカチを出してきて、水の魔法で濡らして拭かせてもらおうかしら、と考える私の前に、今度はゆっくりと左手が差し出された。
「傷が塞がる様子を想像しながら魔力を流して。傷の近くを触る方がやりやすい」
「は、はいっ。」
私はそうっとアベルの手を持って、傷口を見つめる。
治りますようにと願いながら、慎重に魔力を流し込んだ。触れている指先から、赤い線の方へ。切れた皮膚が、その下の肉がぴったりと閉じて、線が消えていく。
後には、既に流れた血による汚れだけが残った。
「…君はセンスが良い。」
無事に治せた手を離してほっと息を吐くと、アベルがそんな事を言う。
「もしかして、副作用があまりなかった?」
「あまりどころか、全くなかった。」
治癒の魔法は魔力持ち全員が使える代わりに、向き不向きがとてもある。
ものすごく魔力や時間を消費してもちょっとしか治せなかったり、治せても熱感、痒み、痛み等の副作用が出てしまったりする。副作用なしに治癒ができるというだけで、人材の価値は上がるのだ。
赤い汚れが付いたままとはいえ、傷があったとは思えない見た目の指をじっくりと眺めて、アベルは視線を私へ向ける。
「感覚は掴めた?」
「えぇ。」
「ではもう一度だ。今度は触れずに――」
「ちょ、ちょっと待って!?」
ナイフを握り直すアベルの前に手を突き出して、必死に止める。
自分が第二王子である事を忘れないでほしい。さっきは止められなかったけれど、彼を治癒の魔法の練習台にするなんてあまりにも不敬過ぎる。
「何?」
「何じゃないでしょう!ナイフを置いて、早く!」
コト、と素直に置かれたそれをひったくって箱に収め、ベッドから降りた私は部屋を静かに走ってクローゼットの中へと押し込んだ。
代わりにハンカチを一枚取り出して、水の魔法で半分ほど濡らしながら戻る。
そして彼の左手を取り、傷のない人差し指を丁寧に拭いた。濡れた部分で拭いてから、乾いたところで拭く。アベルは抵抗せず私に任せていた。
「はい。これでいい…」
顔を上げた私が見たのは、アベルの右手が弄ぶ一本のナイフ。
思わず顔を顰めると、右手がスッとローブの裏に隠れた。茶会でさえ投げナイフを持っていたこの人が、今持っていないはずもなかったのだ。
「もう!自傷は駄目だって貴方が言ったんじゃない。」
「君は駄目だ。僕はいい」
「どうして?理不尽だわ。」
「貴族の令嬢に傷痕が残るのはまずいでしょ。」
「うっ…。」
それを言われると痛い。
私はいずれどこかへ嫁がなくてはいけないし、夫となる人が傷痕を見てどう思うか。悲しむかもしれないし、嫌悪するかもしれない。高いお金と引き換えに皮膚を元通りにする人もいるけれど…。
「第二王子に傷痕が残るのだって、」
「僕は気にしないし、何なら自分で治せる。」
「うぅぅ。」
そうだった、アベルは色々と規格外なのだった。
内心ハンカチをきゅっと噛みしめながら、私は彼を見据える。
「私のせいで…それも治癒の魔法の練習なんかで、貴方が痛い思いをするのは嫌だわ。」
「そんなに痛くもないけど。」
「全くでは無いで……く、薬で痛みがない内にとかも駄目よ!?」
本で読んだ動物実験を思い出して慌てて言った。
強い麻酔薬で痛みと意識を飛ばしている間に傷つけ、治すまでを行うのだ。アベルは流石に意識のない自分を預けたりしないでしょうけれど、「痛みがなければいいのか」くらいは言いそうだから怖い。
「第一、貴方にそこまでしてもらっても私に返せないわ。既にたくさん教わっているのだし。」
「君の治癒が上達するのは、僕にとっても都合が良い。」
その言葉にちょっとだけぎくりとした。でもすぐに「あり得ない」と言い聞かせる。
――貴方は知らない。ある未来で火槍に貫かれた時、治療を行うのは私だなんて事は。
それに、ゲームのシャロンは彼を助けられなかった。
否、手を出しても助からないとわかった上で治癒の魔法を使ったはずだ。どう見ても致命傷だとカレンは察して、そして致命傷を治す事など、ただの学生にはできっこないのだから。
「どうして都合が良いの?」
「……君が、ウィルにとって大事な人だから。」
「私が傷つくと、ウィルが悲しむから?」
「そういう事。」
アベルはほんの数秒目を伏せてから、横に広がる星空を見上げた。
柔らかな黒髪が風に揺られ、切れ長の目にある金の瞳は空から降り注ぐ明かりで煌めいている。
ウィルより少しだけ日に焼けた肌は少しの荒れもなく滑らかで、すっと通った鼻筋の下にある薄い唇は閉じられていた。
初対面で見たら怒ってると勘違いされそうね、なんて思う傍ら、星々を背景とする彼を、幻想的なまでに美しいと感じた。
『それでも、僕がいなくなった方が早道だ。』
――まるで、全てを置いてどこかへ行ってしまいそうな――そんな、冷たい美しさだった。
視線に気付いていたのか、アベルの瞳が私を捉える。
じっと見返していると、吹き込んだ風がさらさらと私の髪を乱した。
「――なんて顔してる。」
ほんの数秒だったのか、もう少し長かったのかはわからない。
困ったように眉根を寄せたアベルが声を発した事で、私はゆっくりと瞬いた。
「変な顔、してる?」
「…変ではないけど…」
アベルが目をそらして言い淀む。自分の事なのに、私は今自分がどんな表情をしているのかよくわからなかった。笑っている気もするし、引きつっている気もする。
私に視線を戻したアベルが、明らかに困った様子で顔を歪めた。
「とりあえず、そんな顔をするな。」
「そう言われても…」
「何が嫌だった?都合が良いという言い方か?試しに切ったのがそんなにまずかったか。」
「えぇと」
ぱちぱちと瞬きすると、目頭と目尻に涙が寄る感覚があった。うっすらと涙ぐんでいたらしい。
もう少しじわりときていたらきっと、零れ落ちていた。
「ウィルは、貴方が傷ついたって悲しむわ。私もよ。」
「……そうだね。」
「だからね、アベル。貴方……」
――いなくならないわよね?
「…じ、ぶんを、大事にしないと駄目よ。」
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、私は苦笑した。
いなくなるわけがない。
だってまだ、ゲームのシナリオ本編は始まってすらいないのだから。彼が全てを諦めるのはもっとずっと先のはずだ。私は、諦めないから。だから大丈夫。
そうでしょう、アベル。
「……わかったから、その顔をやめろ。」
アベルは私の目元を覆うように左手をかざす。見たくもないという事かしら。
ちょっと失礼だわ、と思うけれど、王子相手にそんな顔をする私の方こそ失礼なのかも。
「…どうしていいかわからない。」
続けて呟いたその声があまりにも困り果てていたから、失礼と思った事なんて頭から吹き飛んでしまった。そっとアベルの手を取って、ゆっくりと下ろす。
夜風にあたっているせいか、私達の手はひんやりしている。
両手で包むようにしてようやく少しだけ、ほのかに温かいような心地になる。目を合わせるとまた困らせてしまうかもと思って、私はアベルの方は見ずに、重ねた手を見つめていた。
「……君、寝なくていいの。」
手を振りほどく事もなく、アベルがぽつりと聞く。
「大丈夫よ。明日は少しゆっくり起きると言ってあるから。」
「そう」
「貴方は?」
「問題ない。」
その返事に少し安心した。
まだしばらくここに居てくれるという事。私が手を取っていても良いという事。
それを許してくれるくらいには、信頼されているという事だ。
「前に花屋さんで買ってくれた種、順調に葉っぱが増えているの。」
花が咲いたら連絡すること、そうしたら見に来てくれること。
未来の約束を持ち出して、私は自分を落ち着かせようとした。成り行きで私が適当に取っただけの、花の種。
「咲くのはね、三月頃なんですって。まだまだ先ね」
「…結構かかるな。」
「そうよ。ゆっくりなの」
咲く予定の花は、青い花弁が五つあるのはツイーディアの花と同じだけれど、花弁の形や中心の色、葉っぱなどは違っている。
ちなみに国花であるツイーディアはプロポーズの定番なので、開花時期関係なしに花屋さんで買える。
「植えた場所はここから見える?」
「少しだけ。遠いし暗いから、わかりにくいかも…」
カップを乗せたソーサーをずらして、アベルの前に座った。二人で窓枠を占拠したみたいになる。
ベッドの上にいた時より風を感じ、髪を左耳にかけて庭を見下ろすと、重ねたままの右手が注意するように軽く引かれた。
「大丈夫、落ちないわ。」
くすりと笑えば、自然にアベルと目が合った。
彼が柔らかく目を細めるものだから、兄に見守られる妹のような心地になる。私は遠目にある花壇の一角を指したものの、やっぱり暗くてよく見えなかった。
「あのあたり、なのだけれど。」
「そう。」
「また昼に会えたら案内するわね。」
「わかった。」
咲く前でも気にかけてくれた事が嬉しくて、頬が緩んでしまう。
葉っぱだけでは男の子はあまり見る気がしないかもしれない、なんて思わずに、会えた時すぐに案内していればよかった。
アベルは庭から私へと視線を戻し、口を開く。
「君はチェスターの妹を救った。」
幾日か経ったのだから報告が上がっていて当然なのだけれど、それでも少しだけ驚いた。
私が軽く目を見開いているのを、アベルは真っ直ぐに見つめている。
「ありがとう。僕では気付けなかった」
「…私は、大したこと…」
そこから先は言い淀んだ。
ウィルとチェスターがいてくれてこそだと、私は大した事はしていないと。
そう言うと皆、可能性に気付いた事こそが重要だったんだと言ってくれたから。これ以上は、お礼を言ってくれた人達に失礼な気がした。
「君が自分でどう評価していようと、僕は感謝している。」
「……ありがとう。」
「なぜそっちが礼を言うんだ。」
ふっと笑ったアベルは少し呆れ気味で、けれどその目は穏やかだった。
「貴方が優しいからよ。」
微笑んで言えば、彼は途端に「何故そうなった」とばかりに眉根を寄せて。
それが可笑しくて、私は小さく肩を揺らしてしまう。
重ねたままでいてくれる手は、いつの間にか暖まっていた。




