73.紅茶を二杯分
ベッド脇の窓を開け放って、私は夜空を見上げていた。
チェスターに「快気祝いのパーティーで叔父を紹介する」と言われてからずっと、いつどこで何をしていても、心臓の片隅が緊張している。
ダスティン・オークス……チェスターの両親、オークス公爵夫妻を殺害し、ジェニーを囲ってチェスターを脅した人。せめて彼を冷たい檻の中へ入れてしまわなければ、たとえ冬に起きる事件を乗り切ったところで次の手が来てしまうだろう。
公爵への長年の逆恨みが原因だから、今更話して説得できる相手でもない。
――せっかく直接会えるのだから、その機を活かさなければならないわ。
こくり、喉が鳴る。
私はネグリジェの上から、メリルがお忍び用に準備してくれたローブを羽織っている。サイドテーブルに置かれたトレイにはティーセット。渋くなってしまうといけないから、すでに茶葉は片されている。
ミルクティーとストレートティーの二種類を同時に楽しむのだと豪語すれば、メリルは呆れ顔をしながらもカップを二つ用意してくれた。
アベルの手紙に時間は書いてなかったから、前回と同じ時間のつもりかな、と予想していたのだけれど。こてんと首を傾げて、私は呟く。
「今日は遅くなるのかしら…」
「もう来てるけど。」
ぽすっ。
私は後ろ手でベッドを軽く叩いた。
来ていたのなら早く言ってほしい。窓の額縁に手をついて上を振り返るけど、屋根があるだけだった。立っているのか座っているのかもわからない相手に、私は少し唇を尖らせる。
「来たのなら声をかけてくれればいいじゃない。」
「僕に気付いた上で、敢えてまだ呼ばないのかと思った。」
……そんなばかな!
「気付きようがないと思うわ。…どくから、降りてきてね。紅茶を用意したの」
返事を聞かずに引っ込んで、私はサイドテーブルで紅茶を注ぐ。
後ろからトン、と軽い音がして、窓から差し込む光に影が落ちた。ほのかに湯気の立つカップの片方は角砂糖を一つ、もう片方はミルクを入れる。これまで会った中で、アベルがテーブルに置かれたミルクに手を伸ばした事はない。これは私の分だ。
振り返ると、彼は奥行きのある額縁に座っていた。
髪と同じ黒いローブのフードを下ろして、こちらを見る。星明かりと月明かりに横から照らされて、金色の瞳が煌めいたように錯覚した。今日は闇のベールとやらのない普通のフードだ。
砂糖を混ぜ溶かしたティースプーンをソーサーに添えて差し出すと、アベルは訝しげな目で私を見つめたまま受け取る。
「君、この前は気配で気付いたでしょ。」
「あ…。」
そういえば、そんな解釈をされていたんだった。
私は思わず声を漏らしてしまった口を上品に押さえ、何事もなかったかのように自分のカップをソーサーごと運び、額縁にコトリと置く。
「こんばんは、アベル。良い夜ね!」
「……こんばんは。紅茶をありがとう。」
有無を言わさぬ笑顔から話題を変えたいと察してくれたのだろう、アベルは素直に挨拶を返した。
くいと一口紅茶を飲んでから、どこか疲れた様子でため息を吐く。
「まさか、またこうやって来る事になるとは思わなかった。」
「他の方法のほうが面倒…という事だったわね。」
アベルからの手紙を思い出して言うと、彼は頷いた。
「君は内密に会うのが他の令嬢より難しい。」
他の令嬢?
さらりと言われた内容に違和感があって、私は瞬いた。
メリルは、ウィルもアベルも親しい人はいないような口ぶりだったけれど…。
「ごめんなさい。私がもっと、気軽に抜け出せれば…」
「謝る必要はないし、抜け出さなくて正解だよ。難しいのは、侍女すら遠ざけなくてはいけないからだ。できなくはないけど、やったら妙な憶測を呼ぶ。だから知られずに会うしかない」
いかにも不服そうに、アベルは眉間に皺を寄せている。
きっと色々と考えてみてくれたのだろう。私達が内緒話をすると、メリルもウィル達もなんだか誤解をするみたいだから。
屋敷以外でこっそり会うには、私に自力で抜け出して、また無事戻ってくるだけの実力がないと難しい。昼間は一人で外に出してはもらえないでしょうし…。
「私は公爵家の娘で、貴方は王子だから、二人きりになりますなんて大っぴらに言えないわね。」
私達が二人で会うのは、アベルが魔法を使えるという秘密を共有しているからだ。
王位継承の条件の一つは魔力持ちであること。
本当はアベルも継承権を持つと知ったら、ウィルはきっと相当に混乱するし、怒ると思う。何で今まで黙っていたんだ、って。
それに何よりも貴族達が動いてしまう。
継承権がないとされる今でさえ、法を変えてでもアベルを王にせよという声があるのだから。
「君に良案は?」
アベルは一応聞いてくれたけれど、私は首を横に振った。
「仮に私達が婚約者だったら、二人きりで会うのも許されたのでしょうけれど。」
「…滅多なことを言うな。」
「えぇ。さすがにこっそり話したいというだけで、その手は使えないわね。」
私は頬に手をあてて、ふーむと唸る。
窓から吹き込む夜風がさらさらと、薄紫の髪を撫で広げていく。
「貴方はどうやってここまで来たの?」
「姿を消して飛んできた。」
私の目の前でアベルの姿が消え、私がぱちぱちと瞬きしたらまたそこに居た。
宣言がないと本当にタイミングがわからないから、驚いてしまう。
「私にはまだ使えない方法だわ。ウィルとサディアスはやっていたけれど。」
「複数の属性を同時に発動させるのは、初心者には無理だ。挑戦するなら入学後の方がいい……そもそも、風と光は使えるの?」
「試せてないです……。」
チェスターの家の事を考えると集中を欠いてしまって、昨日今日の鍛錬はやり慣れた水の魔法だけに留めていた。
シュンとしてカップを傾けると、ミルクティーの甘さが口の中にふわっと広がる。カップをソーサーに戻すと、横からも小さくカチャン、と音がした。
「まぁ、他に方法がないなら今は仕方ない。」
「貴方にここまで来てもらうのは、とても申し訳なく思っているわ。」
「…こんな時間に訪ねてくる奴に気を遣う事ないでしょ。」
アベルは呆れたように言うと、これで充分過ぎる、と紅茶を指した。
第二王子にこんな時間にご足労頂いているのに、気を遣うなというのも無理な話だと思うけれど…。
「それで、身体強化の調子はどうなの。」
ようやく本題といった風に、アベルが私を見やる。
今のところ私達しか使っていない、魔力を流して身体能力を上げる方法。久し振りにこの話ができるとあって、私はにこにこと話し始めた。
「一瞬でとはいかないけれど、自分で発動させるのは少し慣れてきたと思うわ。片腕だけ、片足だけ…くらいね。無意識に使ってしまう時もあるけれど、使わないように気を付ける事もできるようになったの。」
「そう。」
「自分で言うのもなんだけれど、非力な見た目をしている分、不意打ちでいきなり強化を使う戦法が良いと考えているわ。お陰でレオからは、「追い込まれると怪力が出る」なんて言われてしまっているけれど…。」
「持続できないならそれがいいね。」
これに関してアベルは私の先生のようなものだから、正解と言われた気がして嬉しくなってしまう。ベッドに座り込んで額縁に両腕を乗せたまま、えへへと頬を緩ませた。
「アベルはどれくらい持続できるの?私は、片腕だと十五秒前後。」
「計った事ないけど、全身強化してもある程度はもつよ。」
「全身!?」
「たとえば、腕だけをかなり強化すると脚がそれを支えられない。いちいち考えてコントロールするより、全身をやった方がシンプルで良い」
軽く言ってるけど、相当ハイレベルな事をしていらっしゃるわ。
私とは身体強化を使ってきた年月も違うとはいえ、やっぱり未来の皇帝陛下はすごい…。
「ただ、元の身体能力から離れれば離れるほど魔力を使う。外側を覆うイメージは衝撃や摩擦から皮膚を守るため。内側に満たすのは筋力補強だけでなく、骨折や断裂を防ぐためだ。そこが綻ぶようなら無理に範囲を広げない方がいい。」
「なるほど…」
無意識にセーブしていたのか、あるいはまだまだ弱い強化しかできない未熟さなのかわからないけれど、今のところ反動で身体がおかしくなった事はない。
でも今後のために、今の話を聞けてよかった。身体強化は攻撃だけでなく、防御にも使える。受け身を取りつつ使えば…。
考えながら、私は枕元に置いていた箱を引き寄せた。
既に蓋は開いており、三つの刃が月明りに反射して光っている。
「これは私が頂いてもいい?」
「手紙に書いた通り、好きにしていいよ。…ただ、君が投げて使うには少し重いと思う。」
「お母様にも私にあれは大きいと言われたわ。でもたとえば、腕を強化して投げたらどうかしら。」
アベルがこの前庭で見せてくれた時だって、どこからかわからないけれど、少なくとも最後に丸太を割ってみせたのは魔力で強化していたからだと思う。
私は強気に拳を作ってみせたものの、アベルは首を横に振る。
「もし本気でやるなら、握り、投げやすさ、複数本仕込んだ時に持ち歩けるかどうか…色々条件はあるけど、自分に合った物を使う方がいい。」
「別のを買ってしまうなら、これは?」
「……?準備できるまで軽い練習なら使ってもいいし、使わなくても返しても、棄てても構わない。」
なぜそんな事を聞くのかという顔だ。
本人が良いと言っても、第二王子に譲られた物を棄てるのは無しでしょう。
「じゃあ、お守りにしようかしら。」
窓の外に広がる空を見上げて、私は呟くように言った。
湯気の消えたミルクティーはまだ少しだけ温かい。ゆっくり喉に流し込むと、アベルは私がカップを置くのを待ってから聞いた。
「どういう意味?」
「この国で一番の騎士になる人が使っていたナイフよ。ご利益がありそうじゃない?」
「…何それ。」
アベルは軽く笑うと、自分も紅茶に口をつけた。
「護身用なら、ウィルに懐剣でもねだればいい。」
「そんな事できないわ。」
私は即答した。
幼馴染とはいえ相手は第一王子である。ウィルは優しいからとても上質な、それも女性が持つに相応しいデザインの物を探して贈ってくれるだろう。
彼がそんな物を探したとなれば、手配に関わった人達が邪推しかねない。
「必要なら自分で買うから大丈夫よ。」
「君が?夫人はともかく、屋敷の殆どの人間は君に武器を与える事は否定的なんじゃないの。騎士になるとでも言い張ったならまだしもね。」
「それは……」
その通りだ。
お父様を説得した上で、お母様も許してくれるから鍛錬を続けられているけれど、ランドルフやメリル達はずっと私を心配している。
私は守られる立場であって、守る力を磨く側ではないという考えが根底にあるようだった。
口ごもっていると、アベルはナイフを一つ取り出して「それから」と付け足した。
「治癒の魔法は?これの練習をするなら、小さい切り傷くらいは自力で治せた方がいい。」
「そうね。怪我をした事が知られたら、取り上げられるかもしれないもの……だけど、治癒もまだやった事がないの。試す機会がなくて…だって、貴方に「自傷はよくない」と言われたでしょう?」
練習台にするなら自分が一番手っ取り早いけれど、思いついてすぐに否定されてしまっていた。
確かに褒められた行いではないが、本に書かれていたように「ネズミなどの動物を用意し、云々」を実行する練習法を独断でやるのも憚られた。
結果、まだ治癒の魔法には手を出していなかったのである。
なんて思い返しながらアベルを見ると、彼は左手の人差し指の背を無造作に切るところだった。
私が目を見開く前で赤い線がはしり、じわりと血が流れ出す。
「ほら。」
「へ、えっ!?」
ずいと差し出されたそれに私の脳は一気にパニックになり――あろう事か前世の自分が、包丁でスッパリ切った指を「いてて」と口に含んだ事を思い出した。
慌てて彼の手を支え、滴り落ちそうな血を傷口ごと唇で覆って吸い上げる。
「っ!?」
アベルは目を瞠って勢いよく身を引き――窓から落ちた。




