70.覚悟の程は
お母様の部屋に入って挨拶を済ませると、一緒に来てくれていたメリルが私の刺繍道具と、投げナイフの入った箱とをテーブルに置いて下がった。
これは何かしら、と目で聞いてくるお母様の前で、私は蓋を開ける。
「あらあら。どうしたの、シャロンちゃん。まさか貴女の物ではないでしょう?」
「アベル殿下から頂きました。」
「これを?」
穏やかに聞き返すお母様の柳眉が不満げに動いたけれど、経緯を話したら納得したように頷かれた。私が使うにはサイズが大きめだから、プレゼントなら選び方が間違ってると思ったみたい。
…ナイフを貰った事について疑問を感じられたわけではなく?
「貴女が使うならもっと細身の方が良いと思うわよ~。これくらい。」
「わっ。」
お母様、その手のナイフはいずこから。
刀身から持ち手まで全て銀一色の、流麗なナイフだった。細いけれど、その分軽くてよく飛びそうだわ。
私が目をぱちくりさせていると、お母様は静かにそれをドレスの胸元にしまった。そこからですか。
「以前おっしゃっていた《特殊な戦い方》というのは、暗器の事だったのでしょうか。」
「それもあるわ。剣だけの手合わせなら、レナちゃん達の方が強いわよ。」
お母様が話しながらご自分の刺繍道具を広げ始めたので、私もそれに倣う。
横に広げられたクロスには小人達による見事な剣舞が糸で描かれているけれど、私はハンカチに小さな動物や模様をちまちま縫い取る程度だ。
「力勝負になると駄目だから、相手の力を受け流す事、利用する事…シャロンちゃんが教わった体術も、格闘術ではなかったでしょう?」
「…はい。積極的に相手を攻撃するものではありませんでした。」
「剣も同じ事よ~。力勝負にならないよう注意し、なった場合は意表をつく。実戦に反則も待ったも狡いも無いわ。レナちゃんは、剣の手合わせで剣以外はご法度だと言った?」
「いえ、むしろ体術も忘れずに組み合わせるようにと。」
「ふふっ、そういう事よ。」
柔らかい笑みを浮かべて語りながら、お母様は下書きもなしに剣を縫い取っていく。
前に私も剣のモチーフで刺繍してみようかしらと言ってみた事があるのだけれど、それは一体誰用なのですかとメリルに止められてしまったのよね。確かに自分用にも家族へのプレゼントにも向いていない。
持っていて不思議はなさそうな人も浮かぶけれど、贈る間柄ではないし。
箱の中では、ナイフが静かに光を反射している。
「お母様、私にこれの扱いを教えてくださいますか?」
「どの程度かしら?」
はいかいいえの二択と思っていたところに変化球が来て、私はお母様を見上げた。
優しく細められているはずの目が、なぜだか怖い。
「貴女の覚悟は、どの程度?」
覚悟。
言われた事を脳内で繰り返した。何と答えるべきかわからなくて、瞬きをする。
「己が目的のために、誰かを害する覚悟があるの?それとも、危険から逃れるためなら人を傷つけても構わないという覚悟?そこで相手を殺す事になっても良いという覚悟は?刃物を持ったまま行動する覚悟はあるかしら。いざという時、それを人に向ける覚悟は持っているかしら。」
つらつらと並べ立てられた言葉に気圧される。
――考えていなかった、というのが正直な感想だった。私はただ、投げナイフという存在を知って、できるに越した事はない、と思っただけなのだから。
「私は……」
人を傷つける覚悟はあるのだろうか。
自分に何もできないせいで大切な人が傷つく怖さは知っている。少しでも考えて動けるようになると決めた私は、敵を傷つけるという覚悟はしていたのだろうか。
私の剣はまだ、誰も傷つけた事がない。
「……私は、大切なものを失うくらいなら、それを守るために武器を取ります。」
いつの間にか下に落ちていた視線を上げて、お母様と目を合わせる。
「命を奪う事までは考えられていません。相手に怪我をさせる事だって、そのくらいしなくてはならないという状況だったとしても、実際は想像より恐ろしく、覚悟が足りなかったと思うかもしれません。騎士であられたお母様にとって、私の覚悟はとても軽いものかもしれません。」
人が焼かれるところを見た。血が流れるところを見た。
彼らや騎士団の方々と同じだけの覚悟を持っているかと聞かれたら、私はまだ遠いと思う。想像の範疇でしかないのだから。
「ただ、私が弱いせいで大切なものが零れ落ちていかないように……少しでも、取れる手段を増やしておきたいのです。」
「……やっぱり貴女は、《何か》と戦おうとしているのね?」
思わず見開いてしまった目をそらした。
それは何かと聞かれても、上手く答えられる気がしない。お母様は私に全てを伝える気はないとわかっているかのように、「そうなの。」と呟いた。
オークス公爵夫妻は、襲撃されて馬車ごと崖から落ちて亡くなる。
入学まで一月ほど――つまり二月の終わりか三月の初め頃の事だ。
馬車ごと落ちた、という説明の所で、雪が降る中で落ちていく馬車の画像があった。情報はそれだけ。
正確な場所や日付を突き止められるかわからない。
そこで襲われるんですと話して信じてもらえるとは思えない。
何の証拠もなしに公爵の弟を糾弾できるわけもない。
だから私は、夫妻の出発を止められなかった場合はこっそりついて行くつもりなのだ。
剣を振るえるくらいでなければ、魔法を扱えなければ、きっと助けにはなれない。そのための鍛錬だった。私一人に何ができるかわからないけれど、黙って放っておく事もできない。
「シャロンちゃん」
「…はい。」
危ない事をしないでくれと、縋るように吐き出したお父様の声が脳裏に響く。
お母様は手を伸ばして、私の頭をゆっくりと撫でた。
「驕らないなら、過信しないなら、強くなろうとする貴女を止めはしないわ。でも覚えていてね、大人も頼りになるという事、貴女の助けになりたい人がいるという事。」
緩やかに微笑む美しい唇が、戦いを知る人の言葉を吐く。
「味方の存在を忘れたら、生き抜けないわよ。」
喉がこくりと鳴った。
一人で飛び込もうとしている事を見透かされたかのようで。
「……はい、お母様。」
どうしようもなく迷いながら、私はそう言った。
一人無鉄砲に飛び込むより、心強い味方を連れていけたらどんなに結果が違うだろう。
――誰が、信じて共に来てくれるだろう。
「さ、頑張りましょうか。」
答えが出せないままの私を置き去りに、お母様は再び針を取る。
今すぐ決めなくて良いのだと言うように。
「持ち方と練習方法は教えるけれど、不慣れな状態で使っては駄目よ。」
「アベル……殿下にも言われましたわ。独学では使わないようにと。」
「これは手元を離れるから、下手を打てば相手の武器を増やす事になるの。」
「あ…」
とても納得した。使い時は選ばないといけないわね。
「ある程度できるようになったらお父様にも報告しないといけないわね~。」
「先に言っておかなくてよいのでしょうか?」
「ふふふ、サプライズよ。」
いいのかしら…。
とは思ったものの、言えば止められる事は必至なので、結局お母様の案に乗ってしまう私なのだった。
◇
薄暗い地下室の檻は寒い。
まだ五歳前後に見える小さな兄弟が、かつては布団だっただろう薄っぺらい布にくるまって眠っている。父親に連れてこられた二人は空腹と寂しさでよく泣きわめいたが、そうすると見張りがやってきて長い棒を檻に差し込み、叩いたり突いたりしてくるので泣けなくなった。
今日入ったばかりの新顔、同房のアンソニーは、粗末な食事に手を付けなかった。
見るからに年上らしい彼は怖がりも泣きもせず、おまけに腹が減っていないと言うので、兄弟は遠慮なく彼の皿を空っぽにした。久し振りに空腹を感じず、痛みに呻かず眠りについた。
夜中から明け方近くまでアンソニーがいなくなっていた事には、気付かなかった。
翌朝もアンソニーは食事を譲ってくれた。
兄は少し心苦しく思って「三人で分けよう」と言おうか悩んでいたが、そうするうちに弟と二人で食べきってしまっていた。しまった、と彼の方を見たけれど、そんな期待などしていなかったようで、彼はただ檻の向こうに並んだ棚を見つめていた。
三人の首輪に付けられた番号札と同じデザインの物が、棚に並んだ品々にもタグとしてついている。賭博で失って失って失った人達が、一縷の望みをかけて「質」として差し出した物だ。
兄弟はまだそれが意味する事をわかっていなかったが、父親が迎えに来ない事はうすうすわかっていた。
昼食を二人で三人分食べた後、見張りと一緒に背の高い男が入ってきた。
彼はアンソニーの兄だったらしく、酔った勢いで賭博を続け、迎えに来た弟を質に差し出してしまったと、必死に稼いで買い戻すからと詫びながら檻越しにアンソニーの頭を撫でていた。アンソニーは笑って「信じてるよ、兄さん」と言っていた。
そのやり取りを檻の隅で聞きながら、幼い兄は弟をギュッと抱きしめた。自分はそんな事はしないと決意して。
背の高い男が見張りに「もういいだろ。行った、行った」と追い出され、見張りも部屋の外へ戻ってから、アンソニーは首の後ろに手をあててシャツの襟から紙切れを取り出した。変なところに入れて持ち運ぶものだと小さな兄弟は目を丸くしていた。
紙切れを広げたアンソニーは眉を顰めたけれど、何も言わずにそれを折り畳み、檻の隙間からすいと投げた。紙切れは自分から蝋燭の火に飛び込んで消えた。
夕食で、兄は思い切って「三人で食べよう」とアンソニーに持ちかけた。
弟は驚いた顔をしていたけれど、意見を曲げる気はなかった。アンソニーは瞬きしてから顎に手をあてて考えた後に、「わかった」とスープの器を取った。彼は立ったままスプーンを使って飲んだものだから、兄弟は器の裏と手が動くところを見ている他なかった。
戻されたスープは特に減っていないように見えたので、どうやら少ししか飲まなかったようだ。それ以上手をつけないものだから、兄弟は結局また彼の分のほとんどを胃におさめてしまった。
なにやら騒がしい。
悲鳴や物が壊れる音、倒れる音、足音などが断続的に聞こえてくる。兄弟は闇に溶け込むかのように檻の隅で身を寄せ合ったけれど、アンソニーは立ったままだった。
ガチャンと扉の錠が開いて、コツコツと誰かのブーツが牢の前までやってくる。
兄がおそるおそるそちらを見ると、蝋燭に照らされていたのは背の高い男。酔っぱらってアンソニーを質に入れた男だった。どういうわけか、昼に着ていたみすぼらしい服ではなく、何かきちっとした綺麗な服を着て、腰には剣を佩いている。
驚いている間に檻の錠が外され、閉じたままだった扉がギィイイと耳障りな音を立てて開き、アンソニーはさも当然といった顔でそこから出た。
男が革紐を肩にかけて下げていた細長い荷を解くと、アンソニーはそこから剣と帯剣ベルトを取り出して、慣れた手つきで身に付ける。
兄弟は座り込んだままポカンと彼を見上げていた。
立ち去ろうとしたアンソニーは、何かに気付いたように兄弟を振り返る。外から入り込む風が蝋燭の火を揺らして、金色の瞳をちらちらと光らせていた。
「何してるの。行くよ」
自分達に言っているのだと、気付くまで数秒かかった。
背の高い男が「怖くないですよ」とにっこり笑って言うので、兄弟はおずおずと立ち上がって彼らの後ろに続いた。スタスタと歩くアンソニーに付き従うように、背の高い男が斜め後ろを歩いている。兄弟は小走りだった。
まだ全然状況が掴めなくても、あのまま座り込んでいるよりは、自分達を殴ったり蹴ったりしない、食事を譲ってくれる彼についていった方が良い。そう思った。
「例の件はどうします、寄りますか?」
背の高い男はよっぽど年上で力も強そうなのに、丁寧な言葉で話しかけた。アンソニーは雑な口調で返す。
「怪我は頭だったね。誰が診た?」
「ナイトリー先生だそうです。」
「なら明日…いや、明後日でいい。あれは僕が行くと無理をする」
「フフッ、そうでしょうね。」
「うおおおおお!」
突然、曲がり角から現れた男が雄叫びを上げ、剣を振り上げて襲い掛かって来た。しかし背の高い男が蹴っただけで動かなくなってしまった。一瞬だ。
何も起きなかったかのようにスタスタ歩くアンソニー達を追いながら、兄弟は今更ながら背の高い男の服にべったりと変な模様、いや、赤黒い汚れがある事に気付いた。
「あの……それ、なぁに?」
やめておけばいいのに、弟が聞いてしまった。兄は真っ青になって弟の口を塞いだが、もう遅い。くるりと振り返った男が爽やかに微笑む。
「返り血です。」
兄弟は気絶した。




