6.メリルの炎
全身を襲っていた筋肉痛は、その日の晩にはすっかり無くなっていた。
そこから数週間毎日体を動かしているけれど、意外にも私の身体はさっさと鍛えられてくれた。
筋トレは数百回ずつ平気でやれるようになったし、お父様が連れてきた先生からは、まず受け身の取り方や相手の力の受け流し方を教わった。
先生も剣を持たせるのは後にしたいそうで、何より素手の技術の大切さも教えられた。
力押しで負ける可能性もあるからこそ、学んでおくべきだと。
「上達が早いと驚かれていましたよ。」
先生を玄関までお送りしたメリルは、温かく濡らしたタオルを絞りながらそう言ってくれた。
汗をかいた身体を拭かれると心地よい。つい目を閉じて息を吐きながら、そうね、と返した。
私も思っていたのだ。
本当に、本当に私というキャラクターの身体は飲み込みが早い。
もしかして前世はアスリートだったのかしらと思うほどに。……もちろん、そんな事はないのだけれど。
考えてみれば、シャロンこと私は「平民の主人公が憧れるような女の子」として設定された人物だ。
元々のポテンシャルは高いのかもしれない。
…ただ、それにしては、きちんと授業を取っていたはずの魔法は、ゲーム中ではさして威力がなかったように思う。
主人公達の補助はしてくれたけれど、そこまで。
それも鍛えてみたら変わるのかしら?
ゲームの戦闘シーンで目立たなかったのは、主人公と攻略対象がメインだから見せ場はそちらに、というだけだったかもしれないし。
じっと手のひらを見つめていると、私の服を整えていたメリルが首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「魔法の事を考えていたわ。」
「魔法ですか。」
この世界の魔法は主に【火・水・風・光・闇】という五つの属性に分かれており、自然界に存在するそれらを人為的に創り出す事ができる。
発現させる規模が大きいほど魔力を消費するし、保有する魔力量やコントロールの精度は人それぞれだ。
基本的に誰もが七歳で《魔力鑑定》と呼ばれる儀式をして――といっても、教会で石に触るだけなのだけれど。
そこでどんな色が浮かぶかで、もっとも適性のある属性を知る事になる。
アベルのように「色が出ない」場合は、そもそも魔力がない、という判定だ。
例えばお父様は風の魔法に最も適性があり、他の属性もある程度こなすけれど…火の属性はすごく苦手らしい。十数秒かかって指先に灯火を出すのがやっとだそうだ。
それでも、最適以外の属性を三つも「ある程度」まで使えるのはとてもすごいこと。最適の属性しか発動できない人だって沢山いる。
ちなみに属性の中でも、光と闇はそれが最適という人が少なく、珍しいみたい。
ウィルの最適が光だとわかった時は歓声が上がったのだとか。
「メリルも魔法が使えるのよね?」
「えぇ、えぇ、それはもう。旦那様に雇われた者達は、全員が魔力持ちでございますから。…私は、《宣言》の短縮は苦手ですけれどね。」
魔法を使う時には魔力や正しい知識、集中力の他に、これから生み出そうとする物をきちんとイメージできるかが大切だ。…と、本に書いてあったし主人公が言っていた。
イメージをより強くするために、人々は使う魔法を言語化し、声に出す。
それを《宣言》と呼ぶのだ。前世で言う呪文のようなもの。
自分のイメージ補強ができればいいので、本来、宣言は統一する必要がない。
でも初心者は何を言えばいいかわからなかったりするので、魔法の授業ではあえて固定の宣言が教科書に載っていて、先生のお手本を見ながら復唱して実践する。
これから魔法を使います、という事で「宣言」と言ってから発動する魔法の属性や内容を言う。
そうやってスイッチを作っておくと、身体が魔力の流れをコントロールしやすいのだ。……という事を、王立学園の魔法学の最初で習うはず。
何度もやるには私の精神がもたないゲームだったから、決して内容を丸暗記しているわけではないけれど……大体は覚えている。
それも、前世の私の記憶力では思い出しきれないだろうところまで。
「私、宣言を聞くの好きよ。色んな言い方があって面白いもの。」
「そうですね、人によって……あら、シャロン様、どちらでそんなに魔法を?」
「…本で読んだの。」
焦りが顔に出ないよう、にこりと微笑みを作った。
決して嘘ではないわ、小説や歌劇の登場人物だって魔法を使うのだから。
ツイーディア王国で魔力持ちは全然珍しくないけれど、私のような貴族の娘が、入学前に魔法を実際に見る機会はあまりない。
家事をすぐ隣で眺める生活ではないし、護衛が戦う時はまず引き離され、隠されているからだ。
世の中には火属性の料理人だとか、水属性の魚屋さん、風属性の薬草売り…なんて例もあって。
自分の魔法を役立てて仕事をしていけるなんて、とても素敵なことね。
「メリルはどの属性が最適なの?私は水よ。」
「ふふ、存じ上げております。」
メリルは懐かしそうに目を細めて笑った。
確かに、私が魔力鑑定をするより前からこの家にいるものね。
「私は火です。しかもなんと、色を変えられるのですよ。」
「えぇっ、本当!?」
「本当です。私の魔法はそれが自慢ですから。私固有のものではありませんけれどね。」
ちょっと自慢気にしているメリルをわくわくして見つめてしまう。
ゲームのスチル画像や攻撃エフェクトでは皆赤い炎だったけれど、背景の中には緑や青白い炎の時もあった。
どういう仕組みかと気になっていたけど、そういうコントロールをできる人がいるのね。
「見てみたいわ、メリル。ね、少しだけ。」
「ふふ、いいですよ。…ランドルフさんにはくれぐれも内緒で。」
メリルはちょっと目をそらして、唇に人差し指をあてる。
私はもちろんよ!と言ってからちらりと部屋の扉を見た。廊下から足音は聞こえないわよね?
火を扱うからか、メリルは家具類から距離をとって部屋の中央へ進み出た。
両手を軽く前に出し、見えない何かを包むように手のひらを向かい合わせる。
「宣言。我が手の中に炎を。」
メリルの手と手の間が、ぽう、と淡い光を帯びる。
「ランプのように、ささやかに、けれど暖かく、この手に乗って世を照らせ。」
言い終えた瞬間、ボッ、と炎が創り出された。
両手の間に浮かんでいたそれは、メリルが片手で掬い上げるようにすると、手のひらを焦がさない距離を保って浮かび上がる。
私はこんな簡単に火を操るメリルに感動していた。すごい。ごくりと喉を鳴らす。
「ふふ。見ていてくださいね、シャロン様。ここからです」
「……!」
赤い炎から目を離さずにこくこく頷くと、メリルは再び手の中の炎を見つめる。
「宣言。炎よ、新緑の葉のように光り輝け。」
炎が黄緑色に変わる。その美しさに私は思わず感嘆のため息を漏らした。
「宣言。炎よ、夜の闇のように暗く陰れ。」
黒い炎!そんな事も可能なのね!?
いけない、口をぽかんと開けてしまったわ。そっと閉じておく。
「宣言。炎よ、シャロン様の髪色のように、瞳のように、麗しく。」
薄紫色の炎が揺れている。
その明かりに照らされた私の髪は、映す瞳は、メリルにどう見えているのだろう。
すっかり興奮して目を輝かせて見えるだろう私に、メリルは満足げに笑いかけて、炎を乗せていた手をフッと閉じた。
指揮者が曲の終わりを告げるように。
「いかがでしたか?」
「すごいわ、メリル!」
私は駆け寄った勢いそのままにメリルに抱きついた。
おっとと、と支えてくれたメリルが、楽しげに私の体ごとゆらゆら揺れる。
「やっぱり魔法ってとっても…とっても素敵ね。」
「ふふ、お楽しみ頂けてよかったです。ただ、これは覚えていてくださいね。」
メリルは体を離すと、私の目線の高さに合わせて屈んだ。
オレンジ色の瞳が優しくこちらを見つめ、私の手を取る。
「全ては使い方次第です。見ていれば美しいものも、人にあたればとても危険。わかりますね?」
「えぇ。楽しいだけのものではないって、ちゃんとわかっているわ。」
「でしたら、大丈夫です。……さて、少し窓を開けましょうね。」
するりと手を離して、メリルは窓を開けた。
さらさらと風が流れてくる。
私もあんな風に、綺麗に魔法を使いたい。
そして時には、その力で誰かを守れるように。
――そういえば。
風に揺られるオレンジの髪を見つめて、ふと考える。
ゲームの私が殺された時、誰が一緒にいたのかしら。
嫁ぎに行くと言っても、私は公爵令嬢だ。
婚儀の前に、一人だけ馬車に乗ったはずはない。両親は、護衛は、身の回りを整える侍女は――いたのだろうか。
「シャロン様?」
声をかけられてハッとした。
つい、ぼうっとメリルを見ていたらしい。首を横に振る。
「なんでもないわ。…さ、もっと強くならなくちゃ。」
「まぁ…本当に、どうか無理はしないでくださいね。」
「えぇ!休むことも体を鍛えるには大切だわ。」
あ、でも休んでいる間に本を読むのもいいかもしれないわね。
最近体を鍛える事ばかり目指していたけれど、この家の蔵書にはまだまだ読んでいない本がある。
「……どれほどムキムキなお姿になられても、きっとお似合いのドレスをご用意しますからね……。」
メリルが小声で何か言っていたけれど、風の音が重なって聞こえなかった。
私は彼女の隣に駆け寄って、窓枠に手をかける。
うっすらと暗くなった空には青い星が浮かんでいた。