66.暴走
予定より早く帰りたがったシャロンを少し不思議に思いながら、チェスターはジェニーの部屋を後にした。
シャロンは廊下を歩きながら後ろを振り返り、部屋から充分離れたところでチェスターを見上げる。
ひどく不安そうな顔だった。
「チェスター、ウィル。相談があるの」
「ん、どしたの?」
にこやかに尋ねたチェスターの表情が、すぐに引き締まる。
思いのほかシャロンの目が真剣だったためだ。ささやかな相談ではないと察して、二人を客間の一つに通した。
茶を用意してくると言った侍女を断り、廊下に立つヴィクターとセシリアを残して人払いをする。
「それで、どうしたのかな?シャロンちゃん。おにーさんに話してみてよ」
全員がソファに腰かけてから、チェスターは早速促した。
シャロンは膝の上で重ねた手に数秒目を落とし、躊躇うように視線を空中に向けてからチェスターを見る。
「ジェニーの事なのだけれど」
その一言だけで、二人が気付かないほど僅かにチェスターの目が細められた。
妹が病に伏してから何年も経つが、シャロンが今日提案してくれた「友達と二人きり」というのはかなり久しい事だった。それこそ、すぐ治ると信じられていた頃以来だ。
家族や使用人に言えない苦しみを抱えているだろうとは思っていたが、そればかりは兄であるチェスターにはどうあっても聞き出せない。
だから、シャロンの口から出るのは「こうしてあげてほしい」という何かだろうと思っていた。
しかし違った。
神秘的な薄紫色の瞳をした少女は、チェスターと真っ直ぐに目を合わせて言う。
「彼女が一人でいる時に、《何か》が起こっていないかしら。」
「……どういう意味かな。」
口角を上げたまま聞き返したチェスターは、声が低まった事も目が鋭くなってしまった事もすぐに自覚した。
妹の身に何か起きている、あるいは妹が何か仕組んでいる、どちらともとれる言い回しであり、そのどちらもチェスターにとっては不穏過ぎた。
シャロンが怯えたように唇を震わせたのを見て、意識して表情を緩めようとしたが、彼女が持ち直してチェスターを見返してくる方が先だった。
「もし…もしもよ。誰も見ていない時に《何か》起きていて、ジェニーも気付かずにその影響を受けているとしたら……」
「何かって?」
ウィルフレッドが率直に聞く。
考えながら話しているのか、シャロンは視線をテーブルに落とした。
「たとえば…何者かが接触している可能性。たとえば……ジェニー自身が魔法を使っている可能性。」
その言葉にチェスターは瞠目した。
シャロンの言い方は、後者の可能性を高く見積もっている言い方だ。ありえない、と否定しようとした口は開かない。まず可能性として考えた事もなかったからだ。
シャロンは、同じように驚いて硬直しているウィルフレッドを見て、チェスターを見る。確証がないのだろう、自信なさげに瞳を揺らしつつも、彼女は再び口を開いた。
「ジェニーの魔力鑑定結果は?」
「……してない」
「えっ?」
チェスターの返答にシャロンとウィルフレッドが驚く。
「七歳を迎える前に外に出られなくなったんだ。鑑定石は教会にしかないし、正直鑑定どころじゃなかった。」
当時を思い出しながら、チェスターは首筋に手をあてて視線をゆっくりと彷徨わせる。
考えていた。
だから何なのかを告げるであろう、シャロンの考えを。さすがにありえないだろ、と言いそうな口を閉じて。
「チェスター、もしも…なのだけれど」
あくまで仮定の話だと、シャロンは繰り返す。
「何かの《スキル》に覚醒したジェニーが、そうと気付かずに使っている可能性はないかしら。」
無意識に力の入った指先が、皮膚をガリ、と掻いた。
ウィルフレッドがごくりと唾を飲み込み、考えるように顎に手をあてて口を開く。
「……確かに、スキルは事前に自覚できるものではないから…そこで起きた事象によっては、自分がやっていると気付かない事もあると思う。」
「あり…ますかね?だって魔法は……でも、スキルとなったら話は別か。未知数過ぎる。あるのか?ジェニーはまだ十一歳で…」
ぶつぶつと呟いた言葉はそこで途切れた。
スキル覚醒の最年少記録は、ジェニーより年下ではあるからだ。苦い顔でシャロンを見る。睨みつけたような視線になっていないか配慮する余裕はなかった。
「っ…本当に、もしもの話よ。ただ、魔法は想像に基づくもので、学ぶ前では今自分が使ってるかどうか……そう、魔力の消費を感覚として理解していなければ。何が起きているかわからなければ、本人が自覚できないという事があるかもしれない。」
考えにくい事ではあった。
たとえ無意識に使えた魔法でも、目の前に突然何かが発生するのだから、本人に隠す気がない限り誰かに伝えるものだ。
これが、ジェニーがわざと隠しているという言い方ならチェスターは苛立ちが先に来ただろう。けれどシャロンは、「ジェニー自身も気付いていない」という姿勢を崩さなかった。
「想像しかできないけれど、たとえば具合が悪くなる空気……風の魔法とか。小さな火の魔法で、煙を吸い続けてしまう、とか。」
「……もし、君の言う通りだったとして。」
チェスターの言葉に、シャロンが僅かに目を見開く。信じてもらえるか不安だったのだろう。
「俺はどうしたらいい?一人の時に何が起きているかなんて――」
そこまで言って、彷徨わせた視線がウィルフレッドで止まった。
瞬きする彼の青い瞳を見て、まさかとシャロンに目を移す。彼女は頷いた。
「ウィルなら、ある程度長時間の目くらましができるわ。そうでしょう?」
「えっ、シャロン?まさか…」
ウィルフレッドが唖然として言いかけて、その目が一瞬考えるように明後日の方向を見てから、シャロンへと戻される。早い覚悟だった。
彼の最適である光の魔法なら、明るい部屋の中でも姿を隠す事ができる。
「…女性の部屋に侵入は、さすがに気が引けるけど……」
王子として男として当然の事を呟き、ウィルフレッドはチェスターと目を合わせる。
チェスター自身も光の魔法は使えるが、短時間が精一杯だ。あるかもしれない《何か》の発生まで、どれくらいかかるかわからない。
「状況が状況だ。兄である君が許可するのなら、俺は協力を惜しまない。」
「…ありがとうございます。」
頷いたチェスターの眉間には皺が寄っていた。
日の明るい内とはいえ、第一王子が令嬢の部屋に忍び込むなどありえない醜聞だ。対外に漏らさない事は当然とした上で、女性であるシャロンと兄である自分も共に居るのが最低条件だろう。
「たださ、シャロンちゃん。《何か》が起きる確証はないし…起きるとして、どれくらいかもわからないよね。検証するとしてその辺りはどう思う?」
シャロンは前回の訪問時も、ジェニーの病気が魔法原因の可能性はないのかと聞いていた。
それを否定した後でここまで言ってくるのは、明らかにジェニーとの会話から何か掴んだからだろう。チェスターの問いに、彼女は言いづらそうにしながら口を開く。
「一人になること…心細さ、未来への不安……その気持ちが、大元だと思うの。だからそれを強く思わせる事ができたら、確認ができるんじゃないかって……ごめんなさい。ひどい事を言っているわ。」
シャロンは目を伏せた。
きっとジェニーは、彼女にだけはその不安を話したのだろう。チェスターは口の中を噛んだ。やりたくはないが、シャロンの考えは「絶対にありえない」とまで否定できるものではない。
それに何より、とうに打つ手はないのだ。
万病を治す魔法使いなどという馬鹿げた噂を確かめに、王都を離れるくらいには。
「――わかった。それは、俺が言ってみる。」
チェスターはシャロンの提案に乗った。
ウィルフレッドが三人まとめて姿を消せる時間を確認し、ヴィクターとセシリアには事情を説明し、花を運ぶ侍女に「いきなり現れてジェニーを驚かせたい」などと言って、しばらく扉を開け放つよう依頼する。
そうして隠れていた彼らが見たのは、空気を蝕むような斑の闇だった。
「――嫌ぁああああああッ!!!!」
ジェニーが叫んだ瞬間、突き放すような風がチェスターを直撃した。
彼の身体が部屋の奥へ吹き飛ばされたと認識した時には、シャロンの身体も浮いている。
ウィルフレッドが咄嗟に彼女の腕を引き、二人まとめて飛ばされながらも背中から抱きしめて庇った。
「きゃぁあ!」
「くっ…!」
「ウィルフレッド様!!」
二人が壁に叩きつけられる前に受け止めたのはヴィクターだ。
廊下で待機していた護衛騎士は、ジェニーが悲鳴を上げた瞬間に部屋の扉を開け突入していた。一人は第一王子の保護、もう片方は当然――元凶の排除に向かう。
ヴィクターがウィルフレッドの方へ走った事を理解していたセシリアは、脇目も振らずに風の中心にいる少女へ駆けようとした。
部屋へ入る前の叫び声、頭を抱えた少女、生み出された風、答えは一つ。
魔力の暴走だ。
――可哀想だが、仕方ないな。
セシリアは床を蹴る。
魔力が暴走し、それが人に危害を与えるレベルである時。それを最短で終わらせるなら、暴走した本人の意識を落とすべきだった。
ベッドの上にいる少女は、セシリアと同じくただ一点しか見ていない。
血のついた壁紙の下で、兄が倒れている。
自分がやったのだと、理解する。
「ぁああ゛ああ゛あ゛!!!」
喉を傷めたであろう声でジェニーは叫んだ。
同時に再び彼女を中心とした強風が巻き起こり、堪えきれないと察したセシリアは瞬時に剣を抜いて床に突き刺す。それでも数メートルは下がってしまった。
「いや、い゛や!傷つけたくない!!」
「っ…!」
ヴィクターの背に庇われ、靴裏で壁を踏むようにして堪えながらシャロンは辛うじて目を開ける。
ジェニーが拒絶の言葉を吐く度に風は強まった。どうして、嫌、これ以上はと頭を振る彼女の気持ちとは裏腹に、その魔力は暴走し続ける。
病が悪化したらと不安になる度、悪化した場合を想像し、
傷つけたくないと願うほど、傷つけた光景を想像する。
彼女の魔力は、その嫌な想像を叶え続けた。
「あっはっは!」
あまりにも場にそぐわない笑い声がセシリアから上がった。
飛ばされない事が精一杯で前には進めないが、助力を求めようにもヴィクターはウィルフレッドから離れるわけにはいかない。
「参ったな!火の最適がいないぞ!!」
「いたとして使えるか、馬鹿!公爵家の令嬢だぞ!!」
「サディアスを引きずって来るべきだったな!」
風の音に負けない大声で交わされるやり取りは緊張感がなく、あまりにもいつも通りで、ウィルフレッドは苦笑してしまう。
だがそのお影で、思考の混乱から多少引き戻されたようだった。
「ぐ……ッ、」
強風に晒されながら、チェスターが腕に力を込めて顔を上げる。
開いたままの扉から悲鳴のような声が聞こえてきた。
「ジェニー様ッ!?こ、これはまさか…」
「エイダ!!」
チェスターが声を張り上げる。
風のせいでエイダは入ろうにも入れない様子で、ドア枠にその手指だけが見えている。
「魔力封じを持ってこい、早く!!」
「か、畏まりました!!」
普段の彼女なら絶対にしないドタドタと慌ただしい足音も、今のチェスターには笑って見送る余裕がない。見つめるべきはただ一人だった。
「あ、あぁあ…お兄様、けがを、わ、私が、あ゛ぁ…」
「ジェニー、落ち着――」
「見ないで!!」
瞬間、オークス公爵邸を闇が覆った。
明かりが消えたというレベルではない。
洞窟の奥底のような、己の身体すら見えないほどの暗闇だった。
「お兄様、こんな、こん゛な私を」
「大丈夫だから!」
「宣言、光よ――」
チェスターが駆け寄ろうとする足音にジェニーは恐怖した。
声が聞こえるから兄はまだこちらへ来る。ウィルフレッドが唱える宣言は闇を消すためのもので、彼女は咄嗟に叫んだ。
「来ないで!聞かないでぇえ!!」
「 この闇全てを、ッ!? 」
ウィルフレッドは瞠目し、自らの喉に触れる。
「 宣言! 」
声を出した感覚はある。
肺の空気は減り、喉は震えた。しかし、
何も聞こえない。
「 光よ、この闇を打ち払え! 」
自分の声が聞こえない。
それは魔法を行使する者にとって、あまりにも致命的だった。




