65.口にした言葉
ぐずぐずと泣きながら話す私の言葉を、シャロン様は静かに聞いてくださった。
優しく背を擦る手はお兄様よりずっと小さくて、柔らかくて、私を力強く安心させるのではなく、寄り添うような優しい手つきだった。
「…お恥ずかしいところを、お見せしました。」
すん、と鼻をすすって、私は申し訳なく視線を下げる。
シャロン様はゆっくりと頭を横に振り、ハンカチを握りしめる私の手に自分の手を重ねた。
「ずっと耐えていたのね。偉いわ」
そんな事を言われると、また鼻がつんとしてしまう。
お父様もお母様も、お兄様も、屋敷の皆も、もうずっとずっと私の心配ばかりで。私が不安だと、怖いと口に出せばきっと、皆もっともっと苦しい顔をする。
病気への恐怖は、治療法を探してくれている皆を「まだか」と責めるかのようで。
未来への不安は、答えに窮する皆を追い詰めるようで。
それらの感情を口にしない代わりに、感謝を、労いを、謝罪を、ほんの僅かな未来への希望を伝えてきた。
シャロン様に話せたのは、他人だからこそ。
前回冷たい態度を取った私に、また会いに来ると言ってくださるような方だったからこそ。
「これまで、誰もいない時にそっと呟いてみたりして、気持ちを吐き出していたのですが……話せる方がいるというのは、それだけでだいぶ違うものなのですね。」
「ご家族だからこそ言えない事もあるものね。私でよければこれからも時々遊びに来るわ」
「…ありがとうございます。シャロン様。」
友達だと思っていた子達は皆、親に引きずられるようにして、あるいは自分から、私から離れていった。
その原因である咳き込みを前にしても、シャロン様は避けるどころか私の背を擦り、手ずからコップに水を注いで渡してくれた。
「お兄様達、遅いですわね。」
「そうね…」
言葉を返しつつも心配そうに私の目を見つめてくる理由を察して、サイドテーブルに置いていたベルを鳴らした。
ノックの後、すぐにエイダが顔を出す。
「お嬢様、お呼びで――…」
エイダは私を見て泣いたとわかったのか、少し瞠目してシャロン様を見たけれど、戻ってきた視線に微笑みかけて伝えれば、すぐに頷いて冷やしたハンカチを持ってきてくれた。
閉じた目にハンカチをあてて冷やす。
小さい時、大泣きした日には蒸しタオルと冷えたタオルを交互にあてられたものだけど、ちょっぴり泣いてしまっただけの今日はこれくらいで差し支えないはず。
お客様の前でそんな事をするのはよくないけれど、雑談しながら時々ハンカチをずらして見るシャロン様は、ずっと優しく微笑んでくれていた。
すっかり冷めてしまった紅茶は、エイダが新しく注ぎ直して湯気が立っている。
私がハンカチを外し、エイダがそれを回収した頃にお兄様達は戻ってきた。
「わかる…やっぱそのあたり自分より上っていうのは条件として入れたいですよねぇ。弱っちいのになんて任せられませんし。」
「あぁ、最低条件だ。美醜は細かく言いやしないけれど、やはり清潔感などを考慮すると一定以上は必要だと思う。場合によってはそれで彼女達が貶されてしまうのだから。」
「そう!ただ俺としてはね~、劣等感とかなるといけないし、できれば並び立っても遜色ないくらいが…」
廊下から続いていた会話は、ノックの後に部屋へ入ってきて、私が「お兄様」と呼びかけた事でようやく終わった。
「ジェニー!ただいま。」
「お帰りなさい、お兄様。…だ、第一王子殿下、も。」
すらすらとお呼びできたらよかったのに、きちんと目を見て微笑む事ができればよかったのに、私はつっかえてしまった挙句、ちらちらと視線を彷徨わせて目をそらしてしまった。
「待たせてすまなかった、ジェニー嬢」
「い、いぃいえ……」
あの青い瞳が私を見ていると思うだけで心臓がどきどきして、声がちょっと裏返ってしまった。
ちらりと顔を上げてみたら、シャロン様はにっこりして私を見ているし、お兄様も無言でウィルフレッド様殿下に笑いかけている。あぁ、さすがお兄様。アベル殿下の従者とはいえ、ウィルフレッド殿下とも元から親しいのだわ。
「二人ともお帰りなさい。お茶もお菓子も、先に少し戴いてしまったわ。」
シャロン様が声をかけると、お兄様もウィルフレッド殿下もようやく席についた。
ウィルフレッド殿下は紅茶を飲むのもお菓子を食されるのも所作が美しく、ついじっと見つめてしまっていた私に、「どうしたのかな?」なんて小首を傾げられるものだから、さらりと揺れる御髪が艶やかで、微笑みが優しくて――
「た、助けてくださいシャロン様…し、心臓がもちません……!」
つい顔を手で覆ってしまって、私は楽しそうなシャロン様にまた背を撫でて頂いたのだった。
その間にお兄様が「ウィルフレッド様?後でもう一度お話いいでしょうか?」なんておっしゃっていて、ウィルフレッド殿下も「も、もちろん…」と快諾されていた。
お兄様に聞いたら、殿下の好みがわかるかしら?
――なんて、思ったところで…
あの方の隣どころか、ただ真っ直ぐに立つ事すら、私にはできないのだけれど。
楽しい時間はあっという間で、そろそろ帰らなくてはと、お二人は部屋を出て行ってしまわれた。
私は門前までお見送りに行く事ができないし、部屋の位置のせいで窓からお見送りなんて事も叶わない。
シャロン様は画集を私に預けてくれて、次に来る時は新品をプレゼントするなんて言ってくださった。申し訳ないと断ったのだけれど、押し切られてしまったわ。
エイダ達がテーブルセットを片付け終えた頃、お兄様が戻ってこられた。
でも扉を開けた瞬間、床からこちらへ視線を上げる前の、一瞬の表情は――眉を顰めて、考え込むようなお顔は、私をどきりとさせた。
何か、よくない事があったのだと思った。
「ジェニー」
顔を上げたお兄様は、私を見て瞳をとろけさせ、優しく笑う。
「…お兄様」
笑い返しながら、私は縋るように手を伸ばしていた。
既にベッド脇まで来ていたお兄様の手が、私の手を包み込む。暖かな茶色の瞳が、高さを合わせて私を見つめる。
「……明日から三か月ほど、家を空ける事になった。」
「えっ!?」
「城からの命令でね…年明けには戻れると思う。行先は言えないから、手紙も出せない。」
「そんな…急すぎますわ。アベル殿下は…」
なんとおっしゃっているのですか?
私が聞く前に、お兄様は首を横に振った。断れない命令なのだわ。
寂しい。
泣いてしまいそうな心を叱咤して、へにゃりと笑った。
「もちろん、安全、なのでしょうね……」
「…無事に帰ってくるよ。」
「ぜったい…絶対、ですよ。お兄様。」
「うん」
心が引き裂かれるようだった。
ぎゅっと抱きしめてくれるお兄様にしがみつく。ほんの数日だって会いたくてたまらないのに、三か月もお兄様がいないなんて、人生で初めてだ。
私に耐えられるのだろうか。
やがて身体を離したお兄様は、エイダを連れて出て行ってしまった。
その後にやって来た侍女が、ウィルフレッド殿下がくださった花を活けた花瓶を持ってくる。またとっておきましょうね、と言って、花束をまとめていたリボンを机の引き出しにしまってくれる。
ありがとうと言えた私は、ちゃんと笑えていたのだろうか。
侍女は深く一礼して、開けたままの扉から廊下へと出ていく。ぱたん、と扉が閉まる。
「……お兄様が…」
三か月もいない。
四月には学園へ行ってしまわれるのに。私は行けないのに。
「私……」
ぼんやりと天井を見つめて、呟いた。涙が浮かんでくる。
「このまま、病が悪化していくのかしら」
ああ、気持ちが落ちていく。
せっかくシャロン様が話を聞いてくださったばかりなのに。
「…次はもう、起き上がれなくなるのかしら……」
じわじわと頭が重くなる。
血の気が引いたのか視界は暗くなり、こまかな斑模様のように視界を潰し始める。せっかくウィルフレッド様がくださった花も妙な色に見えてくる。
「このまま…いずれ、喋る事すら」
「ジェニー!」
突然お兄様の声がして、私は驚いた。
さっき部屋から出て行ったはずなのに、焦った様子のお兄様が部屋の中央から私の方へ駆けてくる。
その背後でウィルフレッド殿下とシャロン様が立ち上がって、いよいよわけがわからない。
お二人はもう帰られたはずなのに。
「宣言――」
ウィルフレッド殿下が真剣な表情で唱える。
「光よ、この部屋に漂う闇を打ち払え!」
お兄様がベッドに膝を乗り上げて、私の頭を胸に抱え込む。
それでも部屋の中が一瞬光で満たされた事はわかった。それと同時に、何かがぱちんと弾かれたような感覚がする。
「チェスター、もう大丈夫だ」
ウィルフレッド殿下の声がしても、お兄様はすぐには私を離さなかった。
その腕が震えている事に気が付いて、お兄様、と呼びかけると、ゆっくりと身体が離れる。整ったお顔を見上げる。
「ジェニー…」
――ああ、お兄様
なんて顔をしているの。
「今の《闇》は、まさか……」
ウィルフレッド殿下はなぜか、信じがたいものを見るような目をして私を見て、目をそらした。シャロン様がどうしてか、泣き出しそうな、胸が苦しそうな顔をしていらっしゃる。
驚き過ぎたせいか、眩暈もなくなっていた。視界はいつも通りの明るさを取り戻している。
でも、でもね。
そんな事よりお兄様が、
お兄様がこんなにもつらいお顔をされているなんて。
「ごめん、ジェニー…」
掠れた声でお兄様は謝った。
いつもそう。
私が病気なのが悪いのに、お兄様は何一つ悪くないのに、お兄様は私に謝るの。
側についてあげられなくてごめん。気遣いが足りなくてごめん。治してあげられなくてごめん。
私はお兄様の笑顔が大好きなのに、その笑顔を陰らせるのはいつも私なの。
だから今お兄様が謝っていらっしゃるのも、きっと私が悪い事なんだわ。
「お兄様…ごめんなさい、何が…」
何があったの?
どうしてお部屋にいるの?
ウィルフレッド殿下は何をしたの?
「――チェスター。」
こちらに歩いてきていたシャロン様が、こくりと喉を鳴らしてお兄様に声をかける。
「まだ…わからないわ。今のが原因なのか、どうか……」
「わかってる。でも、可能性…高いと思う……だって、誰もわからなかったんだ」
ぽたり、透明な雫が落ちた。
私はそれが何か知るのが怖くなって、でも確認せずにはいられなくて、視線を上げる。
お兄様は泣いていた。
「まさかジェニーが…魔法を、使ってたなんて。」
そう呟く目には怒りが、許せないという心が、現れていた。
私は頭がすうっと冷えるのを感じた。
「わた、し…の……?」
「…ジェニー嬢、さきほど部屋が薄暗くなっていたよね。」
ウィルフレッド殿下が静かに問う。
何の話をしていらっしゃるのかわからない。
「部屋が…?」
つい言葉そのままを繰り返して、もしかして、と気付く。
「眩暈、がしましたけれど…いつもの事で……でも、眩暈なんて、他の方には」
見えないはず。
そう言おうとして、でもウィルフレッド殿下が「薄暗くなった」とおっしゃった事から、見えていたのだと気付く。
なぜ?あれは眩暈ではなかったの?
答えを求めて彷徨った視線が、シャロン様で止まる。目が合った彼女は、痛ましく少し表情を歪めて、けれど目をそらす事はせずに、私に言った。
「もし私の考えが当たっているなら…きっと無自覚だろうと、思っていたわ。」
「…考え、って……?」
話の流れで、うっすらとその「考え」を描いてはいた。
でも信じたくなかった。
だってそんなの。
「この部屋に現れた《闇》は、ほぼ確実に貴女が生み出したものだ。」
ウィルフレッド殿下が告げる。
「もしかしたら、病の原因はそれではないかと……俺達は考えている。」
――頭が、重い。
「じゃあ…私のせいで」
「ジェニー?」
お兄様、そんなに不安そうな声で呼ばないで。
怒ったのでしょう、許せないのでしょう、だって私は
「私の…せいで、皆を…」
目の前が暗くなっていく。
居てはいけない、こんな
顔も見られない、こんな
お父様もお母様もお兄様もエイダも皆、みんな私が苦しめていたなんて、そんなの
「――嫌ぁああああああッ!!!!」
頭を押さえて叫んだ瞬間、部屋に突風が吹き荒れた。




