62.預かりものは凶器 ◆
『キャァア!』
『カレン!!』
伸ばした手はギリギリ届かず、彼女の身体は木に叩きつけられた。
気を失ったのかそのままズルリと落ちた身体の前に立ち塞がり、額から流れる血を拭って歯を食いしばる。
『何でだよ…』
わけがわからなくて、声が勝手に震えた。
俺が対峙する先にいるのは、ツイーディア帝国の皇帝――アベル様だ。
『愚問だな。チェスター』
会うのは何年振りだろう、懐かしむ暇もなく俺達は戦闘に入った。
最近のカレンの動きは邪魔だと、そう言っていた。彼女を狙うなら俺は立ち向かわなくてはならない。たとえ相手が貴方でも。
『国に戻った時点で噂を聞かなかったか?カレンも知っていたはずだが』
アベル様は冷えきった目で俺を見て、笑った。
『皇帝は乱心したそうだ。』
『そんなもん嘘に決まってるだろ!貴方が…貴方に限って!!』
振り下ろされた剣を辛うじて受け止める――なんて重さだ。
『宣言、水の矢よ!』
アベル様に狙いを定めて、十本の矢が宙に浮かぶ。
殺す気でやったって傷の一つも残らないだろう、この人相手には殺す気じゃないと駄目だ。
『放て!』
全てではなく、二本だけをアベル様目掛けて放つ。軽く飛んで躱されたけど、あのまま剣で押し切られるよりはマシだった。
水の矢を維持し、すぐに撃てるよう集中――したい、けど、俺は。
『俺は……貴方に、殺されるために戻ってきたのに。』
自分でも驚くほど弱々しい声が出た。
もうジェニーの、両親の仇は討った。
後はあの日ウィルフレッド様を殺した俺が、あの日の貴方に殺されるべきなんじゃないのか。今の貴方は何だ?どうしてわけのわからない事ばかり言うんだ。
『お前が死ねばカレンも殺すが、それでいいか?』
『ッ――いいわけないだろ!』
明確な意図をもって腕を振れば、維持していた水の矢がアベル様へと降り注ぐ。
あるものは避けられ、あるものは剣で弾かれる。俺だって強くなったつもりだけど、アベル様はやっぱり別格だ。子供の頃から他を圧倒する強さだったけど、もう手が付けられないくらいになってる。
聞いた話では、宣言も無しに全ての属性の魔法を使えるとか。
まだ使わないのはどうしてだ?
『考え事とは余裕だな。』
『ぐっ、う……』
一瞬で距離を詰められて剣を交差させ、離れ、すぐにまたぶつけ合う。
わからない、わからない。やめてくれアベル様、俺はこんな事をしに来たんじゃない。
貴方がカレンを殺すなんて言うはずがない。
乱心なんてするわけがない。
『…りえ、ないッ……!』
『まだ信じられないか?人は変わるものだろう。』
一際強く打ち合って、俺達は距離を取る。
無表情で、しかしどこか呆れたように息を吐くアベル様の顔が、かつて見たものと重なった。
『貴方が…』
俺は貴方の従者だった。
知ってるんだ、優しい人だって事も、自分に厳しい人だって事も。
だから、アベル様。
『あんたがあの二人を…ヴィクターさんとセシリアさんを惨殺したなんて、嘘だ!!』
『…悪いが、本当の事だ。』
『ふざけんな!何でそんな嘘を吐くんだよ!!』
『実際に俺が殺したからだ。』
感情のない声でアベル様が言う。
俺は巨大な何かに横から殴りつけられた。
それが突風だったと気付いたのは、身体が浮いて木に叩きつけられてからだ。
『か、はっ』
痛みを堪えて目を開く。駄目だ、意識を飛ばすな。カレンを、彼女を逃がすまでは――…
立ち上がるより先に今度は反対方向に吹き飛ばされ、身体中の骨が悲鳴を上げる。少なくとも左腕と肋骨がイッたのは理解できた。後はもう痛みばかりで把握しきれない。
まるで玩具みたいに、俺はべしゃりと地面に投げ捨てられた。
『ぅ、……』
力を振り絞って顔を上げれば、先程と立ち位置の変わらないアベル様の脚が目に入る。
『カレンが抑える内に傷の一つもつけられなかった時点で、お前達の負けだ。』
声は淡々としている。
近付いてくる足取りには、躊躇いもなければ高揚もない。
『実力があれば、この場くらい見逃してもよかったが…』
ため息が一つ、聞こえた気がした。
覚えがあるそれは、苛立ちでも嘆きでもなく、疲れた時の彼が漏らすものだった。
『ぅ…?あっ、駄目、待って!』
カレンの声だ。
俺は咄嗟に逃げろと叫んだけど、彼女の性格上逃げてはくれないだろう事もわかっていた。
『…お前達までああなるくらいなら』
アベル様が何かを呟いた。
微かな物音に、剣が振り上げられた事を察する。
『いやっ、やめてぇえええ!!』
ごめん、カレン
『――俺が殺す。』
ごめんね、アベル様…
何もかも俺が、俺が馬鹿やったせいで、こんな――…
◇ ◇ ◇
ふわぁ、とこぼれた欠伸を両手で隠して、私は自室のベッドに腰かけた。
今日はウィル達が来て、クリスの部屋で勉強と遊び相手をして、楽しかったけれど少し疲れてしまったわ。
廊下に顔を出して何か話していたメリルが、紺色の箱を受け取って扉を閉める。それはなぁにと首を傾げると、メリルはこちらへ歩きながら蓋を開けてくれた。
「アベル第二王子殿下のスローイングナイフです。」
「あっ……そういえば取りに行っていなかったわね。」
投げっぱなしで帰ったのだわ、あの人。
さすがにこれに王家の紋が入っていたりはしないわよね、と思いつつも恐る恐る箱を覗き込む。
何の装飾もない三本のナイフは、王子が使った物だからか、詰め物の上に布が敷かれ、横揺れしても動かないようにきちんと仕舞われていた。
両手で箱を受け取って、膝の上に置く。
「こんな物がすぐに出てくるのだから、すごいわね。一体どこに持っていたのかしら。」
「ベストの内側から出しておいででした。」
「そんな所から…。」
銀色の刃は曲線を描いて黒い柄へと繋がっていた。一本手に取ってみるとメリルは心配そうに眉根を寄せたけれど、何も言わずにいてくれる。
初めて持ったせいもあるでしょうけれど、ナイフは私の手には少し重たく感じた。
「いかがしましょう?」
メリルに聞かれて、ナイフをそっと戻す。
第二王子の私物なのだから返却するべきだけど、取りに行かなかった時点でさして大事にされていない気もするし、彼の物とはいえ検閲で引っかかりそうだわ。
「また来ると言っていたから、私がそれまで預かっておくわ。」
「物が物ですから、こちらで保管致しましょうか?」
「大丈夫よ。」
私は箱に蓋をしてサイドテーブルに置いた。
朝にでもクローゼットかどこかにしまいましょう。メリルに預けておいたら、万一また屋根から来た時に返せないものね。
今日提案したら「馬鹿を言うな」って怒られたから、もしかしたらもう、その方法ではここへ来ないのかもしれないけれど。
私はアーチャー公爵家の長女で、アベルは第二王子。
魔法の話をするにはメリル達侍女も避けなくてはいけないから、本当に難しい。手紙は手紙で検閲があるでしょうし、宛名はわかるのだから色々と勘繰られる事もある。
とはいえ、預かってる事くらいは伝えるべきよね。やっぱり明日にでも手紙を書きましょう。
「ナイフとはいえ、殿下の物……手元に置いておきたいのですね、わかりました。」
「……?そうね。」
ぎゅっと胸を押さえ、少し目をそらして言うメリルに首を傾げつつ、私は肯定した。
こっそり返す事になったら、メリルにはどう言い訳しようかしら。護衛騎士の方が取りに来た、とか?
そろそろ寝るわと言おうとして、顔を上げた私は瞬いた。
こちらをじっと見つめるメリルが、何か言いたげな顔をしていたから。どうしたのかしら。なんだか不安になって、眉尻がさがってしまう。
「どうしたの?」
促すと、メリルは床に両膝をついて、言い聞かせるように私の手を握った。
「シャロン様。今日皆様がお見せしたのは、攻撃としての魔法です。」
「えぇ、そうね。」
「……貴女様は、使えずとも構わないと私は思います。」
私は目を見開いた。
それが、体術や剣術、魔法の鍛錬を一番近くで見ていたメリルからの言葉だなんて。
「守られるべき方であって、戦うべき方ではないのです。」
初めて魔法を見せてくれた時、メリルは「全ては使い方次第」だと、魔法にも危険な側面がある事を覚えておくようにと言った。
私も決して誰かを傷つける事が目的というわけではない。私が危険な目に遭う時、いつもメリルを置いていって心配させている自覚もある。でも。
「…でも、お母様は。」
「奥様は騎士の道を行かれました。シャロン様は、騎士になりたいのですか?」
私は答えに窮してしまう。
将来の事は深くは考えていない。だって、その前にやる事が大きく人生を左右するのだから、そちらに注力しておきたいの。
騎士になるのも一つだとは思うけれど、なる覚悟をしたのかと問われれば答えは否だ。
「……ごめんなさい、メリル。」
彼女の意思に沿えない事を謝った。
今、騎士を目指す覚悟がないからと言って、自衛だけに留める気はない。オレンジ色の瞳をしっかりと見据えて、私は温かい手をぎゅっと握る。
「私は、いざ誰かを守りたいと思った時に、戦う術を持つ人でありたい。」
何もできない役立たずでいたくないから。
力及ばずに倒れ、涙し、無力感に苛まれるあの子を見てきたから。
メリルは私の目をじっと見つめ、堪えるようにゆっくりと目を閉じて頭を下げた。
「……過ぎた事を申しました。」
「いいの、ありがとう。私を心配してくれて」
私は膝上で握り合う手の片方を離し、顔を上げたメリルの、オレンジ色のボブヘアをそっと撫でてみる。いつもは届かないから。
小さい頃からずっと側で私を守ってくれている、この暖かい色が好きだ。
されるがままのメリルは、膝上に残った私の片手を両方の手で包むようにしている。
「シャロン様。守るために、人を――…」
そこで言葉は途切れてしまって、私は髪を撫でていた手を引っ込め、続きを待つ。
メリルは躊躇うように目をそらしてから、苦笑した。
「……いえ。何でもありません」
「そう?」
「えぇ。きっとベインズ先生からお話があるでしょう。…もしかしたら、ダンからも。」
首を傾げる私の前で、メリルは手を離して立ち上がった。
「それにしても、良かったですね!アクセサリーの謎がわかって。」
「ロイさんとリビーさんに贈ったという物ね。予想外で驚いたわ」
てっきりアベル自身に、誰かパートナーがいるのかと思ってしまった。
メリルの「ウィルとお揃い」説もあったけれど。リビーさんと婚約した話では、と私が言った時の皆の反応はすごかったわね。
ウィルは青い瞳をまんまるにしているし、サディアスは理解不能という顔で、チェスターは「何それ!?」って笑ったような顔で…そのまま笑っていたわね、確か。
アベルは愕然としていた。喋っていたら「正気?」とか聞かれていたかもしれないわ。
「殿下の恋のお相手は、まだ未定という事ですね。」
「そうね…どうなのかしら。」
この前会った時は、カレンとアベルはあまり話していなかったはず。
一目惚れしてもおかしくない可愛らしさではあるけれど、そこは最も攻略難易度の高いアベル殿下。ウィルも普通に話していたし、やっぱり恋が始まるのは学園でなのだわ。
「…シャロン様、ちなみに本命はやはり」
コンコンコン!
と、メリルの言葉を遮るように素早いノックが聞こえた。
「メリル、そこにいますね?これ以上シャロン様を夜更かしさせるつもりなら――」
ランドルフだ!
部屋の明かりと話し声とでバレてしまったのだろう。
私は慌てて布団に滑り込んで背を向け、メリルが消灯して速やかに部屋の入口へ向かう。扉が開く音がして、窓に廊下からの細い明かりが漏れて、消える。
廊下で二人が何か話しながら遠ざかっていく。さすがに内容は聞き取れなかったけれど、注意されているに違いないわ。うぅ、ごめんなさいメリル。時間に気を付けておけばよかった。
「………。」
私はそろりと起き上がり、ベッド脇の窓を開けて屋根を振り返ってから、静かに閉じた。




