5.問いかけ
「困ります、第二王子殿下!」
ぎぎぎ、と音がしそうな固さで首を回すと、薄い笑みを浮かべた黒髪の少年――アベル第二王子殿下が、ランドルフの声を完全に無視してこちらへ歩いてきていた。
ランドルフの慌てようを見るに、きっと玄関で立ち止まりもしなかったのだろう。彼はそういう人だ。
「アベル…!」
ウィルがすぐさま立ち上がり、険しい表情で彼を睨みつける。
普段とは違う彼の様子に、メリルが驚いた顔をしているのが視界の端で見えた。
前世を思い出した私は、ウィルからアベルへの態度はそうだとわかっている。
少し寂しさを覚えながら私も立ち上がり、金色の瞳をまっすぐに見つめて淑女の礼をした。
筋肉痛がひどいけれど、なんとか堪えて深く頭を下げる。
「シャロン・アーチャーと申します、第二王子殿下。昨日は大変なご無礼を致しました。」
「シャロン、頭なんて下げなくていい!」
「気絶した私を助けて頂いたと聞きました。不愉快な思いをさせてしまった上に、お手を煩わせてしまい……本当に、申し訳ありませんでした。」
ウィルが息を呑む音が聞こえた。
そのまま俯いていると、革製のブーツが近付いてくるのが見えて――見事に、私をスルーしてテーブルへ行った。
「貰うよ。」
「えっ、あっ、はい。どうぞ。」
明らかに私に言われた声に、つい許しもなく顔を上げてしまった。
そういえば、来た瞬間に「それ貰っていい?」と聞かれていた気もする。テーブルのお菓子の事だろうか。
彼は私が食べていたものよりひと回り大きめのクッキーを口に放り込み、さくさくと咀嚼し始める。
「アベル!シャロンに失礼だぞ、お前!」
「うん、うん。」
ウィルに詰め寄られてもどこ吹く風。
適当な返事をして兄の席にあったナプキンで指を拭き、彼の瞳がようやくまた私を見た。
「悪くない。」
「よ、よかったです…?」
「自己紹介は昨日したね。十二歳でしょ?それだけ言えれば上等だよ。君より失礼なご令嬢なんて、掃いて捨てるほどいるんだから。」
いきなりすらすらと話し始めたわ!
悪くないとは結局、私の謝罪に対してなのかクッキーなのか、どちらかしら。というか、貴方も十二歳では。
つい呆気にとられてしまったけれど、そう。ウィルが殺される前の彼は、こんな感じなのだ。
ランドルフが既に指示していたのか、メリルが動かずとも彼の分のティーセットが運ばれてきた。
椅子は元から四脚あるので問題なく、アベルが座った椅子の前にてきぱきと準備される。
「座りなよ。」
「…はい、承知致しました。」
「お前の家じゃないんだぞ。」
促されるまま席に戻ると、ウィルが私とアベルの間をちらちらと見て、少し眉間に皺を寄せた。
その空間に何か見えたのだろうか、私には何も見えないけれど。
アベルが腰に提げている剣も、ウィルからはテーブルで死角になっているでしょうし……そういえば、ウィルは剣を持ってきた事がないわね。今日も。
二人はお揃いの剣を持っているはずなのだけれど。
「何をそんなに見てるのかな。」
「っ失礼致しました。こんなに近くで、剣を見た事がなかったものですから……。」
アベルにじろりと視線を寄こされて、慌てて頭を下げる。人様の、それも王子殿下の剣をじろじろ見るのは失礼だったわ。本当に気を付けなくては。
いきなり女性を殴るような人ではないと知っているけれど、声にも目にも迫力があって緊張してしまう。
「アベル、シャロンを怖がらせるような真似はやめてくれ。」
「…へぇ?僕が怒られるんだ。」
「シャロン、顔を上げて。気にしなくていいよ」
「ありがとう、ウィル。でも今のは間違いなく私が失礼だった、わ……。」
言ってから気付いたけれど、アベルの前でウィルにこんな口調でいても、良いのかしら。
つい窺うように隣を見ると、私を見ていたらしい金色の瞳と目が合った。
「そんなに怯えなくても、本人が許してる事を僕が咎めたりはしないよ。」
「あ、ありがとうございます。」
心が読めるのかしら…いいえ、勿論そんな設定はなかったけれど。
焦った気持ちを落ち着かせようと、私は紅茶を口に運んだ。先程までもお茶をしていたはずなのに、どうしてこんなに喉がカラカラなのかしら。
ウィルは不機嫌そうにアベルを見やってから、眉尻を下げて私に声をかけた。
「シャロン、アベルの事も呼び捨てでいいよ。敬語も使わなくていいから。」
「えっ!いえ、その。」
本人が許してないと流石に難しいのだけれど…!
どうしたものかとおろおろ二人を見比べていたら、クッ、と短い笑い声がした。
「仮にも僕達は王子だ。それは可哀想ってものでしょ。」
「ならさっさとお前自身が言えばいいんだ。別に構わないんだろう。」
「はは、わかったわかった。」
アベルが笑ってる事に驚いてしまった。
いえ、作り笑い以外でも笑う事があるのはもちろん知っていたし、笑顔のスチル画像は大変人気を博しましたけれども!
それを目の前で、しかも出会ってさほど経たずに見られるとは。
「ウィルと同じように喋ってくれて構わないよ。呼び捨てでいい。」
「わかり、…ありがとう。えぇと、アベル。」
「うん。」
目を細めて微笑まれて、叫ばなかった私を褒めてあげたい。
ウィルは正統派の王子様という格好良さだけれど、アベルのこの、少し色のある――って、何を考えているのかしら、私。少し前世の記憶に毒され過ぎているかもしれない。
わ、私達まだ十二歳の子供なのよ、子供。心を落ち着けましょう。空を見つめて。
「シャロン?どうして遠い目を…」
「さぁ?女性は考え事が多いって言うよ。」
「…アベルお前、適当に言っているだろ。」
「そうだね。」
むむむと不機嫌になるウィルを可愛いなとぼんやり思いながら、私はまた一つクッキーをかじった。
いつも穏やかな口調なのに、弟に対してはちょっと雑なのがほっこりしてしまう。
――なんて。
ウィルのアベルへの感情は、そんな可愛らしいものではないとはわかっているのだけれど。
それでも、ウィルもなんだかんだ弟が可愛いから色々と許しているのでは、とも思う。
この二人には、もっとわかり合ってほしかった。
生きているうちに。
「じゃあ、シャロン。……その、またね。」
「えぇ、また遊びに来てね、ウィル。いつだって歓迎するわ。」
少し不安そうな笑みを浮かべたウィルの手を取って、私はしっかりと彼の目を見て微笑む。
大丈夫、これからも私はこの庭にいる。
「本当にありがとう。君が友達でいてくれて嬉しいよ。」
夕焼けに照らされて赤くなったウィルの笑顔が、眩しかった。
ぎゅっと握った手に想いを込める。
貴方を死なせはしない。
「私もよ。待ってるから」
「うん、それじゃあね。」
手を振ったウィルに、門で待機していた護衛騎士が一振りの剣を渡す。
持って来ないのではなく、騎士に預けていたのね。護身用のはずだけれど、我が家は安全だと信頼してくれて――
急に腕を引かれた。
「っ!」
驚いて声を上げる暇もなく、目の前にアベルの整った顔があって呼吸が止まる。
落ち着いて、私。
立っていた場所から一歩、ただしウィルからは門柱と植え込みで死角になっているというだけ――いえ、この位置だとギリギリ使用人からも、見えていないかもしれない。
焦った瞬間に彼の手が離れた。
時間はほんの一瞬。
そう。彼はただ、ちょっと勢いよく自分の方を向かせただけ。
「君、どうして僕を皇帝と?」
先程までより低い声。
脅すような声色ではないのに、口元は笑みを浮かべているのに……なんて綺麗で、冷たい目。
心臓がドクドクと早鐘のように鳴り出して、背中にじわりと汗をかく。
早く答えなくては。
早く、正しく。
言ってはならない事がわかっているのなら、その逆を。
「緊張してしまって…ただの、言い間違いですわ。」
つい口調を外行きに繕ってしまった。
もっと怪しんでくれと言うようなものじゃないのと、心の中で自分に突っ込みを入れる。
「ふうん?」
アベルが怪訝に目を細める。
私は決して目をそらさないように努めながら、静かに息を吸った。
大丈夫。自信を持って。
「だって――王になるのは、ウィルだもの。」
彼の笑みが消えた。
僅かに眉も動いたかしら――と思えば、また私の身体はぐるりと反転して。
「見送りありがとう、たまには僕も顔を出すよ。」
「えっ、あ、」
自分の姿勢を確認する前に手を離され、危なくはなかったけれど、とと、とたたらを踏む。
顔を上げた時にはアベルはまた、口角を上げるだけの微笑みを浮かべていた。
「お前は来なくていい!そもそも城を抜け出すのを控え……こら、早くこっちに来なさい!」
シャロンに迷惑をかけるんじゃないと、馬車の入口でウィルがぷんぷん怒っている。
ふと彼の護衛騎士の一人を見ると、馬車があるのになぜか、鞍のない馬を一頭連れていた。護衛騎士のお二人、もしかして片方は馬で来たのかしら。
なんて考えていたら、アベルはひらりとその馬に乗った。ウィルが眉を顰める。
「お前、馬車で出発しただろう。」
「そうだったかな?まぁ、帰れればいいでしょ。――ではアーチャー公爵令嬢、麗しい貴女に再び逢える日を心待ちにしております。」
どうしてかわざとらしくそんな事を言うアベルに、私はきょとんと首を傾げ――単にウィルをからかいたいのだと気付き、つい顔をほころばせた。
「アベル!どういうつも…まさか、おい!シャロンは俺の友達なんだぞ!!」
ウィルが慌てた様子で馬車に乗り込んだ。
アベルの名を呼ぶか呼ばないかで既に彼の馬は駆け出していたから、急いで追いかけるのだろう。
ガタンと窓が開いて、ウィルが手を振ってくれる。
「シャロン、じゃあまた!…会えるのを楽しみにしてる!」
「私も楽しみにしてるわ!またね、ウィル!」
笑って手を振りながら、心に広がる喜びに気付く。
ああ、そうか……私達は、ゲームの裏でこんな風に過ごしていたんだ。
やがて馬車は見えなくなって、私は手を下ろした。
今日のお茶会は、主人公では絶対に見られないシーンだったわね。
「不思議なご兄弟ですね。」
「えぇ…。」
つつ、と近付いてきたメリルの言葉に、小さく頷いた。
いつも穏やかで優しいのに、アベルが来ると不機嫌を隠せないウィル。
礼儀正しいのか正しくないのかわからないアベルは、やっぱりどこか掴めない人だったけれど。
「でも仲が良さそうで何よりでした。相当な不仲という声もありましたが、噂はやはり噂でしかないのですね。」
「……そうね。」
「メリル!貴女もしや、またお嬢様と余計な話を…」
ランドルフだ。
私とメリルは息の合ったターンを見せて、早足に屋敷へと歩き出した。
「さ!シャロン様、これから夜ですもの。お部屋に戻りましょうね~」
「えぇ、行きましょうメリル。私達雑談なんて一つも、していませんものね!」
「誤魔化されませんぞ!待ちなさい二人とも!」
つかつかと歩きながら、私はウィルとアベルの笑顔を思い出す。
今、これからならまだ――間に合うと信じて。
◇
「はぁ……。」
ため息をついて、私は少しずり下がった眼鏡を指で押し上げる。
片付けをするならもっと上手いやり方があるはずで、あの方ならそれを命じられるだろうに、全て隠してしまえばいいのに、そうしない。
「何か、ありますか?」
後ろに控えている男が戸惑って聞いてきた。
これに気付いていないとは、観察力がまったく足りない。本当に大人なのだろうか。
「わかりませんか。」
私の声に苛立ちと呆れが含まれている事には気付けたのか、男はやや不快そうに顔をしかめた。
それでも立場はこちらが上だ。
嫌なら代わりはいくらでもいる。もちろん、逃げるなら生かしてはおかないが。
「ここに。」
既にはっきりと見えているものを、わざわざ指で示した。
「轍と足跡…を、消した痕跡です。そして木くず、あとこちら、乾いて黒く見えづらいですが、血です。」
「……よく、お気づきで。」
「見ればわかる事です。」
しかし、罪の立証に至る程ではない。まったくもって。
私はもう一度ため息をついてから、城へ戻るために踵を返した。
「流しはお願いしますよ。《また第二王子の悪い癖が出たようだ》とね。」