58.おべんきょうもする
とある日の午後、我が家の庭には太い木の棒が三本立てられていた。
丸い的を掲げたそれらが何かと言えば……もちろん、私の魔法練習用である。
「宣言。水よ、この手に。あの的へと飛んで!」
以前は「手のひらほどの水」と言っていた部分を「この手に」と言い換える事で、少し短縮して水を生み出す事ができた。
場所は手の中に限定されてしまうけれど。
加えて「飛んで」の補助として、水のボールを投げ込むイメージで腕を振り下ろす。
ひゅーんとスローペースに飛んでいった水の塊は、狙った的をぱちゃりと濡らしてくれた。
今の私には、十メートルも遠い先で魔法を生み出す事はできない。けれど近場で発動させてからそこへ飛ばす事は可能――ということ。
「宣言、水よ両手に。あの的へ飛んで!」
同時に二つやってみる。
これは発動するけれど、どちらか片方は的から少し外れてしまった。まだまだ未熟だわ。
「うーん…何ができるか把握しておくって、本当に大事なのね。」
「はい。いざという時、宣言のやり直しなんてしていられませんから。」
メリルが深く頷きながら紅茶を淹れてくれる。
休憩を促されていると察して、私は的に向かって構えていた腕を下ろした。気付けばいつものティータイムをとっくに過ぎ、太陽もすっかり傾いている。お腹がくうと鳴った気がした。
弟はどうしているかと数メートル離れた隣を見ると、的に向かって手を伸ばしたクリスは目を閉じて何か呟いている。
「むむぅ…せんげん…ひ……せんげん、かぜ……」
どうやら今日も魔法を色々試しているみたい。
まだ五歳なのだから、そう急く必要はないと思うけれど…メリル達からすれば、いきなり身体を鍛え始めた私も同じようなものだろう。
だから私も、クリスの努力を止めるつもりはない。この練習のお陰で、早めに魔法が使えるようになるかもしれないし。
「クリス、休憩にしましょう。」
「ん!あねうえもやすむ?」
「えぇ、だから一緒に。」
「うん!」
ぱっちりと開いた銀色の目は、暮れかけた太陽の光を反射してきらきら輝いている。
私は可愛い弟を抱きすくめ、ひょいと抱えてティーテーブルへ向かった。大きくなってきたクリスも、鍛えている姉上にかかれば軽いものです。
「魔法の練習はどう?クリス。」
「よいかんじ!」
「そうなの?」
傍から見ていると、特に何もわからないけれど。クリスの中ではちゃんと進捗があるらしい。
「さわさわしてるのがざわざわすると、もぁーってなるんだけど、まだぺかーってならないの。」
なるほど、私の弟は感覚派らしい。
「ぺかーってなるといいわね。」
「うん!」
椅子に下ろしてあげると、クリスはにこにこしてマフィンをかじり始めた。
魔法を発動しようとして何か感じている事があるのなら、クリスは魔力の流れを感覚的に理解できているのかもしれない。
私より筋がいいのでは。天才かしら…?
私は私で、魔力での身体強化も少しは慣れてきた、と思う。
腕だけ、脚だけ、という強化なら数秒でできるようになった。目立つからなかなか試せないけれど、二メートルくらいは軽くジャンプできそうだわ。たぶん。
「ぺかーってなったら、ぼくもあねうえをたすけられるとおもうんだ。」
「ふふ、ありがとう。」
楽しみにしてるわねと微笑んで、クリスの銀髪を撫でた。
ゲームには出てこないキャラクターだから、クリスがどうなるかは全然わからない。
もしかすると、サディアスを超える魔法の使い手になったりして。二年後に魔力鑑定を受けたら、最適はなんの属性かしら?学園ではウィル達に匹敵する人気ぶりなのでは……。
この子が学園に通う頃なら、私は二十歳くらいになっているわね。
制服姿を見るためにも、それまで生きていられるようにしなくちゃ。
「しかし、クリス様。魔法以外の勉強を疎かにしてはなりませんよ。」
「む…」
メリルの一言に、クリスがわかりやすく目をそらしている。
とぼけたように唇を突き出しているのが可愛くて、つい頬が緩んでしまうわ。
「シャロン様からもお願いして頂けませんか。いえ、一番はチェルシーの甘やかしがいけないのですが…」
言いながらメリルが壁際に目をやると、クリスの専属である亜麻色のお団子頭をしたチェルシーが、これまたわかりやすく目をそらして唇を突き出している。クリスのあの顔はチェルシーのがうつったみたいね。
くすくすと笑ってしまいながら、私は弟の頭を撫でる。
「クリス、お勉強が嫌なの?」
「あねうえがいっしょにいるなら、できるよ。」
「あらあら。ふふ」
「笑いごとではありませんよ、シャロン様。授業中も窓に駆け寄って、鍛錬の様子を眺めておられるようですから。」
「そうなの?」
「えぇ。」
全然気づかなかったわね…。
となると、今こうやって一緒にいるのは家庭教師が諦めた結果なのかしら。
それとも、今日の分を終えたから後は自由で良いと言われたとか?…違うわね、それだったらメリルが苦言を呈する必要はないもの。
「姉上のせいで気が散ってしまうのね。ごめんなさい、クリス」
「あ、あねうえのせいじゃないよ。ぼくが……ぼくがわるいこなの。」
「明日から頑張れそう?」
「うぅ…」
クリスは少し舌足らずで喋り口調がゆっくりだから、つい小さな子として見てしまうけれど、授業の成績は二、三歳は上のレベルまでできると聞いている。
姉が急に身体を鍛え始めたりしなければ、気が散るような事もなく、順調に公爵家の跡取りとしての教養を身に付けていたのかも。
「べんきょうより、おにわにいるほうが、あねうえにあえるもん……。」
「うっ…!」
シュンとして項垂れる弟を見て心臓がギュンとする。
姉上もいっぱい一緒にいたいわ!もちろん!と言いたいのを堪えて、落ち着きを取り戻すために紅茶を一口。ふう。
「お勉強を頑張れたら、晩御飯の後に姉上もクリスの部屋に行こうかしら。」
「ほんとう!?」
「えぇ。と言っても、姉上も少しやる事はあるから、それを貴方の部屋でやるというだけなのだけれど…。」
悲しいことに、構い倒してあげられるわけではない。
私は私で調べものもあれば、自分の授業での課題であったり、復習をしたりもする。それでも同じ部屋にいる事で、多少クリスの気もおさまるのではと思ったのだ。
もちろん、代わりにこちらの集中切れなどが起こりやすいわけなのだけれど。そこは頑張りましょう。
「じゃあやくそく!」
「えぇ、約束ね。」
小さな指を絡めて、私達は笑い合った。
「ありがとうございます、シャロン様。」
「大丈夫よ。私も最近、たしかに…あまり構ってあげられてなかったし。」
メリルと小声で会話しながら苦笑する。
私の横で木の枝やおたまを振る姿を愛らしく思っていたけれど、それは私が鍛錬に調べものにと一人でやっていたせいで、クリスと過ごす時間を削ってしまった結果だ。
可愛い弟の事をもう少し顧みなくては。
チョコチップクッキーをさくさくと食べながら、私はジェニーの事を考える。
私にとってクリスがとても大事であるように、彼女はチェスターにとって大事な妹であり、弱みでもある。
その命を守るために、チェスターはウィルを手にかけてしまう――…ゲームのシナリオに書かれたその未来を、どうにかして変えなくてはならない。
改めてお会いしたいという手紙を出したのは今朝の事だ。
きっと数日中にはチェスターから返信があると思う。
『お二人と、ウィルフレッド第一王子殿下のご活躍によって、兄が早くこちらへ帰る事ができたと伺いました。本当に、ありがとうございました。』
『お兄様が危ないところに行くなんて駄目です!』
兄想いの子だった。
この前は初対面という事もあって、ジェニー個人とじっくり話ができたとは言えない。だからこそ、カレンが言った「本人が何を望んでいるか」という言葉にはぎくりとさせられた。
私は病とチェスターの未来ばかり考えていて、ジェニーの症状や状況は気にしても、彼女の気持ちには目を向けられていなかったのではないだろうか…なんて、考えたりもして。
今度は可能なら、少しだけでも二人で話す時間を作れたら嬉しいと思う。
ゲームでは、チェスターの語りはあってもジェニー自身の語りはない。
攻略対象でもない、サブキャラなのだから当然なのだけれど。
彼女の病に魔法が関係しているとして、その方法は未だに不明。
もし新種の病だとしたら治療は見込めないかもしれない。……まずは彼女自身を知って、そこから何か糸口を見つけられたら…。
それとも、何も解決に至らないけれど、せめて彼女の望みを叶えられたと。
そんな結末を迎えてしまうのだろうか。
――そんなのは、嫌だわ。
紅茶をすいと飲み込んで、私は眉を顰める。
強欲な私は、カレンの言う「本人が望む事」だけではなくて、病も無くして、元気になって、ご両親も事故に遭わなくて、チェスターが何の憂いもなく学園へ行けるような、そんな未来にしたい。
できる事の少ない小さな私でも、足掻かずに終える事なんてできないから。
少しでも前へ、僅かでも手を伸ばしたい。
……街に出かけた日、女神像の画集を見つけられてよかったわ。
太陽の女神様は最上級の治癒の魔法の使い手だったという。その話題から入れば、病気についてももう少し詳しく何か聞く事ができるかもしれない。
決意を新たにして、私はナッツが乗ったクッキーを手に取った。
「そうだ、あねうえ。」
「なぁに?」
さっき私が食べていたのと同じチョコチップクッキーを取りながら、クリスがぴしりと挙手している。
聞き返しながら上がった手に指を絡めれば、にへらと笑ってにぎにぎしてくれた。
「おうじさま、またあえるかな?」
「アベル?」
昔からバーナビーとも遊んでいたクリスは、彼の事はおうじさまと呼ばない。
私が聞くと、クリスは嬉しそうに頷いた。
「うん!」
「そうね…また来てくれると思うけれど。」
私は少し考えながら答えた。
花壇に植えた花が咲いたら見に来てくれる予定だけれど、あれはまだまだ咲かない。それより前に来るかどうかは彼次第といったところだ。
それとも、花が咲く以外でも、呼んだら会いに来てくれるのだろうか?
「クリス、アベルに会いたいの?」
この前レオとアベルが手合わせをした時、クリスは「つよいねぇ」とにこにこしていた。
それを思い出しながら聞いてみると、クリスは大きく頷いた。
「つよいのみたいの。そしたらね、ぼくもそれくらいつよくなりたいっておもう。」
強い人を見ると励みになるって事かしら?確かに、そうね。
私はふむふむと頷いた。
手紙を出すならウィルと連名にすべきと言っていたけど、その場合ウィルとスケジュールを合わせて来てもらう事になる?少し申し訳ないような気も……
なんて考えていたら、馬の蹄の音が聞こえてきた。
庭からそちらを見たって、見えるのは生垣と柵ばかりだけれど。
音はどんどん近付いてきて、玄関の方で止まる……という事は、どこかの自由な第二王子殿下が来たわけではないらしい。彼は直接庭に来るものね。
噂をすれば影という言葉を思い出していた私はちょっとだけ落胆したのだけれど、そこから一分も経たない内にランドルフが姿を現した。
「シャロン様、早馬で報せがありました。」
「私に?」
目を丸くして聞き返した。てっきりお父様かお母様に用事がある誰かだろうと思っていたわ。
「ウィルフレッド第一王子殿下と、アベル第二王子殿下…」
「え…」
二人に何かあったのだろうか。胸に不安が押し寄せる。
「――と、サディアス様とチェスター様が、これからいらっしゃるそうです。」
「………はい?」
それは一体…何が起きたのかしら?




