56.ダンの未来 ◆
『………。』
目を開いて、最初に思ったのは「失敗した」の一言だった。
夢でない事はすぐにわかった。
柔らかく細めた目にある薄紫の瞳は優しく、同じ色の髪が艶やかに蝋燭の光を反射している。
女子生徒がこぞってつけるキツい香水とは違う、控えめな甘い香りはまさしく彼女のものだ。それが普段より色濃く感じられるのはきっと、湯浴みを終えた後だからだろう。
そんな事を、どこか冷静に考えた。
そしてどうしてか、頭に手をかざされている。
記憶を遡れば、目を開ける前に幾度か撫でられる感触があった事を思い出した。心の中でだけ舌打ちする。
触れられてなお起きなかったのか、俺は。
『……いつ入ってきた。』
不機嫌に尋ねて、ソファの上で横向きにしていた身体を仰向けに変える。
すぐ横から「ふふ」と笑い声がした。何がおかしい。
『さっきよ。』
それが何分前かと聞いている――そもそも、夜中に一人で来るな。
無言で眉を顰めると、彼女は立ち上がって離れた。コツコツと小さな靴音が響く。
シャツの襟元と袖口は寛げたままだが、彼女を相手に今更直す意味もない。
時計は仮眠を始めてから一時間半を示していた。ふざけるな。俺は一時間で起きる予定だった。
『…三十分前か』
『えっ、よくわかったわね。来た時に一度起こしてしまっていた?』
『……はぁ。』
本当にふざけるな。どこが「さっき」だ。
水を注ぐ音がして彼女を見ると、グラスを持って戻ってきた。確かに喉は乾いている。
腕をついて起き上がり、肘置きの上へ投げ出していた足を床に落とした。
『どうぞ。』
『……あぁ。』
差し出されるままに受け取り、一気に飲み干す。彼女はなぜか礼を言われたかのように微笑むと、空になったグラスを回収してテーブルへ置きに行った。
『鍵をかけないなんて不用心よ、アベル。』
小言が始まった。
『貴方、王子としての仕事もここに持ち込んでいるでしょう。』
『誰か来れば気付く。』
『気付かなかったじゃない、三十分も。』
むっとして振り返った彼女に、執務机を指差した。
積んだ書類は後として、仮眠後にやるつもりで置いた書類が二束ある。
『こっちに来るなら、そこの書類もだ。』
『もう…これ、私が触っていいものじゃないでしょう。まったく』
書類の端を整える音が聞こえる。俺はサイドテーブルに出しっぱなしになっているインク壺の蓋を開けた。ペンは横に転がっている。
脚を組んで手を差し出すと、彼女は抱えた二束のうち片方だけを渡してきた。
『おい』
『こちらの報告書は学内のものですよね?生徒会役員である私が確認し、会長に要点をご報告致しますね。』
この笑い方は譲らない時のものだ。
短く息を吐いて好きにしろと手振りで示せば、満足そうに笑って俺の隣におさまった。書類に目を落とし、ページをめくる。
『明日からはちゃんと鍵をかけてね。』
まだその話だったのか。
『学園内とはいえ、貴方は命を狙われる事もあるのだから。仮眠するなら余計によ』
『俺にあれだけ気付かせないのはお前くらいだ。』
『そんな事ないでしょう。』
『お前に慣れ過ぎた』
横で書類をめくる手が、一瞬だけ止まるのが視界の端に映った。本気で言っている事が伝わったらしい。
こいつは昔からどうにも、変なところで鈍い。お陰で時折会話に苦労する。
『…まぁ、お前になら殺されてもいい。』
彼女のような人間が、俺の存在を間違いだと断じるなら。
『――冗談でも言わないで。』
軽く放った本音は、予想以上に強く否定された。
『すまない。もう言った』
『二度と。』
『わかった』
どうやら本気で怒らせたらしい。
冗談を言ったつもりはなかったが、それは言わないでおくか。
しばらく、紙をめくる音とペンをはしらせる音だけがする。
相手をだいぶ怒らせたのに、居心地が悪くないというのも不思議な話だ。
『もし…万が一、私が貴方を殺そうとしていたら。それは何かの魔法で操られている時だわ』
『脅しではないのか?』
『脅されたら貴方に相談するもの。』
まずいだろう、それは。
敵方は確実に監視しているはずだ。
『だから、アベル。もしも私が貴方を殺そうとしたら、殺されちゃ駄目よ。』
『操られているという事は、お前自身が人質になりえるが。』
『あら、非力な私を拘束するくらい、アベル殿下には簡単なお仕事でしょう。だから絶対に勘違いしないで。私はこれまでもこれからも、貴方にいなくなってほしいと願う事は無いわ。』
『……そうか。』
どうだろうなと思いながら、俺はただ相槌を打った。
いずれ玉座についた時、俺にできる事は限られている。
父にできる事が、兄にできただろう事が、俺にできるとは限らない。上に立つ者としての在り方が違うからだ。
俺がする事の中にはきっと、お前を失望させるものもあるだろう。
『非力な自覚があるなら、夜中に男の部屋に来るな。』
『ここは貴方の部屋じゃなくて生徒会長室よ。』
『無駄な屁理屈だ、公爵令嬢殿。』
『心配ないわ。だって貴方、私にそんな気これっぽっちもないでしょう。』
『………。』
手を止めて、じろりと目をやった。
こちらを見ていた彼女の肩が僅かに跳ねる。蝋燭の炎の揺らめきで、その頬が赤らんでいると錯覚しそうになる。もし錯覚でないとしたら、発言を恥じているだけだろう。
――確かに、俺は彼女にだけは手が出せない。
たとえ正式発表前だったとしても、喪った兄の…ウィルの婚約者だった、彼女には。
『脅した方が言う事を聞くなら、そうしても構わない。』
『できないわ、貴方は優しいもの。……それに、万一彼女に見られでもしたら、嫌でしょう。』
シャロンは長い睫毛を伏せ、どこか落ち込んだ声で言う。
誰の話だ、それは。俺に言い寄ってくる生徒の中に、面倒な手合いがいるのか?
『と、とにかく。手伝える事は手伝うから、貴方にもちゃんと休んでほしいの。』
『お前の時間を削る気はない。それだけ終えたら――』
『私を締め出したら、貴方が終えるまで無駄に廊下に居続けますからね。』
『……我儘な』
『えぇ、そうよ。諦めてね。』
話は終わりとばかり作業を再開する彼女を数秒だけ眺めてから、俺もペンを持ち直した。
◇ ◇ ◇
馬車の中で、シャロンはすっかり眠ってしまっていた。
何事かずっと考えていたようだし、ただの下町散歩とはいかなかったから疲れがたまったのだろう。その寝顔をじっと見つめるメリルの表情は暗い。
「……なんだよ。」
空気に耐え兼ねて、ダンが苦い顔でメリルを睨みつける。言いたい事があるなら言えと。
メリルはちらりとダンを見て、シャロンに視線を戻してからため息をついた。
「どれだけ言い含めても、この方は行ってしまうのだと思っただけです。」
「間に合ったんだからいーだろ。」
「えぇ、今回は。ダン、貴方がいてよかった。」
素直な褒め言葉に思わず瞠目して、ダンはまじまじとメリルの横顔を見る。
まるでこの後どうせ貶されると思っているかのように。
「私を抱えて屋根上までの移動、安定した速度での尾行、戦闘確定からの加速…見事でした。」
「指示したのはあんただろ。」
「しかし私では、あれほどの機動力はありません。」
「俺は他が使えねぇ。」
ダンは馬上で剣を振りかざす男相手に、風をまとったままでの飛び蹴りを狙った。
相手によっては風が剣を弾くより先に、脚を突き刺すなり切るなりしてきたかもしれない。
それを取り落とさせたのは、屋根より高く飛び上がってすぐにメリルが発動し、ずっと二人についてきていた火矢だ。
風の魔法で飛ぶだけならまだしも、見るからに火を携えていれば騒ぎになる。
それもあってメリルは透明な状態で火矢を維持し続けた。ダンの風による加速を妨害しないよう、一定の距離を保ったまま。
「それに、間に合わなくてもあの王子サマなら余裕だったんじゃねぇか。」
「あの時それを言わなかった貴方を、評価しています。」
「……ケッ。なんだそりゃ」
ダンは苦々しく吐き捨てて頭を掻いた。
メリルの頭には、加速した時に彼が呟いた言葉がよぎる。
『あンの馬鹿王子ッ…!』
それは間違いなく、シャロンを連れたまま戦闘に入ろうとしたアベルへの文句だった。
敵が二人である以上、馬から下ろして離れる方が危険だという事も、逃げようと背を向けるのも危険だという事も、少し考えればわかったけれど。
それはそれとして、何をしてくれているんだと。
そう言わんばかりの声は確かに、シャロンを心配していたのだから。
「貴方がシャロン様と共に王立学園に行けるよう、私からも進言します。」
「…前に言ってた、護衛役か。」
メリルは頷いた。
通常のように他から雇う計画もそのまま進めているが、ダンを学園に入れる事そのものにも価値がある。そして入れるなら当然、シャロンと同時期が望ましい。
「ダン、貴方は敢えてその喋り方を続けているようですが、地頭の良さはランドルフさんもわかっています。屋敷で学ぶ以外にも、学園での授業を受ける事は貴方の可能性を広げますよ。」
「……金返したら俺は自由って約束だろ。入学しねぇ方がさっさと返せる」
「そうですね。望まないなら無理強いはしません」
彼は今更元の生活には戻らないだろう。
それを確信しつつも、メリルはそう返した。彼が素直な少年じゃない事は承知の上だ。
「けれど学園に入り、望んで努力をすれば、貴方は従者か……果ては執事も目指せると、私は思います。」
「ハ、こんな目つきの悪ィ執事がいるかよ。」
「あら、ランドルフさんの目つきが良いと思ってるんですか?」
「………あんた、結構言うよな。」
呆れ顔で言うダンに、メリルは珍しくも悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。大切なお嬢様の教育に悪いので、普段は隠している表情だ。
そしてダンがぽかんと口を開けている横で、スン、と元のすまし顔に戻った。
「シャロン様は護身を学ばれていますが、今はまだ、本当に命を狙われたらひとたまりもないでしょう。」
「そりゃそうだろ、あんなおままごと剣法。」
「ご本人にそんな言い方してはいけませんからね。」
シャロンが眠っているのを改めて確認しながら、メリルが窘める。
ダンは眉を吊り上げ、馬鹿にしたように肩をすくめた。
「いけませんかねぇ?言った方がお嬢のためだと思うぜ。」
「……人を傷つける方法を学ばれているわけではありません。」
「それで死んだらお終いだろーが。」
「だから護衛がいるのです。だから、機動力も攻撃力もある貴方が。」
ダンは顔を顰めた。
シャロンは懸命に学んでいる。それは窓越しに見た庭の風景でわかっている。ただの令嬢の道楽でできる事ではない。
しかしあれでは、手合わせには強くなれても、自分を殺そうとしている相手を本気で斬れるか怪しいものだ。
――レオがそのへん気付かずに合わせてんのも問題だわな、あの馬鹿。
レナルドとかいう騎士がいつそこに言及する気なのか、屋敷の者達と同じ考えなのか、ダンにはわからない。
今のシャロンに護身用の剣を持たせたところで、相手に切り傷を与えただけで立ちすくんでしまう可能性は高い。その瞬間に反撃されてアウトだ。
「シャロン様は万が一の、護衛の手が届かない隙間を凌げれば充分です。本来それすら…」
「あのレナルドって奴も同じ考えか?」
「…特に、聞いてはおりませんが。」
なら、まだ言うのを待ってもいいか。
呑気にすよすよと眠る少女の顔を眺めながら、ダンは片眉を上げる。
実際、今は身分を知っている者より知らない者にたまたま狙われる危険の方が高い。
シャロンは公爵令嬢なのだ、息子の嫁として数多の貴族が欲しがっているだろう。殺すより生かして利用した方が、よほど美味い汁が吸える。
家柄から言って、結婚相手として最も有力なのはあの王子のどちらかだろう。
彼らが他国の王女を娶るなら話は変わるが、王子との婚約話が出れば、王妃の座を狙っていた令嬢を持つ貴族達も色々仕掛けてくるかもしれない。
「進んで手ェ汚せとは言わねぇが、……過保護なんじゃねーの。」
メリルがきつく眉を顰めるのを見て、ダンは「おー怖」とぼやいて肩をすくめる。
いっそ、シャロンが女騎士になるとでも表明したら変わるのだろうか?
ありえなさそうな考えをすぐに消して、ダンは自分も一眠りするべく目を閉じた。




