519.得られるもの
レストラン《オールポート》、その三階。
貴人が利用するために作られた個室は小さめのサロンほどの広さで、壁際に護衛が控えていても、配膳係が難なく通れるだけのゆとりがある。
閉じたガラス戸の先にはバルコニー、部屋の中央に設けたテーブル席には、変装したアベルとシャロンが並んで座っていた。
「お越し頂きありがとうございます、殿下。食事を共にできるなんて光栄です」
「これくらい構わん。お前は大事な義妹だからな」
「ふふっ……此度の件、元々お誘いしたのは私ですから。落ち着いて話せる時間をと思いまして。」
二人の向かいには変装した姿のジークハルトと、彼の補佐であるルトガー。
廊下へ続く扉の傍には外交官ジャック・ライル、バルコニーへ続くガラス戸の傍には騎士ロイ・ダルトンが控えている。
テーブルに並べられたのはオールポート自慢の海鮮料理だ。
店のスタッフが下がると、ジークハルトは「もういいだろう」とばかりにサングラスを外した。特徴的な白い瞳が露わになり、長い指がカトラリーへ伸びる。
「ルトガーは昨夜、お前を俺達が使っている城へ連れようと言っていたが」
「そうは言ってません。」
「何人ついてくるかと思うと気も乗らんし、学園側の許可も出なくてな。」
さらりと言い切ったジークハルトはまるで、ルトガーの訂正などまったく聞こえていないかのようだ。無視されたルトガーは僅かに片眉を上げたが、何も口を挟んでこない辺り、ツイーディアの王子も真実は理解していそうである。
「お二人の宿泊先ですと確かに、時間帯と距離の問題もあって難しいですね。」
シャロンが穏やかに答えた。
行けば帰りは少なくとも夜中になるだろう事に加え、ジークハルトの周囲を固めているのは彼の正体を知る者達だ。口が堅い者を集めているとはいえ、公爵令嬢が夜に訪ねれば不要な憶測を呼ぶ可能性もある。
この食事会がジークハルトを訪ねるのではなく街中で開かれたのも、ツイーディアの騎士やアーチャー公爵の部下がいるにもかかわらず、さらに王子であるアベルまでもが共に来ているのも――理由の一つは、その憶測を防ぐためだった。
「なんなら今日は、俺がお前の部屋を訪ねてやってもよかったがな?」
「こほん。」
にやりと笑ってみせたジークハルトに、ジャックがわかりやすく空咳をした。
シャロンは冗談を受けてくすくす笑っているが、ジャックの上司は笑いごとで済ませられないのだ。本人がいたら剣は抜かないまでも、ジークハルトに詰め寄っていただろう。
「無論、行くならお前が一緒で構わんぞ。アベル」
「そういう問題じゃない。冗談にしても控えてくれ」
「寮では気が乗らんか?ならお前達が卒業してからのお楽しみにするか。」
「二度言わせないでくれる。そういう問題じゃない。」
「確かに、四年後の定期訪問の頃には卒業していますね。」
部屋に訪れるという前提をさらりと流し、シャロンが頷いた。アクレイギア帝国の上層部は五年に一度、ツイーディア王国を訪れる事になっている。
もっとも、そこで探り合いの親善試合が行われている事を知るのはごく一部であり――アベルが去年一度ジークハルトと戦っている事など、シャロンは知る由もない。
「ああ。皇帝自身が来る年になる。気を引き締めておけ」
ジークハルトは当然のように言って笑い、そこに驚く様子を見せる者はない。
数年内に彼がアクレイギアの皇帝になるだろう事など、この場の誰もが理解していた。
「婚約祝いか結婚祝いかわからんが、その時は何か持ってきてやろう。どちらなのか事前に報せておけよ。シャロン」
「ありがとうございます。そうですね、どちらかは時期かもしれません。」
あっさり返すシャロンをジャックが見やる。
ジークハルトが言った「どちらなのか」とは、言葉通りに婚約と結婚の話なのか。それとも、ウィルフレッドとアベルの事なのか。シャロンは前者と受け取ったようだ。
ジャックがあからさまにアベルを見るような真似はできないが、視界の中で確認できる限りでは、特段反応を見せていないように思える。
「こちらもそういった時には祝いの品を用意したいと思いますが……お相手が決まったら、教えてくださいますか?」
「それは気分によるな。俺が誰を隣に置くかなど、ペンを取らずとも即座に知られそうなものだ。なぁ?」
わざとらしく視線を向けられ、ジャックは黙礼した。
帝国を担当する外交官が貴人、それも皇帝の婚姻を知ったならば、母国に報告するのは当然の事である。
ツイーディア国王とて、いつ破られるか怪しい休戦協定を結んでいる国相手とはいえ、皇帝の婚姻を知れば祝いの品と言葉を贈るものだ。
白い瞳がアベルとシャロンを交互に見やる。
「お前達が祝いに来るなら、わざわざ手紙を認めてやってもいいが。」
「状況によるね。僕だけなら行けなくはないけど」
ツイーディアの貴人がアクレイギアを訪れる、それは危険が伴う行為だ。
身分を隠したとて、そもそもの治安の悪さがある。アベルなら最悪護衛が突破されても自力で打破できるだろうが、その頃シャロンがそこまで対人戦に慣れているかは不明だ。
「くく、連れてきてお前が守ればよかろう?場合によっては、残す方が危険かもしれんぞ。」
冗談めかして言うジークハルトは、帝国とツイーディアでは家族を置いていく危険度が違うと理解している。
わかっていて、言っているのだ。他の誰かに任せるより、アベル自身が傍にいてやる事が最も安全だと。
『自分の女ならきちんと見張っておけ、アベル。ソレイユの王子に口説かれていたぞ。』
シャロンが、目を離すとトラブルに巻き込まれがちな令嬢なのは確かだ。
ジークハルトに絡まれる事も含めて。
『天才だなんだと言われようが、所詮俺達は――目に見えるものしか殺せんのだ。』
アベルには敵を倒す力がある。
しかしそれは、敵を視認していたらの話で。
危機を知る事もなければ、知ったとしても届かない場所にいては、力があっても意味がない。
ジークハルトが弟達を喪ったように。
離れるなら、誰かに託すしかない。
自身に力があるからこそわかるその「不確実さ」を、言っている。
――ウィルはこれからも強くなる。シャロンも、「これで充分」と立ち止まる事はしないだろう。二人を任せられる騎士もいる、これから力を上げるだろう者達もいる。四年後、そもそも俺自身がどうなっているかわからないが……
隣からの視線を感じて、アベルは数秒にも満たない思考を切り上げた。
どの道、今確定できる事などないのだ。
「時が来れば、より信用できる方を選ぶ。この通り、僕の決定に必ず従順というわけではないしね。」
「思い上がるつもりはありませんが、ええ。その時の己や周囲の力量も鑑みて。」
片手を胸にあて、シャロンはジークハルトに柔らかく微笑みかけた。
ルトガーは黙ってそれを見ていたが、ジークハルトは随分お気に召したらしくけらけら笑っている。
「ふははは!まぁよかろう、その時の楽しみだ。恐らくは複数娶る事になるだろうからな、どこかでは二人一緒に来るといい。」
「複数――そうでしたね。貴国では当然の事でした。……ですが、殿下も同じようになさるのですか?」
「無闇に迎える気はないが、必要とあらばだ。他を妃に置く必要がなく、皇妃がいくらでも産むなら別だが……現実的ではないな。」
どこか白けた顔で言うジークハルトに、ジャックは心の中で頷いた。
強さこそ正義と掲げるアクレイギアにおいて。
強者たる皇帝が、それを継ぐ可能性の高い実子を多くもうけるのは義務である。
――単純な話ではない、子は授かりものだ。しかし求められるのは、一説では最低でも六人……人によっては実現可能なのだろうが、こればかりは賭けだ。暗殺も横行する城内で、いくら産んでも次の子を求められると嘆く妃の話が残っているほど。殿下の言う通り、複数娶られるのが正解だろうな。
ふと、何か思い当たった顔でジークハルトがアベルを見つめる。
アベルが訝しげに見返すと、くい、と親指でバルコニーを指された。
「何?」
「お前に聞かせておいた方がいいかもしれんと思ってな。…ああ、是非シャロンの前で話せと言うなら、俺は別に構わんが。」
言い切るより先にアベルは立ち上がっており、ロイがガラス戸を開ける。
敢えてそんな言い回しをするという事は確実に、シャロンの耳に入れるべきではない話題だ。
「早いな」
くつくつ笑って、席を立ったジークハルトはムニエルの最後の一口をぱくりと頬張った。皿に置かれたフォークがカンと鳴る。
アベルはルトガーを見張るようロイとジャックに合図し、ジークハルトと共にバルコニーへ出た。
ガラス戸が閉まり、ルトガーとシャロンの目が合う。
薄紫色の瞳をした公爵令嬢は小さく苦笑し、そこにルトガーへの恐れはない。
「どんなお話でしょうね。あのように仰られては少し気になります。」
「女性に聞かせるものではないか、食事中に聞かせるものではないか、どちらかでしょう。」
「ええ、配慮してくださったのですね。……アベル殿下の様子を見るに、…本当に、聞かない方がよさそうです。」
外より中を警戒してか、ガラス戸の向こうでアベルは身体を室内へ向けている。片手を軽く広げてぺらぺら話すジークハルトに対し、どんどん眉間に皺が寄っているようだった。
ルトガーを警戒しつつ、ジャックは一瞬だけロイを見やる。
バルコニーには、スキルで姿も音も消したリビー・エッカートがいるのだ。
二人が出るのを見て多少場所は変えただろうが、彼女も会話を聞いている可能性が高い。
それによってリビーが嫌な気分になるというより、「アベルにそんな話を聞かせている」事実に憤る事で、ジークハルトに存在を気付かれてしまわないだろうか。そんな心配だった。
ロイの目は細すぎて返答が全く読めないが、一切の合図をしてこないところを見るに、放っておいて良いという事なのだろう。
そもそもリビーを配置したのはアベルなので、ある程度は自分への無礼を許すよう伝えているはずだ。
頭の片隅でそんな事を考えながら、ジャックはルトガーとシャロンの中間に視線を置く。
「……アーチャー公爵令嬢。貴女にお尋ねしたかったのですが」
「はい。何でしょう」
「なぜ、ジークハルト殿下を呼んだのですか。」
ルトガーが口にしたのは、至極当然の疑問だった。
ジャックとて、初めて聞いた時は冗談の類だろうと思ったほどだ。シャロンは淀みなく答える。
「より良い未来のためです。」
「未来。どんな夢物語でしょう」
「何分不確定ですから、具体的にお答えする事は難しいのですが……」
夢物語とは、国同士の現実も理解せず理想を夢見ているのではないか、という皮肉だ。そんな事は言われてすぐにわかっただろうに、シャロンは嫌な顔一つせずに答え始めた。
ルトガーもまさか、彼女が前世の記憶を「夢で読んだ絵本」と表現した事があり、心の中で思わず笑ってしまったなどとは――想像だにしていない。
「貴国で生まれ育ち、ご自身が見据えた先へと駆ける殿下のお言葉や、考えに触れること。それは星々にとっても、我ら五公爵家のような臣下にとっても、よい学びなのです。今後のために縁を深めたいという意図も、もちろんありましたが。」
「……国王陛下の許可まで取られたと聞きました。そこまでするには、何かあった場合の危険が大きかったのでは?」
「昨年お会いする事ができずに、殿下のお人柄を知らなければ。到底提案しなかったと思います。」
ルトガーにとって、シャロン・アーチャーは読めない少女だった。
なぜツイーディアの、それも離島まで呼びつけられて、ジークハルトが承諾したのか。それも普段は留守を任せる事が多いルトガーを、わざわざ同行させて。
剣の一振りであっさり命を落とすだろう、たかが十三歳の少女だ。
五公爵家の筆頭とはいえ、ツイーディアの王子達と揃いの宝石を身に着け、血生臭い噂しか知らなかっただろうジークハルトを相手に、恐怖を浮かべる事もない。
単に頭がお花畑なのかと思えば、そういうわけでもないようだ。
ツイーディアの王子達が囲い、ジークハルトすら認めた存在。
「ルトガー様には、思い描く未来がありますか?」
これまで対峙した事のない穏やかな声と柔らかな微笑みに、僅かに動揺する。
知らない存在だ。帝国にはいないもの。
「……貴女に言う事は、何も。」
「もちろん、内容を聞く事は致しません。お伝えしたかったのは、私にはそれがあるということ。より良い未来を目指したいと、ただそれだけなのです。」
先代皇帝の遺児である《ルトガー・シェーレンベルク》に対し、恐怖も嘲りも緊張もない。
油断でも妄信でもなく、ルトガーが今自分に対して刃を向けないと理解した上で、心から笑いかけている。稀有な存在だ。生まれ育った帝国ですら、そんな人間はほんの僅かだ。
「先程は星々のために、私どものためにと言いましたが……反対に、ジークハルト殿下にも、ルトガー様にも何か得られるものがあったなら、それが何よりなのですが。」
いかがでしょうかと尋ねられ、ルトガーは僅かに片方の口角を上げた。
今までたった二日だが、答えは決まっている。
「得るものはありましたよ。今も、また。」
 




