517.私をよろしくね
学園祭の間、南東校舎には出張店舗が幾つも並んでいる。
謎の多い化粧師サヴァンナの店もその一つだが、太陽がすっかり沈んだ今は「営業終了」と書かれたプレートが下がっていた。
よくよく見れば扉の隙間からは細い明かりが漏れているが、まだ営業している店舗のために廊下自体は明るく照らされたままで、それに気付く者はない。
店の中、待合を過ぎてさらに扉の奥。
ドレッサーの前にある椅子にはシャロンが座り、化粧品を手に彼女を整えていくのはサヴァンナではなく、専属侍女のメリルだ。
「――…と、そのような調子で面談は終了となり、先に王女殿下が退室なさいました。」
「そう……最後まで話ができたのね。ひどく体調を崩されるような事がなくてよかったわ。」
細い眉を悩ましげに顰め、シャロンは小さく息をつく。
ヴァルターの体質や、ロズリーヌに会うと決めた時の苦い表情。
二人の面談には自分も同席したいくらいだったが、シャロンがいてもヴァルターにとって苦手な存在が増えるだけ。気を遣わねばならない相手を増やすだけだ。
ゆえに、席にはつかなかった。
給仕をするだけで話す必要も、まして触れる事などありえないメリルだけ派遣して。
――殿下の体調を最優先にするなら、本当は男性の給仕をつけるべきだったけれど。
他国の王族同士の私的な会合、それも一人は内密に訪れている身だ。
食堂や寮で働く職員に任せるわけにもいかず、ダンはシャロンの従者としては育ってきているが、普段付き合いのない王族への給仕を任せるには若輩過ぎる。
結果としてヴァルターはメリルに対する拒絶反応は殆ど無かったので、問題はなかったようだ。
伝え聞いた二人の会話を思い、シャロンは膝の上で軽く指を組む。
「……あのヴァルター殿下が、そこまではっきり仰ったなら。ロベリアでロズリーヌ殿下がなさった事は、相当にひどいものだったのでしょうね。」
「ええ、恐らく。」
ロベリアへ向かう途中でツイーディアへ立ち寄ったロズリーヌは、ウィルフレッドやアベルにも相当な無礼をした。
彼らのうんざりした顔は未だシャロンも覚えているけれど、ヴァルターはその比ではなかったのだろう。
『案内を務めてくださった第三王子殿下……彼がきっぱりとわたくしを否定してくださったから、気付きになったと言えますわね。』
以前ロズリーヌは、まるで「良い経験」を懐かしむようにそう言っていた。
否定されて当然だったとは思いながら、けれど、一つ一つの出来事やこれからの振る舞い、無礼をした相手であるヴァルターへの真摯な対応などは、きちんと考えられていたかどうか。
――これがもし帝国への無礼なら、ロズリーヌ殿下とてもっと重く捉えたはず。たとえ悪気がなくても、ヴァルター殿下やロベリア王国を軽んじてしまったのは事実だわ。……それを、教えてさしあげたのね。
ロズリーヌの謝罪を上辺の笑顔で受け、許されたと安堵させておきながら、国に戻った後に「本人は未だあの程度の認識か」とヘデラに圧をかける。
そんな手を使う者もいるだろう、場合によっては「ヘデラがさらなる無礼をした」と追加の賠償を請求できるのだから。
もう関わりたくないからと何も言わず、ロズリーヌが欠点に気付かぬまま放置してもよかった。
見るだけで顔を顰める相手なのに、トラウマを与えられた相手なのに、ヴァルターはそれらを選ばずきちんと伝えたのだ。
生徒を教え導く教師のように。
「誠実な人ね。殿下は」
根元から毛先にかけて白から青へ変わる、一目見てロベリア王家とわかる特異な髪色。
やや外跳ねした髪を襟足で一つに結び、目鼻立ちの整った顔は少し頬が赤らんでいる事が多い。青い瞳は落ち着かなく揺れる事もあるけれど、それは体質のせいだ。
目が合った時の彼は真っ直ぐにシャロンを見つめ、辛いだろうに懸命に言葉を紡いでくれる。目元にうっすらと見えるクマは苦労を示すようであるのに、笑顔からはそれを感じさせない。
首にはホワイトのそれと同じように青いガラスが嵌まったゴーグルを下げ、彼を尊敬しているのだと熱弁する時などは、女性相手に話している事を忘れたかのごとくきらきらと目を輝かせていた。
「来ていただいた事に感謝しなくては。ロズリーヌ殿下だけでなく、ウィル達にとっても私にとっても、良い出会いになったと思うもの。」
「…王弟殿下が素敵な方である事は認めますし、素晴らしいご縁ができたのは何よりですが……シャロン様。文通の約束なんてして、本当によろしかったのですか?」
「あら、どうして?お互いに利のある事だと思うけれど。」
「それは…」
化粧を終えたシャロンに金髪のウィッグをかぶせて整えながら、メリルは口ごもった。
昨日の魔法発表会の後、アベルがシャロンの控室を訪れた時の事だ。メリルは共に廊下へ控えていたダンから文通の約束や、ヴァルターが明らかにシャロンに好意を抱いているという事を聞いた。
女性恐怖症という単語が念頭にあるせいで、シャロン本人は驚くほど気付いていないという事も。
――場合によっては王弟殿下に希望を持たせるべきではないし、旦那様はシャロン様が国外へ嫁ぐなんて反対されるに決まっている……でも、なんと言ったものかしら。
困ったところで扉がコンコンとノックされ、聞き覚えのある少年の声がした。
「そっちどう~?ですか?俺ちゃんは終わりましたけど。」
「こちらも終わったわ。入って大丈夫よ」
シャロンが許可を出すと扉が開き、ダンを伴ったシャロンが入ってきた。
メリルはこほんと空咳をして一歩下がり、ドレッサーの前に座っていたシャロンが立ち上がる。緩くウェーブした長い金髪が揺れた。
ダンが二人のシャロンの中間をとるように進み出て、それぞれと目を合わせる。
姿勢、指先の揃え方、微笑む際に僅か目を細めるのも、口角の上がり具合も。
「…似すぎてて怖ぇな。」
「俺ちゃん、天才だからな……!」
片方のシャロンが照れたように少年の声で笑い、フッと鼻の下をこする。
メリルにじろりと睨まれ慌てて姿勢を戻した。
シャロンと瓜二つの姿をした彼はジャッキー・クレヴァリー。
平民だが諸事情によってアーチャー公爵家預かりの身であり、化粧師サヴァンナの正体であり、自分の姿や印象を変える化粧や魔法を得意とし、観察した人物の仕草どころか声色までそっくりに真似られる――まさに、天才である。
特にシャロンとは元々の色や背丈、顔立ちが割と近しいために化けやすい。
実は遠戚なのだという事は、ジャッキーはまだ知らなかった。
「私が出かけている間、《私》をよろしくね?ジャッキー。」
「ふふ、任せて。」
ジャッキーは軽く握った手を口元へ近付け、シャロンの声でくすりと微笑んだ。
お嬢様はこれから秘密のお出かけであり、ジャッキーは万一にもそれがバレないようシャロンとして学園に残る。人目につく場所でシャロンがいた証拠を作るのだ。
「これは公爵家が貴方という人材を見る試験でもあります。王子殿下にもご協力頂くのですから、気を抜かないように。」
「…わかっているわ、メリル。」
一瞬怯えたように目を見開きかけたジャッキーだったが、「ひぃ!」と声を上げる事も地声に戻る事もなく堪え、どうにか頷いた。
金髪に薄紫色の瞳の少女となったシャロンが、「そう脅かさないの」とやんわり言う。「そんな事ないから安心して」とは言ってくれないあたり、今回がジャッキーにとって試験であり試練なのは変わらないようだ。
「貴方の演技力、魔法、ダンが一緒にいる事……厄介な話題を振られない限り、私じゃないと疑われる事はないでしょう。」
「…はい。」
「目的地に着くまで下手に呼び止められないよう、ダン、貴方もよろしくね。」
「おう。その辺は任しとけ」
ジャッキーがシャロンの姿で揃って授業を受けてみせた日から、もう半年以上は経っている。
身代わりを頼むのはこれが初めてだ。
令息向けに少し作法を崩してみせていた状態とはわけが違う。
遠目からシャロンを観察して覚えただけの真似と違い、数え切れないほど本人を前にし、直接話をしてきた中での今だ。
当時でさえ家族すら驚く似せ方だったものを、今は真似していられる時間も長くなり、シャロンの言動や為人についても解像度が高い。
見破れる者はそうはいないだろう。
メリルは言わば試験官として、離れた位置からジャッキーの様子を見る係だ。
彼が失態を犯してシャロンの不名誉になる事態や、正体がバレる事などは言語道断である。基本的にはそれが起きない事を前提に、ジャッキーの完成度を測る予定だ。
「…この子にとって良い試験になるとは思いますが……シャロン様も、どうか気を付けてくださいね。騎士がいるとはいえ……」
「心配してくれてありがとう、メリル。気を付けるわ」
「……ちゃんと帰ってこいよ。お嬢」
「もちろん」
頷き合って、シャロンはジャッキーとダンを見送った。
メリルは元から日中時々サヴァンナの店を手伝っているため、最後に鍵をかけて出て行く姿を見られても問題ない。
扉を開けて待合室へ出ると、メリルはそこにいた人物に丁重な礼をした。
「お嬢様をよろしくお願い致します。第二王子殿下」
「…わかってる。」
椅子に座っているアベルはストレートの短い茶髪のウィッグをかぶり、金色の瞳はフレームレスの眼鏡の奥にある。
眉を少しばかり不服そうに顰めたまま、立ち上がった彼はローブのフードをぱさりとかぶった。開いている前からちらりと、腰に帯剣ベルトを付けているのが見える。
傍らに控えているのは女性騎士リビー・エッカート。
長い黒髪を低い位置で縛り、前髪には金色のヘアピンを二本挿している。鼻から下を覆う黒布をつけ、腰には細身の剣を二振り携えていた。
メリルが出て行くのを見送ったシャロンのもとに、こつり、アベルが近付く。
ご機嫌斜めなのは我儘を言ったせいかしらと考えて、シャロンは彼の瞳をじっと見上げた。アベルの手がシャロンのフードに触れ、軽く持ち上げる素振りをしてすぐに離す。
そういうデートじゃない日に行われたやり取りを覚えているらしい。指示の通りにちゃんとフードをかぶり、シャロンはくすりと微笑んだ。
「来てくれてありがとう、アベル。付き合わせてごめんなさい」
「謝らなくていい。……ただ、僕とウィルの役は逆でよかったと思うけど。」
「逆?…でも貴方、それだと落ち着かないでしょう。貴方から離れた場所で、護衛も少なく私とウィルが街歩きなんて。」
「……わかったから、早く行こう。」
諦めたように一つため息を吐き、アベルは手を差し出した。
ちょっと目を離しただけで様々な窮地に陥ってきたシャロンのこと、この手で捕まえておくに越したことはない。
「窓から出る。リビー、学園を出るまではこちらにもスキルを頼む」
「はっ。承知致しました」
「シャロン、着地まで風の魔法を。」
「ええ、任せて。もうきちんと使えるから――私が貴方を抱えたらいい?」
さっさと窓へ向かっていたアベルの足が止まった。
手を引かれていたシャロンも立ち止まり、リビーはスキルを発動する。振り返ったアベルは「なぜその発言に至った」とばかりに怪訝そうだ。
シャロンは至極真面目である。まずリビーは自分で魔法が使えるので考えなくてよい。
自分はアベルに横抱きにされたり、アベルにしがみついた状態で、アベルの魔法で飛んだ経験がある。つまりシャロンの魔法で飛ぶのなら、シャロンが抱えるべきだろうという発想だ。
察したアベルは苦い顔で手を離し、ひょいとシャロンを横抱きにして窓の額縁に足をかける。
その行動でシャロンも察した。あくまでフリであり、魔法を使うのはアベルなのだと。
「宣言。」
「はい。…宣言、風よ私達を運んで!」
姿も物音も、リビーのスキルによって完全に消されている。
誰に見られる事もなく、三人は校舎から飛び降りた。




