516.まるで足りていない
太陽が海へ落ちきり、橙色だった空が暗くなっていく頃――北棟四階、応接室の一つにて。
ロベリア王国王弟ヴァルター・ヨハネス・ノルドハイムと、ヘデラ王国王女ロズリーヌ・ゾエ・バルニエは、とうとう顔を合わせる事となった。
ロズリーヌが彼のお陰で記憶を取り戻したのは昨年十月の事だったので、実に一年と二ヶ月半ぶりである。
テーブルは四角形を作るように並べられ、二人は向かい合わせに座りながらも、互いまでの距離は三メートルほど空いている。
遠い。声は充分届くとはいえ、二人の対談がメインにしては遠すぎる配置だが、事情が事情なので仕方がないだろう。
既に顔色が悪いヴァルターは耐えるように少し眉を顰め、ぱっちりと目を見開いたロズリーヌはキュッと口を閉じ、激しく瞬きを繰り返していた。
――ぅうう怒ってますわーっ!ヴァルター殿下、わたくしがいるだけで不快そう!そりゃそうですわね、ええ当然、当たり前のこと!どど、ど、ど、どうしましょうラウル。入念に考えてきた謝罪プランが頭から吹き飛んでしまいそう、いえもうとっくに吹き飛びました!わたくし、何をどう喋るのだか忘れてしまいましたわーっ!
背中はじっとりと汗ばみ、後方に立って控えているラウルに今すぐ「貴方も横に座ってサポートしてくださらない?」と聞きたいくらいだ。
無論、王族同士の対談でそのような真似はできない。
中立の位置に並んで椅子を置いているのはツイーディア王国の王子、ウィルフレッドとアベルだ。その向かいにはヴァルターと個人的に付き合いのある教師ホワイトも着席している。
ヴァルターの後方には彼が連れてきた護衛が、扉の外ではツイーディアの騎士セシリア達が守りを固めていた。
落ち着いた色合いのワンピースを着たオレンジ色の髪の女性が、一人で手際よく全員の飲み物を配り終える。
ロズリーヌは彼女に見覚えがなかったが、内密の視察に訪れた王族との面談に入室を許されているのだ。城か、五公爵家いずれかの侍女だろう。
ずらりと揃った面子とまったく静かな室内に、ロズリーヌの緊張は最高潮に達している。唾を飲み込めば、ごきゅりと音が響いた。
「――…さて。この席における我らツイーディアの立ち位置は、事前にお伝えした通りです。」
ロズリーヌが話し出せないと察し、口を開いたのはウィルフレッドだ。
元々はロベリアとヘデラの問題。ツイーディアは場所を貸し、あくまで中立の立場でここにいること。
留学生として預かっているロズリーヌの「身の安全」については保証し、被害者側であるヴァルターが限界を感じれば、いつ退席しようともそれを無礼と断じない。
昨年にロズリーヌがヴァルターに働いた無礼について、両国間でどのような話し合いがあったかもツイーディアが知るところではない。
国同士の賠償契約は済んでおり、この場はロズリーヌが個人的に謝罪したいだけである。謝ったところでヴァルターが個人的に許す義務はないし、ヘデラに求められた賠償が軽減されるわけでもない。
「基本的に口を出す事はありません。それではロズリーヌ殿下、お話をどうぞ。」
「っ…は、はい。」
カチコチになった体をびくりと揺らし、ロズリーヌは辛うじて返事をした。
普段どうやって呼吸をしていたか忘れてしまいそうなほど、「他国の王族との対談」は重かった。
去年のロズリーヌに対しても、学園に来た新生ロズリーヌに対しても、ウィルフレッド達がどれほど柔らかい態度でいてくれたかを思い知る。
「……う、ヴァルター殿下。ほ、本日は…まず、この場に来てくださったこと。本当に、ありがとうございますわ。」
ヴァルターは、決して睨んではいない。
睨んではいないが、ロズリーヌを厳しい目で見ている事は確かだった。
自分の呼吸が浅くなりそうで、はひゅはひゅと見苦しい状態になるのではと、ロズリーヌは意識して一つ深呼吸をした。
「昨年……わたくしは、多くの無礼を働きました。強引に踏み込み、無茶を言って、言葉より先に行動で我儘を通しましたわ。殿下の…ロベリア王国を訪れるには、あまりに精神が幼く、お、王女としての振る舞いなど、ろくにできていなかったのだと。…今では、よくわかっております。」
ロズリーヌは愛されている。
自由に好き嫌いをして許される城で育って、レストランを選ぶのと同じ感覚でロベリアを選び、自国の城と同じ扱いをされるものと思ってロベリアに行った。
愛されているのだから、出迎えた王子は心からロズリーヌの訪問を喜んでいるはずだし、彼女が嫌いなものを伝えれば全て避けてくれるものだし、退屈そうならすぐさま相手をするはずだし、どこへ入っても許されるものだ。
考えるまでもなく、そう思い込んでいた。それがあの頃のロズリーヌにとって、常識だったのだ。
「訪れた身でありながら好き勝手にしたこと、そちら…貴国の伝統を、軽んじて汚すような真似をしたこと。貴重な品を壊したことも……本当に、申し訳ありませんでした。」
深く、頭を下げる。
他国の王女にやらせていいのか、ヴァルターの護衛達はちらりと顔を見合わせたが、誰も何も言わなかった。
ヴァルターはもちろんのこと、ウィルフレッドもアベルも、当然ホワイトも、止めるつもりはない。
これは彼女がやるべきことだ。
壁際に立つラウルはただ、小さくなるロズリーヌの背中を見ていた。
自分とて何年も彼女の横暴を見てきた身だ。ここ一年ちょっとの変化が急なのであって、ヴァルターが知っている当時のロズリーヌが非常に面倒な人間である事など、わかっている。
許してやれとは言えないが、切り捨てる真似はしないでやってくれと、そう心から願っていた。
一つ、ヴァルターがため息をつく。
身じろいだ彼の胸元で、青いゴーグルが揺れた。
「…ロズリーヌ殿下。貴女は確かに変わりました、別人のように。」
「しっ、はい。」
新生ロズリーヌですのでと、真面目に言いそうになって慌ててやめる。たとえ真剣だったとしても「ふざけている」と思われそうだ。
ヴァルターの白から青へ変わる髪色も、湖面のように青い瞳も、整った顔立ちも美しいまま。目の下にうっすらクマがある事だけは違っている。
「あの頃の殿下なら…謝るにしても言葉が異なり、頭を下げる事はなかったでしょう。」
「…ええ、そうなったと思いますわ。」
「最後に突き飛ばしてしまったのは、俺がやり過ぎだったと思っています。」
「いえ、そんな!」
「ですが、何もかも限界だった事はご理解頂けたかと。」
「もちろんですわ、その。わたくし、本当に色々とやらかしましたし、殿下のお陰で目が覚めて……だから、それはまったく、わたくしだけが悪くて。」
額から流れる汗が止まらず、ロズリーヌはラウルに持たされたハンカチを取り出してぱたぱたと拭いた。
紅茶をグイと飲みたいが手を出していいものか迷う。視線が泳いだ先でアベルがカップを持ち上げたので、これ幸いと自分も二口ぐぐっと飲んだ。ソーサーに戻すとカチリと音がする。
ヴァルターは笑っていない。
疲れたようにも具合が悪そうにも見える表情には、呆れと怒りも混ざっていた。
「俺がこの体質になったのは、殿下のせいではありません。しかしここまで酷くなったのは、貴女がロベリアへいらしてからのこと。」
「…はい。」
「……他国の王女殿下に対し、少々過ぎたことを申しますが…よろしいでしょうか。」
「え、遠慮なくお願い致しますわ。」
何を言われても至極当然だと、緊張しながらもロズリーヌは頷く。
ヴァルターはカップを取って静かに傾け、音もなくソーサーに戻した。青い瞳がロズリーヌを見据える。
「あの時に目が覚めたというのなら。俺がここへ来るよりもっと早く、謝罪の機会は作れたでしょう。」
「――…、」
その通りだ。
記憶が戻ったロズリーヌは、もう立ち去るロベリアの事よりも、翌年に訪れるツイーディアとゲームの始まりしか眼中になかった。
ヴァルターは登場人物ではないし、ロベリア王国は背景ですらない。
「賠償契約のために、我が国と貴国でどのようなやり取りが行われたかはご存じですか。こちらの損害は?そちらが払ったものは何でしょう。」
ロズリーヌは何も知らない。
すべて、父や兄がやった事だ。ロズリーヌは何も知らないままでいい、それがヘデラだった。
「俺が来るとわかった時点で、殿下が対面を望まれた時点で。資料を届けさせるなり報告させるなり、幾らでもできたはずです。それくらいの時間はあったはずだ」
「……ご、ごめんなさい。わたくしっ…あの、」
「謝りたいという殿下個人の言葉は、嘘ではないのでしょうが……あの頃と本質は変わらない。自分が与える影響がどこまで及んでしまうのか、何を引き起こすのか。王族としての自覚がまるで足りないと思います」
ロズリーヌは愕然としていた。
一生懸命謝ろうと、許してもらえなくても仕方ないと、それはわかっていた。
自分なりに本気だったつもりで、けれど。
「父兄が自分を守るために何をしたのか、知ろうとしましたか。」
何をしたのかしら、と思った事はある。
どこまで払ったのかしらと考えて、それで、そこまでだった。
「成人する年齢に達していないという意味で、殿下はまだ子供ですが……その間ずっと、十歳未満と同じ許され方をするわけではありません。無礼を承知で正直に申し上げれば、今なお貴女は、他国の重鎮に会えるような状態ではない。」
「……わたくしは…考えが、……足りないですわね。」
「少なくとも俺の目には、そう見えています。かなり緊張されていたところを見るに、このような場自体慣れておられないのでしょう。」
冷や汗はもう出ない。
顔を強張らせたロズリーヌは、ヴァルターの問いにぎこちなく頷いた。
何もわかっていない頃は、緊張などしなかった。全て自分の思い通りになると考えていたからだ。新生ロズリーヌとなって過去の自分を恥じてからは、懸命にやってきたつもりだった。
「俺が貴女なら、ウィルフレッド殿下やアベル殿下に教えを乞います。」
「あ……!」
ロズリーヌは目を見開いた。まるで、一切、考えもしなかった事だ。
本来は自国の城で学ぶべき事を、ロズリーヌは甘やかされてきた。ならばヘデラに相談をしても意味がなく、ここで「王族としての在り方」について頼れるのはウィルフレッドであり、アベルだったのだ。
「王族としてどう振舞い、どう始末をつけるものなのか。本来巻き込むべきではありませんが、此度は席を用意する時点でご協力頂いている。もし相談しづらいなら、そう……アーチャー公爵令嬢に尋ねてもよかった。」
「わたくし、ごめんなさい……な、なにも。」
「我が国を訪れて何があったのか、全て話すも話さないも殿下の自由ですが……今回は恐らく、多少なりとも話しておくべきだったと思います。」
相談された結果、それ程やらかしたならこうするべきだと、言うか言わないかはツイーディアの自由だ。
前提として「ロベリアとヘデラの問題」であり、ヘデラ王国が王女への教育を怠り甘やかしてきた事実がある。
それをせっせと直してやる義理や義務が、果たしてあるのかどうか。
だとしても、ロズリーヌは恥を忍んで頼むべきだった。
ヴァルターに礼儀を尽くしたいと思うなら。
――予想以上に、ヴァルター殿下は丁寧に対応しているな。
二人の会話を聞きながら、ウィルフレッドは静かに紅茶を喉へ流した。懐かしい、メリルが公爵邸で淹れてくれる味だ。
ツイーディアへの義理として着席し、ロズリーヌの謝罪を聞くだけ聞いて席を立つ。
最低限それさえ行えばよかったところを、ヴァルターはロズリーヌの短所を丁寧に教えてやっている。
――ロズリーヌ殿下が変わっていなければ、ここまで話すのも無理だっただろうけれど。
化粧や香りの趣味も仕草の雑さも、去年に比べれば雲泥の差だ。
同じ香りを纏い同じように振舞っていれば、ヴァルターは到底もたなかったに違いない。
「殿下のお話に対して、俺が感じたことは以上です。」
「…はい。」
「今後どうされるかはもちろん自由ですが……学びを尊ぶ国の者としては。まず自分で考え、わからなければ聞く。わかったつもりでも不足がないか確認する。…そんな事を少しでも、気にかけて頂ければ幸いです。」
「はい、わたくし……頑張ります。ヴァルター殿下」
膝の上で拳を握りしめ、緊張にじわりと汗をかきながら。
ロズリーヌは椅子の横へと立ち上がり、深く頭を下げた。
「わたくしに生まれ変わる機会をくださって、この度も教えてくださって。……本当に、ありがとうございました。」




