512.騎士への賛歌
カーテンを閉め切ったダンスホールの中、コンサートの舞台は明るく照らし出されている。
ずらりと並ぶのは《音楽》の授業を受ける生徒達で、《治癒術》の教師でもあるローリーの指揮のもと、息の揃った演奏を披露していた。
客席は吹き抜けの二階にも用意されているが、今ばかりは、そこを利用して良いのは限られた者達である。
置かれた椅子は四つ。
一階と違って席と席の間に少し間隔が空いており、互いの顔が見えるよう、やや半円気味に配置されている。
舞台から見て左端は《薬学》《植物学》教師ホワイト、隣にロベリア王国の王弟ヴァルター、続いてツイーディア王国第二王子アベル、右端はアーチャー公爵令嬢シャロンだ。
護衛であるセシリアやチェスター、ダン、ヴァルターのお付きなどは、四人の後方であったり壁際であったり、階段の傍であったりと、各々好きな場所で待機していた。
――会場は暗く、ここは舞台から離れているとはいえ。身長と体格的に、先生だけは演者側から正体がわかっていそうね。
薄く微笑んで演奏に聞き入りながら、シャロンはそんな事を考える。
なにせホワイトは百九十センチ近い。一階席では観れないと判断したのはヴァルターの負担軽減や万一の嘔吐に備えたのが一番だが、周囲に人がいる状況ではホワイトの存在感で注目されてしまうというのも理由の一つだった。
――シャロン嬢の隣は無理か。そうか、そうだな。俺は女性恐怖症だからな……。
これから姿を見なければならない相手を思って少し青ざめながら、ヴァルターは端にいる天使の姿を目に映す。
暗がりで見るシャロンはどこか密やかで、舞台の明かりがその瞳に映っていて、綺麗だった。心臓がとくりと鳴る。彼女を見ているだけで胸に漂う憂鬱さが薄れていくようで、もっと近くでその笑顔を見ていたい。
視界の端に映っていたアベルがこちらを見て、目が合う。
彼は瞳だけでシャロンの方を見やってから、顔ごと動かしてヴァルターを見た。僅かに首を傾げ、「彼女が何か?」と言うように。
他国の王族を相手にした際、自国の人間を身内として扱うのは当然の事だ。ヴァルターは何でもないとばかりに笑ってみせ、舞台へ視線を戻した。
シャロンとヴァルターの間に座っているのがホワイトだったなら、恐らく今、何も反応しなかっただろう。ヴァルターはそこまであからさまにシャロンを眺めていたわけではないし、話を振ったわけでもない。
ホワイトにとって、ヴァルターがシャロンを盗み見ていようがいまいが、どうでもいい事だ。
アベルはただ見ていたかったというヴァルターの意図を察した上で、敢えて目を合わせてやめさせた。失礼にならないよう、表面的には気遣ったふりをして。
――初めて会った時、殿下達の前でもろに反応してしまったのは失敗だったな。いや、あの衝撃を事前に予見できたとも思わないが。
ツイーディア王国において、星と謳われるレヴァイン王家は特別な存在だ。
初代国王の兄弟の子孫である五公爵家もまた、子孫が絶えないよう守られてきた血筋であり、中でも代々が国王の右腕、特務大臣を担い続けるアーチャー公爵家はその筆頭とされている。
シャロン・アーチャー。
王子であるウィルフレッドやアベルと揃いの装飾を身に着ける栄誉を受けた娘。従者であり五公爵家の嫡男であるサディアスやチェスターでさえ許されていないその誉れは、双子の星に彼女を手放す気はないという明確な意思表示だろう。
――それがどういう感情によるものかは、まだわからないが。
ヴァルターが考えている間に一曲終わり、場内が拍手で包まれる。
さすがにヘデラの楽団には劣るが中々よかったと、ヴァルターは素直に手を叩いた。ついでにちらと右を見てみれば、ゴーグルをつけたままのホワイトが腕組みをして目を閉じている。寝ているかもしれない。
――ウィレミナ様のフルート、やっぱりお上手ね。とても綺麗な音色だった…
シャロンは惜しみない拍手を送り、三人はどう感じただろうかと横を見る。
ヴァルターは先程より少しだけ顔色が良いだろうか。その視線の先はホワイトだが、シャロンからはゴーグルの中までは見えなかった。しかし拍手もせず静かなあたり、寝ているかもしれない。
アベルは舞台を見つめ軽く手を叩いていたが、シャロンの視線に気付いてすぐ目を合わせてくれた。
嬉しく思うままに微笑むと、アベルは「俺はいいから前を見ろ」とばかり、片手の指先を一瞬だけふいと舞台の方へ向ける。ほんの僅かだけ上がった口角に、和らいだ眼差しに気付けたのは、それを見ていたシャロンだけだろう。
いつか二人で行ったオペラハウスのように、もっと近い距離だったなら。
人の目を気にしなくていい状況だったなら、声を潜めて。ほんの二言、三言くらいは、彼と話しても許されたかもしれない。
僅かなもどかしさを飲み込んで、シャロンは明かりが絞られた舞台へ目を向けた。次が誰の番かは、知っている。
閉じた幕の前で丁重に一礼したウィレミナが、今度は司会としてその声を響かせた。
《皆様、大きな拍手をありがとうございました。次は一年生の演奏です。歌唱を担当して頂きますのは、現在留学生としてこちらに滞在しておられるお方》
客席がざわめく。
音楽好きにとって、かの国の王族の演奏や歌声を直接聴ける機会は絶対に逃せない。
彼女を目的に、女神祭の間一日に一度ずつだけ開かれるコンサートだけを目当てに、わざわざ遠方から来た客もいるほどだった。
ヴァルターは唇を引き結び、堪えるように眉根を寄せる。
腕組みをした手の指は上着を握り、青い瞳は憂鬱そうに舞台上へ向けられた。
《自由と音楽を愛する歌と楽器の国、ヘデラ王国より――第一王女、ロズリーヌ・ゾエ・バルニエ殿下。お願い致します》
期待と歓迎の拍手が響く中、開いていく幕に合わせて司会者は舞台袖へ下がる。
照らし出されたそこには楽器を構える生徒達と、着飾ったロズリーヌの姿。
くるりと縦巻きになったプラチナブロンドを胸の前へ垂らし、もちつや肌にはそっと頬紅を乗せ、目尻に近い瞼に添えた青いアイシャドウは、輝く王女アイズを引き立てている。
袖口のゆったりした長袖のドレスは腰からボリュームアップしており、豊かな体型をそっとカバーしていた。髪色に合わせた白金色の刺繍は繊細かつ贅沢に入れられている。
シャロンはちらりとヴァルターの様子を見た。
嫌悪が滲んでいるようでもあり、訝しげなようでもある。ウィルフレッド達から彼女の変わりようを聞いてはいても、まだ信じ難さが勝るのだろう。
見たくない。
その気持ちが見て取れた。
序奏が始まる。ゆったりした曲調の賛歌だ。
コンサートへ参加するにあたって、ロズリーヌは同じ授業を受ける仲間と共に、ただ一介の生徒として出たかった。
しかしヘデラの王女が出るのにそれを紹介しないなど、学園側の無礼だと思われてしまっても仕方がない。
ゆえに一人だけ名を出して紹介されるのは当然であり、これ見よがしに着飾るのも当然である。
『ですが――わたくしは!あくまで皆様と共に出るのです。この美声を披露する事に何のためらいもありませんけれど、もしも鈍いお客様がいて、歌がビーフステーキで曲が茹でたニンジンジャガイモと思われるのはダメですわ。』
『殿下。喩えがちょっとアレです』
『…とにかくっ!どちらがメインでもない、わたくし達は楽器と歌で一つの曲を奏でるのです。それをアッピールしていきますわよ~っ!』
そんなやり取りをして、一年生は全員がロズリーヌのドレスと同じ生地と刺繍のスカーフを巻いていた。
ある者は首に、ある者は腕に、ある者は腰に。それぞれの楽器に合わせ、客席からよく見えるように。
すぅと、ロズリーヌが息を吸う。
魔法を使う事もない、ただ一人の「歌声」は――演奏の音に負ける事なく、広い会場へ響き渡った。
聴く者の身体に深く染み渡る、清廉な音。
国を守る騎士を讃え、曲調は華麗に誇り高く、俯く者などないように。守られた民を代表するように幸福を、感謝を湛えて、ロズリーヌは微笑んでいた。
伸びやかな高音は平和に咲く花の美しさを尊び、青い花弁が国に絶える事のないようにと祈る。
真綿にくるまれるような、心地よく温かな声。
シャロンは自然、うっとりと目を細めて聞き入っていた。ロズリーヌの歌唱力の高さは知っていたが、日常の鼻歌と、曲まで伴う賛歌では迫力が違う。
――なんて、澄んだ歌声なの。
学生の演奏は、さすがにシャロン達が聞き慣れたプロのそれより劣る点もあった。
それでも、ぴったり揃った歌と演奏は一つの大きな流れとなって会場を圧倒している。ロズリーヌと演奏する生徒達の間に、確かな信頼関係があるからできる事だ。
――…ゲームのロズリーヌ殿下がこのコンサートに参加していたかは、わからないけれど。
きっとこれ程のものは披露できなかっただろうと、シャロンは考える。
ヴァルターと出会って改心した、今のロズリーヌだからできた事だ。変わった姿がどう映っているだろうかと、シャロンはもう一度ヴァルターを盗み見る。
こちらの視線に気付かない彼は、難しい顔でじっとロズリーヌを眺めていた。
シャロンやウィルフレッド達相手には決してしない眼差しだ。それでも口元を押さえたり顔をそむける事はなく、症状としては比較的落ち着いているようである。
同じように彼の様子を見ていたらしいアベルがシャロンと目を合わせ、軽く頷いた。
賛歌は続いている。
空に輝く月が、数多の星が、大地を照らす太陽が、騎士達の勇姿を見守っているのだと。
その刃に陰りはなく、流す血は花弁を染める事なく。戦い抜いた騎士はやがて必ず、大切な人のもとへ帰るのだ。
愛しい人の温かな手に触れ、安らぎを得られる時がくる。
誰もが英雄に幸福を伝え、感謝を捧げる。
貴方が守ったものがここにあると。
歌声と演奏は同時に終わり、会場は割れるような拍手に包まれる。
機嫌よさそうにニコニコとあちこちへ手を振っていたロズリーヌだったが、一番近くにいた生徒に何事か囁かれ、はっとした様子で居住まいを正した。
ようやく全員揃っての礼をして、拍手の音が大きくなる。
ぱち、ぱち、ぱち。
ほんの少しも笑う事なく、ヴァルターは最低限の拍手をしていた。
いつの間にか起きていたらしいホワイトは、黙ってその横顔を見ている。あくまで中立、仲介としてこの場にいるシャロンとアベルには聞きづらい事だろう。
拍手を終えたヴァルターが自分を見るのを待って、ホワイトは口を開いた。
「どうだ。」
「……少なくとも、会話が成り立つ可能性はあるみたいだ。」
ロズリーヌとの接触において、ウィルフレッドがヴァルターに伝えていた事がある。
「アベル殿下、シャロン嬢。保留にしていた件ですが」
これはあくまでロベリアとヘデラの問題であり、ロズリーヌとヴァルターの問題だ。
ツイーディアは仲介と立ち会いこそするけれど、許せとも許すなとも言う事はない。
話し合いの場に着かずともいいし、途中で出て行ってもいいし、最後まで話してもいい。
暴力行為のような余程の事が無い限り、ヴァルターの態度についてツイーディアが苦言を呈する事はない。
「あの王女殿下からの話とやら、ひとまずは聞きましょう。俺に耐えられる限りなら。」




