510.遠くで咲く花
編み込んでポニーテールにした濃いブラウンの髪、制服はパンツスタイルを好んでいて、瞳は黄色。
騎士家系の娘であるデイジー・ターラント男爵令嬢は、事前に配られた《巡回係》の当番表を見た時から、己は賭けに負けたのだという事がわかっていた。
今更生徒会に「この人と組むの嫌なので変えてください」などと、わざわざ言えるわけもないし許容してもらえるかもわからない。それ程ならば事前調査の段階で提出する紙にきちんと書けと言う話で、一組変えるという事は別の組も変えさせるという事なのだ。
そんな申し出はできない。
この「嫌」は子供の我儘のようなもので、「お前は騎士団の任務でも同じ事をするのか」とは誰にも思われたくなかった。
嫌だと告げるのは相手から逃げ出すようで恥だし、己の弱さを認めるかのようだし、自分のプライドが許さない。だから書かなかった。
そして当日が来てしまった、当番の時間が来てしまった、それだけである。
「「………。」」
女神祭も残り一日半、周囲は賑わっているのに、二人の間に流れるのはひたすらの沈黙だった。
決められた順路を歩いてイベント会場へ行き、少し滞在して何事もないか確認してから次へ向かう、その繰り返しだ。
自分と並んで歩く相手をちらりと見やったものの、真面目に周囲の警戒をしておりデイジーには目もくれない。会話がないのだから当たり前かもしれないが。
今も自分で切っているのだろう少々不揃いな茶髪、同じ色の瞳を抱く三白眼。
デイジーと同い年ながら身長は既に百七十センチを越え、肩幅も十分であり、筋肉だってデイジーよりしっかりついているのは当たり前だった。
デューク・アルドリッジ。
王子達と同じく《剣術》上級クラスであり、剣闘大会では彼らに続く学年三位の男子生徒だ。レオ・モーリスと違って勉強嫌いというわけでもなく、座学もそれなりには修めているらしい。
問題は彼が孤児院育ちであって貴族の礼節に疎いこと、普段ひどく粗雑な喋り方をするので会話が難解なこと、そして、一ヶ月半ほど前にデイジーと口論したこと。
『髪を雑に切らせて平気でいるような人には、わからないわよ。』
元々は、カレンとレオの揉め事である。
それについて話す内に熱くなってしまい、揃ってシャロンに窘められた。デイジーは自分の主張がまるきり誤っていたとまでは思わないが、本題から逸れてデューク個人への批判をしてしまったのは確かだ。
彼が使える自由な金銭はデイジーより遥かに限られていることを忘れ、散髪より勉強道具に金を使ったという選択を想像することもできずに。
――き…気まずい……。
デイジーの胸中を占めるのはそれだった。
今ここにレベッカやカレンがいてくれたらどんなに楽だったろうと考える。
口論の件で謝るならその場で撤回すべきだったし、デューク本人は恐らく既に気にしていないし、そもそも二人が会話する機会などろくになかった。
友人同士が話す事はあれど、デイジーとデュークは互いに用がないからである。
無駄に喉が渇く。
沈黙に耐え切れなかったデイジーは、ぐっと唾を飲んでから口を開いた。気を遣って笑顔を浮かべるのは、デューク相手に下手に出るようでやりたくない。否、そう考える自分が傲慢なのだろうか。
ぐるぐる考えてしまうが、眉にこめた力が抜けそうにない。
「……次は、北棟のダンスホールね。」
「おん」
会話終了である。
デイジーは少しだけデュークに腹が立ってきた。
そういう目的の同行ではないにせよ、女性と二人で歩く以上はある程度話題を振るのが紳士というものではないのか。否、デュークの育ちと人格にそんな期待ができない事はわかっていた。
不審な動きをする者がないか目をはしらせつつ、デイジーの苛立ちはつのる。
知りたくもなかった噂だが、どうも、デュークを「喋りはアレだしそっけないけど、殿下達の覚えもめでたい将来有望な平民男子」として狙う女子生徒もいくらかいるらしい。もちろん平民だが。
孤児なので親の支援こそ望めないものの、ウィルフレッド、アベル、シャロンの三人と普通に話せる立ち位置にいる、それだけで平民の中では群を抜いて将来有望である――それは確かだった。
実力社会の騎士団であれば、かつ王侯貴族との絆があれば、生まれのせいで出世を妨害されるという心配も少ない。
今のところ表立った騒ぎはないようだが、デュークを気に入らない貴族も平民もいるだろう。
デイジーだって、「孤児のくせに」「どうして貴方が」と思ってしまう瞬間がないわけでは
――……やめましょう。私は自分の腕を磨けばいいだけ。優秀な騎士が一人でも増えるなら、それでいいのよ。糧にならない羨望や嫉妬は自分を落とすだけだわ。
考えているうちにもう北棟へ着いていた。
小さくため息をついて、デイジーは開けた扉から中へ身を滑り込ませる。余計な光を入れないためだろう、入ってすぐ目の前は黒い布がカーテンのように垂れていた。背後の扉が閉まってからそれをめくる。
ダンスホールは窓を閉め切って暗くされ、ずらりと並んだ客席は前方に設置された壇上へ向いていた。役者などが控えているのだろう、舞台の両端はそれぞれ垂れ幕で隠されている。
遠い壇上には今、シャロンがいた。
《――上演中の飲食はご遠慮ください。こぼれないものを幕間などにとって頂く事は可能です。中座されたい場合は…》
内容からして前説中のようだが、デイジーが抱いたのはあまりに贅沢という感想だった。
うっとり聞き入ってしまいそうな柔らかくもはっきりした声、遠目からでもわかる見事なドレスに、席を埋め尽くす客全員が見つめる完成された微笑み。
友と言ってもらえているデイジーでさえ、改めて見惚れてしまう。
さすがは筆頭公爵家の令嬢だと、感嘆のため息をつかざるをえない。
そんな彼女に、プロの指導があるとはいえ学生の舞台の前説をさせるなど、もはや不敬なのではと思ってしまうくらいだ。王立学園だからこその状況である。
「はぁ……アーチャー公爵令嬢、いつ見てもお美しい」
「ねぇ、あの特徴的なドレープ!ディスキンの最新モデルじゃありませんこと?」
「なんという麗しさ、うちの商品をどうにか使って頂けないか…」
「《祝福の乙女》が司会進行するのは例年通りとはいえ、アーチャー家による前説ともなれば演じる方も背筋が伸びるだろうな。」
「上手くいけば将来の支援者だもの、必死でしょうね」
オペラグラスを持っている者も多い後方の席からは、そんな密やかな囁き声が聞こえていた。
中ほどの席には見覚えのある金髪・赤髪・茶髪の男子三人組の背中も見えたけれど、騒いで腕を振り回したりそれを咎めたりという事もないらしい。ひとまず異常なさそうだと小さく頷いた。
後から来るかもしれない客の邪魔にならぬよう最後方の壁際に立ち、自分の斜め前にいるデュークへ目を向ける。
意外な事に、デュークはじっと壇上を見つめていた。
先程までの周囲を警戒するための視線とは表情が違うように思えて、デイジーは瞬く。
周囲が暗く前方が明るいせいだろう、デュークの目に光が反射していた。彼が何を考えながら見つめているのか、どう思って見つめているのかはわからないが。
――そう……貴方の事は、私にはろくにわからないけれど。
僅かに目を細めた彼の眼差しに邪な心がない事くらいは、デイジーにもわかった。
見ているのはそのままシャロンなのか、あるいは意外と歌劇に興味があって開幕を待ちわびているのかと考え、後者の可能性はやはり低かろうと思う。
シャロンの立ち振る舞いは、貴族の格などピンとこない、彼のような者でも惹かれてしまう程なのだ。
畏れ多くも友と数えてもらえている一人として、邪心なくシャロンを見る者に対して悪い気はしない。笑う事も眉を顰める事もなく、視線を前へ戻した。
《此度の舞台は、リラの歌劇団ヘリオンの皆様よりご指導・ご協力を頂いております。協賛頂きましたのは…》
よどみなく、噛む事もつっかえる事もなく。
メモを見る事もなく説明していくシャロンを、デュークは見つめていた。
――……遠いな。
率直な感想だった。
物理的な距離も勿論のこと、シャロン・アーチャー公爵令嬢と孤児のデューク・アルドリッジとの間には相当な距離がある。
『こんにちは。どうぞ、使って』
初めてシャロンと話したのは、デュークが街中で男を追っていた時だ。
理不尽に殴られ鼻血を流していた自分に、まっさらなハンカチを惜しげもなく差し出してくれたのがシャロンだった。
話した事もない孤児の平民に。貴族の中で一番偉い家の令嬢が。
アベルやウィルフレッドとは授業で手合わせする事もあり、戦友のような一面がある。ツイーディアの王子とは、騎士団に入らなくとも《騎士》の能力を求められるものだ。
しかしたとえシャロンが剣闘大会に出た身であっても、王子達を見るのと同一感覚で見られるかというと無理がある。
――姫様は……文字通り、私とは生きている世界が違う。
不思議な人だった。
遠くで咲いているものだと思っていたら、あちらはデュークに声をかけてくれるし、剣闘大会でニューランズに絡まれた時は、乱闘にならぬよう場を収めた上で「孤児院の事は心配いらない」と教えてくれた。
『わたしはウィルフレッド殿下の側近を目指すつもりだけど、君は違うだろ?』
ネイトに言われた言葉が蘇る。
デュークは将来の働き口が見つけられるよう、勉強のために学園に来た。何になるために来た、という事ではない。
『わたし達の代は運が良いんだよ?王子殿下と公爵家が揃ってる。向こうもこちらを見るだろうし、君は君で、自分が誰に仕えたいのかよく見極めるといい。』
きっと、仕えなくてもいいのだろう。
運よく王子達と話せるようになったからといって、デュークはこのままリラの大工へ入ったって良いし、孤児院のある地元へ帰ってチビ達を見ながら仕事を持ってもいい。
親方たちは少々荒っぽいが良い人だし、孤児院の神父が腰をやらないかたまに見てやった方がいいかもしれない。
どちらも、そう悪くはない人生を送れるだろう。
少しだけ、何か引っかかる気がするだけで。
《それではお待たせいたしました、これより上演致します――》
シャロンは会場を見回しながら微笑み、最後に見た最奥はちょうど、ダンスホールの入口に近かった。実に優雅な一礼をした彼女を照らしていた光は消えて、最後方の席にいた客達が「目が合った気がする」と囁き合う。
「……次に行きましょう。アルドリッジ」
闇が広がる壇上を見つめたまま、デュークは短く相槌を打った。
役者をする生徒が舞台へ上がる前に、光が戻る前に退場した方が良いだろう。
――…卒業したら、姫様はどうなるんだ?
貴族令嬢、それも五公爵家の筆頭たるアーチャー公爵家の娘。
彼女に選べる道はどんなものがあるのか、デュークはあまりわかっていない。もしシャロンに何かやっていきたい事があるとして、それの手伝いが自分にできるとも思えなかった。
彼女の論文を読んでより理解したのだ、デュークでは圧倒的に足りない。
シャロンとわたり合い共に進んでいけるのは、それこそウィルフレッドやアベルのように頭の出来が違う人達である。
――あの方を、その精神を、善いものだと思う。美しいものだと思う。
だからといって、「どうしたい」と思うまでの何かがあるのか。
まだよくわからないまま、デュークは扉に手をかける。
廊下の光が眩しかった。




