50.おうじさまくらい
朝。
いつもより少しだけ早く目が覚めた私は、ベッド脇のカーテンを引いて窓の鍵を外した。左右に押し開けば、朝の涼やかな空気が入り込む。
なんとなく右側にスペースを残して、広い額縁に肘をついた。頬を支えて、今は誰も座っていないその場所を見つめる。
うっすらと自分の唇が開いた事に気付いて、閉じた。
誰もいないのになんとなく部屋をきょろきょろと見回してから、額縁に手をついて屋根のほうを見上げる。そこに脚が見えたりもしない事を確認して、ベッドに座り込んだ。
うーん、と小さくうなって顎に手をあてる。
――アベルも、主人公に出会っている可能性があるのよね。
レオ達と一緒に探しに行くのは確定として、もし見つからなかったらアベルに聞いてみるのも手かもしれない。
ゲームの設定的にはありえないはずだけれど、可能性は無きにしも非ず、なのだから。ペアで買ったらしきアクセサリーの事もあるし。
「でも、なんて聞けば…?」
つい口に出して呟いた。そんな事を気軽に聞ける相手ではないと思う。
どうしましょう、たとえば……「この前持っていたのはペアのアクセサリーだったりするかしら?差し支えなければお相手を教えてほしいのだけど」とか……いいえ、答えてくれなさそう。はぐらかされるんじゃないかしら。
あまりずけずけと聞くのもどうかと思うし。
まるで私が詮索好きみたいだわ。さすがに、ヒロイン以外の女の子が相手という事はないでしょうけど――……いいえ?
サディアスにジェニールートのフラグが立っていたんだったわ!!
私は思わず頭を抱えた。
そう、そうだった。サディアスがジェニーに会うなんてゲームではありえなかったはず。それによって起きた事だし、サディアス自身がどういう気持ちかはわからないけれど…攻略対象であるサディアスに他の女の子とのフラグが立つのなら、それがアベルにも起こらないとは限らない。
ペアのアクセサリーなんてあの子とお揃いに決まっている、と思ったけれど。
その前提が揺らいできたわね。主人公とは無関係なのかも。
コンコン
「シャロン様、おはようございます。」
「おはよう、起きているわ。」
扉の方へ振り向きながら答えると、メリルが一礼して入ってきた。
私は思考を中断して窓辺から離れ、ベッドの縁に腰かける。
「早起きだったのですね。」
「えぇ、なんだか目が覚めて…少し考え事をしていたの。」
「そ、それはもしや、アベル第二王子殿下が持っていた物の事で……?」
さすがメリル、お見通しという事ね。
私がそっと目を伏せて同意すると、メリルは胸元で手を握り締めた。
「……!シャロン様、私あれから考えたのですけれど。」
「なぁに?」
メリルは私の傍に来ると、オレンジ色の瞳でじっと私を見つめ、意を決したように小さく頷いてから、口を開いた。
「お揃いって……ウィルフレッド第一王子殿下と、なのではないでしょうか。」
「………。」
私はぱちぱちと瞬きして、ぎゅっと瞑った。
双子だものね…!
かつてウィルはこの庭でアベルを睨んでいたけれど、アベルのために伯爵邸へ向かった姿や、その後サディアスと一緒に来てくれた時の、どこか晴れやかな表情。
それを思い出すと、二人の関係にも変化があったのかなと思う。……そうだといい。
私はそっと目を開き、微笑んだ。
「そうかもしれないわね。ありがとう、メリル。」
今日はレオが来ない日なので、午後は庭で身体作りと魔法の鍛錬にあてる。
「宣言。水よ、球となってこの手の上に現れて」
伸ばした手のひらの上に表れた水の球は、ほわりと浮かんでいた。
綺麗な球体ではなく波打っているけれど、そこは元からあまり気にしていない。まずは出せなくてはね。
「宣言。水よ走って、前へ、高く!」
三メートルくらい前方を意識して、高く、と言葉にしながら自分の手を上へ振り上げる。水の球は前に進んでから柵と同じくらいの高さまで上がったけれど、なんと言うか、遅い。
「せ、宣言。水よ回って、急いで、加速を!」
高い位置のままで水の球が直径二メートルくらいの円を描くように回る。
でもその速さはやっぱり、子供が走るくらいの速さだ。歩くよりは速いけど、これが攻撃だったら余裕で避けられてしまうだろう。
「宣言、水よこちらへ来て。この手の中に。」
両腕を軽く広げて唱え、水の球はゆっくりと手と手の間に降りてきた。
ダンが火の魔法を一番攻撃的と言っていたけれど、本当にそう。サディアスが不意打ちをやってみせたように、小さくても火は脅威だ。水や風は勢いと規模がないと相手への威嚇にもならない。
「……宣言。水よ散れ、今、ここに。」
私はお母様を真似してみる。
手の中にある分だけでも、細かになって霧を作り出すように。……でも、なにも起こらなかった。お母様の《分散》が遺伝しているという事はないみたい。それとも、後からできるようになる事もあるのかしら?
「せんげん、みず!」
今日は木の枝ではなくおたまを振り回しているクリスが――ちゃんと厨房の許可は取ったのかしら――私の真似をして、両手を伸ばしている。
可愛らしい姿に思わず顔がほころんだ。
「せんげん、ひ!せんげん、かぜ!」
……片っ端からやってるわね?
さすがにまだ五歳では発動しないでしょうけれど、本人は一生懸命みたい。
「あねうえ、まほうでないよ?」
「そうね、お水や風さんに、どうしてほしいのか伝えるのも大事かもしれないわね。」
万が一にも火が出たら大変なので、私はそんな風に言う。
クリスは銀色の瞳をきらきらさせて頷いた。
「せんげん、かぜさん、たくさんふいて!」
おたまをブンブン振りながら、クリスは楽しそうに魔法にチャレンジしている。私も頑張らなくては。
スピードはやっぱり難あり。
次は発動させられる距離を確かめようと、私は生み出した水を端に用意されているたらいに落としこんだ。魔法で出した水も飲食に使ってよいそうだけれど、厨房で出しているわけではないし、鍛錬で生み出したものは雑用水として再利用してもらっている。エコね!
「宣言。水よ、手のひらほどの水よ。白き花の上へと現れて。」
指をさして、五メートルほど離れた花壇を狙ってみる。
花から十センチくらい上にふわりと小さな水が生み出された。球とまでイメージしなかったせいか、風に揺れるシャボン玉のようにぶよぶよしている。このくらいなら構わないだろうと、私は指さしをやめた。浮かせるよう意識を向けるのもやめる。すると、水はパシャリと落下した。
「宣言!水よ、手のひらほどの水よ、あの柵の上に現れて!」
屋敷のちょうど角、私からは十メートル以上離れた場所の柵を指さしてみたけれど、これは不発だった。さっき、手元に出してから前へ上へと飛ばした時よりも距離が離れている。この遠さは不発で変わりなしと。
私はちょっとずつ距離を調整して、発動できる間合いを確かめる。
規模については、今のところサディアスの十分の一にも及ばない。伯爵邸で彼が見せた広範囲の魔法がどれだけすごい事か、今ではよくわかる。
「シャロン様、少し休憩にしませんか?」
メリルに声をかけられてそちらを見ると、おたまを振り疲れたらしいクリスがティーテーブルへとことこ駆けていた。おたまを預けられた侍女が速やかに屋敷へ運んでいく。
「そうね、少し休むわ。」
私は宣言を唱えていただけなので、魔力の減りはあっても体の疲れが増したわけではないけれど。魔法を使うには集中力や精神力が要求されるので、気持ちをリフレッシュしたくなるのよね。
ティーテーブルへ歩き始めた私に向けて、クリスが小さな手のひらを二つ向けた。
「せんげん!あねうえ、こっちにきてすわって!」
「ふふっ。」
クリスの魔法のせいで足が早まってしまうわ。
にこにこしている弟の手のひらに、自分の手をぱちんと合わせてゴールする。
「魔法成功ね!すごいわ、クリス。」
「そうでしょ!すごいんだよっ」
誇らしげなクリスの手をにぎにぎしてから、私は自分の席に座った。
メリルが注いでくれた紅茶のカップに指をかけて、こくりと飲む。
メリルは、渋々ながらも下町散策を了承してくれた。
一人きりにはならない事、貴族とはバレないようにする事、危険を感じたらちゃんと助けを求める事、敵を制するより自分達が安全に逃げることを優先する事…
色々と言い含められる事一つ一つに頷いた。
たまたま下町に行くダンをついでの護衛にするよう、メリルからランドルフに口添えしてくれるそうだ。
行先はレオの家。メリルが同行するし、行き帰りはダンもつく。お父様お母様もランドルフもお出かけを許してくれるはず。
「あねうえ、ぼくもレオのとこいきたい!」
すっかりレオに懐いているクリスが私の目をじっと見て言った。
断られそうなお願いだとはわかっているのでしょう、眉尻は下がってしまっている。
「ごめんね、もう少し大きくなったらね。」
「おおきいもん…」
クリスは唇をとがらせて目をそらした。
申し訳ない気持ちにはなるけれど、大事な弟だし、我が家にとっては次期当主でもある。まだまだ小さいから、より慎重にならなくてはね。
「レオくらいつよかったら、いいの?」
「うーん…」
同じくらい強くなったとしても、人攫いとか盗賊という人間にとって、レオとクリスでは狙われる度合いが違う。
「じゃあ、おうじさまくらい!」
「アベルくらい?ふふ、そうね。それなら止められないかも」
つい顔がほころんでしまう。
クリスは目標ができた!という様子で鼻をふんすと鳴らしている。
「せんげん!ひかり、ぼくをおうじさまくらいつよくして!」
……それはさすがに、無理だと思うわ!
何も起こらず不満そうに首を傾げるクリスを、侍女達とともに微笑ましく眺める。
私は今日のおやつであるスコーンを自分のお皿に取って、クリームとジャムをよそう。そういえば前にアベルが来た時、最初にジャム、クリームの順番で。次にはクリーム、ジャムの順番で食べていたわね。
なんとなく同じようにしながら、私はスコーンをかじった。
アベルを見て倒れたのもこの庭で、最初に剣を突きつけられたのもこの庭だった。
記憶が蘇った瞬間は本当に、濁流のようで。
ヒロインが、皆が、アベルに殺されるいくつものバッドエンドを思い出して怖くなった。そしてこの世界に自分がいる衝撃は大きく、私も死ぬことを思い出して、気が遠くなった。
未来を変えようと決意して数ヶ月――私は少しでも、未来を良い方に変えられているのだろうか。
ゲームにいた人達、いなかった人達。
ゲームから得た知識と、シナリオから省かれていた《裏設定》。私が知らないこと。
少しずつ変化しているこの世界で、主人公は…あの子はどうしているのだろう。




