500.親父殿はわかってない
噴水広場より港側、メインストリートから西に外れた一帯は飲み屋街と化しており、屈強な海の男や非番の騎士を始めとした酒好き、飲み会好きが集まる場所である。
店によって内装や客層の品格も出る酒も異なるため、初めて訪れるなら店選びは経験者の助言を貰ってからがよい。
バー金糸雀もその一角に存在し、入口は大人二人が並べる程度の幅の下り階段である。
広々とした店内はカウンター席だけでなくテーブル席も多く設けられ、天井から小型のシャンデリアが落ち着いた光を投げていた。段差の低いステージ上では、老紳士が丁寧にピアノを奏でている。
混み合う程ではないが客席は充分に埋まり、ウェイターは二人、カウンター内では数人のバーテンダーが手を動かしていた。
「思ったより悪くない。」
酒の入ったグラスをからりと傾け、ジークハルトが呟く。
彼は薄暗い店内でもサングラスをかけたまま、生来の朱色の髪は茶色の長いウィッグに覆い隠されていた。
同じ円卓にいる補佐官のルトガーは濃紺のウィッグをかぶり、右目にかけた片眼鏡のチェーンは普段通りイヤーカフへと繋がっている。
バイオレットの瞳を主君へ向け、ルトガーは周囲に届かない声量で返した。
「この中のどこまでが見張りか、わかったものではありませんが…」
「どうでもよかろう。あいつらがあの位置をとった以上、他も聞き耳を立てるような真似はせんだろうよ。」
ジークハルトが視線で示したのは少し離れたテーブルだ。
護衛兼案内役として選ばれたジャック・ライルとロイ・ダルトンがそこにいた。あからさまにこちらを見る事はせず、しかし確実に視界に捉えているだろう位置取りだ。
ほぼ同時に店へ入ったにもかかわらず、連れではないとして別の卓へ着いていた。
――ジークはツイーディアを信用し過ぎではないか、とも思うが……それは逆もまた然りか。
信用ではなく理解と言うべきなのかもしれないと、ルトガーは考える。
そもそも暴虐皇子と呼ばれるジークの素行に一定の理解がなければ、学園の祭に呼ぶなどという馬鹿げた企画は出ないだろう。
明日の予定表を脳裏に思い浮かべ、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「…明日は懐かしい顔に会いますね。」
「そうだな。五年…いや、六年経つか。」
「それくらいかと。貴方が十歳前後の頃ですから」
以来まったく会っていない上に連絡も取っていなかったので、あちらは成長したジークハルト達に驚くかもしれない。
「下手をすると港まで駆けてくるかと思っていたが、さすがにあれも大人になったのかもしれんな。」
「あるいは、それを予想して到着時間を知らされなかったかですね。」
充分にありえる話だと言いながら、ルトガーは孤島リラに着いた時の事を思い返す。
用意された馬車へ乗り込む前、ジークハルトはほんの数秒だけ何かを気にしていたのだ。彼女の突撃を警戒しての事だったかと、今更ながら納得する。
酒のつまみは揚げたてのポテト、スライスした燻製肉、魚介を閉じ込めたチーズ焼き。
フォークで適当に刺して食べるジークハルトの仕草は少々粗く、無作法者ではないにせよ、傍から見て王侯貴族かと思う者はいないだろう。
帝国に二十いる将軍の中でも特に、ジークハルトは身分による兵士の差別をしない。
貴族だろうと平民上がりだろうと構わず把握しており、一般兵と肩を並べて食事する事すらあった。そうした機会に上流階級の厳格な作法など邪魔である。
チーズ焼きが思いのほか熱くルトガーは口内を火傷したが、常日頃から冷静沈着な男であるため、声を漏らす事も表情を変える事もなく――お陰で熱が逃げず、被害を広げながらも――落ち着いてこっそりと治癒の魔法を使った。
聞こえてきた足音に、ジークハルトが唇の端を上げる。
「客が来たようだな。」
火傷が治った箇所をぺろりと舐め、ルトガーは近付いてきた男へと視線を移した。
瑠璃色の短髪に明るいグリーンの瞳、落ち着いた色合いの紳士服の上からフード付きのローブを着込んでおり、腰には剣を携えていない。
偶然知り合いに会ったかのように会釈したユージーン・レイクスに対し、ジークハルトは軽く手を振って同席を許可した。
テーブルに置かれたグラスが一つ増える。
自身のグラスを軽く持ち上げてみせたジークハルトに応じ、レイクスも乾杯の仕草をしてから口をつけた。氷がからりと鳴る。
残っていた酒を一気に飲み干したジークハルトは、空のグラスをルトガーに渡してにやりと笑う。
「くくっ……まさか、俺が貴様と話す日が来るとは思わなかったぞ。ユージーン・レイクス」
「俺をご存じでしたか。」
「ああ。親父殿の誘いを蹴った男だろう?今やその名は大きな火種だ。即座に機嫌を損ねるからな」
それはレイクスが王国騎士団の一番隊長に任命された頃。
ルトガー少年がネズミに襲われるよりも前――…シェーレンベルクこそがアクレイギアの皇族だった頃の話だ。レイクスが懐かしそうに目を細める。
「それはまた、随分と嫌われてしまいましたね。」
「当然だ。あの時貴様が味方となっていれば、親父殿の帝位簒奪は楽に済んだだろう――もっとも、その場合今日まで帝位を保てなかっただろうが。」
サングラスの奥、白い瞳がレイクスを見据えている。
明るいグリーンの瞳には怯えがなく、油断もなく、輝ける光がある。短い笑い声を漏らし、ジークハルトは鋭い歯を見せて笑った。
「ああ、つくづく親父殿はわかってないな。戦力になろうが何だろうが、俺なら絶対に誘わん。」
ざくりと音を立ててフォークを突き刺し、まだ温かいポテトを口へ運ぶ。
お前も食えと手振りで示せば、レイクスは律儀に軽く一礼してからカトラリーに手を伸ばした。ルトガーはウェイターが運んできた酒を受け取ってジークハルトに差し出す。会話に口は挟まなかった。
近い将来皇帝となるだろう青年を前にして、レイクスは穏やかな笑みさえ浮かべている。
「ツイーディアと貴国では、風習も常識も異なるものだと聞きます。察するに、俺がついていけないやり方もあるのでしょうね。」
「そりゃあ、あるさ。貴様が気に食わないだろうくだらん物事が、山ほどな。」
「はっはっは!くだらないと仰いますか。」
帝国に誘ったところでこの男は来ないだろうと、ジークハルトは一目で見抜いていた。
万が一にも来たところで現皇帝のためにはならないだろうと、すぐに理解した。
レイクスには希望を抱き先を見据える目がある。
ツイーディアに生まれ育ち、弱きを助け悪を討つ騎士の道を歩んだ男だ。
人に好かれ人を率いる才があり、自ら道を切り開くだけの力も魔力も持っている。
そんな人間が来れば、どうなるか。
――民の窮状を見て反乱が起き、親父殿の国など残らんだろうよ。
第一に、ツイーディアの近衛を引き込もうという企み自体が馬鹿げている。
しかし現皇帝には到底理解できないのだ、己の強さに従わない者達の心理が。
この世に生きる万人にとって、ツイーディアの王族に仕えるよりアクレイギアの皇帝に仕える方が誉ある事だと、そう思っている。
「帝国にはくだらないが必要な物と、くだらない上に必要もない事がある。俺が自軍で勝手をしている事くらい、貴様の耳にも入っているだろう?」
「……四月にツルバギア国を落とした際の五人衆などは、確かに。その後の実績を見ても、貴国にとって大きな戦力である事は間違いないと思っています。」
「あァ、しかし親父殿は認めんからな。あくまで俺個人が雇った非正規兵という事になる。あいつらはそれで構わんらしいが…」
ジークハルトが呆れたようにため息をつく。
ルトガーは五人の姿を思い浮かべ、なんだか苦いものを噛んだ気になって酒を呷った。
アクレイギア帝国ではなく、ジークハルトに勝利を捧げるために戦う若き兵士。
自分もそうだという自覚がルトガーにはあるが、あの五人よりはずっと理性的だ。ジークハルトの長い指先がこつり、テーブルを叩く。
「どの道、時間の問題だ。」
事実を告げる声は冷えた刃のようで、彼の覚悟を示していた。
数年の内に帝位を奪う、それはジークハルトがとうに決めた事だった。三年後か、二年後か――あるいは、一年もないのかもしれない。
――退かれる前に、親父殿を殺す。
もっとも、歴代皇帝の中で自ら退位した者はほんの一握りだ。
ジークハルトの父とて、あと十年経とうが退く事はないだろう。
なぜならそれは、臆病者がする事だから。
目を伏せたレイクスが眉を顰めているのを、ジークハルトはつまらなさそうに見やった。
「何を難しい顔をしてる。血を守るツイーディアの騎士には、親殺しは理解できないか。」
「いえ……貴国の習わしは理解しているつもりです。ただ」
「ただ?」
「せっかくの女神祭ですので、その話は一度置いて頂けたらと。俺が来たせいで父君を連想させてしまったので、それは申し訳ありませんが…。」
「――…、なるほど。確かにな」
ゆっくりと瞬き、ジークハルトはにやりと笑ってグラスを傾ける。
遠目でそわそわしていたらしいジャックが、それを見てほっと胸を撫でおろした。自分も酒を呷り、レイクスは快活な笑みを浮かべて問いかける。
「ジル様。初日となる今日は、お楽しみ頂けましたか?」
「ああ、酒が美味いと感じるくらいにはな。」
ジークハルトは持ち上げたグラスを軽く揺らし、氷が小さな音を立てる。
面白い展示も見られたし、ウィルフレッドやアベルを始めとした次代との交流もできた。
パーシヴァル・オークスやシビル・ドレークといった、ツイーディアの上層と内密に面談できた事も大きい。
「それは何よりでした。」
「欲を言えば、貴様かルーク・マリガンと手合わせの一つでもしてみたかったが。それは流石に不興を買う」
どちらも同意はしないだろうし、強引に行えば今回の外遊は台無しだ。
ジークハルトが来る事に頷いたあらゆる人々の信用を無くし、それは皇帝となった後の外交でも響くだろう。
昨年の親善試合のように一時的な楽しみを優先して問題ない時もあるが、背負うものがある以上、ジークハルトは線引きを守らねばならない。
「ええ。我々としても、星々が認めた大切な客人に乱暴などできませんから。」
「儘ならないものだな。どうせアベルと戦るのも駄目なのだろう?」
「はい。勝負事をするならボードゲームやカードのような、どちらも傷を負わないものでお願い致します。あるいは的当てか……訓練場の一部、《護身術》の体験授業の隣では、そういった遊びにも興じられますよ。」
「…俺とあいつが揃って《お遊び》か。笑えるな」
互いに本気を出すと目立ちそうだが、手を抜けばジークハルトが機嫌を損ねる。
どちらも避けたいアベルがとる手段としては「誘いを断る」だろう。いずれにせよ試合ほどは体を動かせないかと、退屈そうな顔をしたジークハルトにレイクスが「ああ、そうだ」と付け加える。
「宿泊先の庭で補佐官殿と鍛錬される分には、建物や人に被害がなく、防音の範囲内である限りは問題ありません。」
「ほう?そうか。」
「疲れるから嫌だ。」
すっと手のひらを突き出し、ルトガーは即答した。
何が問題ないというのか。
こんな時間からジークハルトの体力に付き合わされたらたまったものではないし、自分が疲れ果てたら一体誰がこの自由人を見張り、守り、出歩かないよう引き止めておけるのか。ツイーディアの人間などあてにできない。
「寝るまで暇なら、あの紫のご令嬢でも連れ込んで喋ってればいいでしょう。」
「シャロンをか?俺は構わんが、確実に二人以上ついてくるぞ。ややこしいと思うがな」
冷静に返すジークハルトに加え、元凶であるレイクスまでもが「生徒を夜間そちらへ行かせるわけには」と正論を言ってくる。
「ルトガー。」
名を呼ばれてサングラス越しに見据えられ、数秒。
主君が「冗談だ」と笑い出すまで、ルトガーは生きた心地がしなかった。
とうとう500話になりました。
いつもシャロン達を見守ってくださりありがとうございます。
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一つ一つが励みになっております。
未だ道半ばの長い物語ではありますが、引き続きよろしくお願いいたします。