499.笑うための努力はいらない
魔法発表会を無事に終え、グレン先生やノア叔父様に挨拶を終えた私は控室へと戻ってきた。
中は二人席の丸いテーブルセット、壁には備え付けの棚、鏡台の前に猫脚の椅子が一つ。後はメリルが持ち込んだ荷物くらいだ。衣装掛けには、私の制服が皺のないよう掛けられている。
「お疲れ様でした、シャロン様。」
「ありがとう、メリル。」
室内は温かく保たれていて、私は毛皮の肩掛けと長い手袋を外してからティーカップに指をかけた。
カップを傾けるとほどよい温かさが身体にしみわたり、ほっと息をつく。
「ふう……なんとかこなせて良かったわ。」
「とても落ち着いておられて、ご立派でしたよ。」
「ありがとう。もちろん、何よりすごいのは発表者の皆様だけれど。」
「第一王子殿下やニクソン様は、流石の技量でしたね。フェリシア様の魔法も本当にお美しくて」
感想を伝えてくれるメリルに微笑んで頷きを返しながら、お招きした皆様は大丈夫だったかしらと考える。
発表会の間なにも異常はなかったし騎士の伝令も来なかったので、それぞれ大きなトラブルはなかったという認識でいるけれど。
チェスターやセシリアさんが付き添った、ロベリアのヴァルター殿下。
騎士のケンジットさんが密かについた、ヘデラのロズリーヌ殿下と従者のデカルトさん。
キャサリン様の兄君とアベル、リビーさんが護衛についた、君影のお二人。
そして――…オークス公爵、ドレーク公爵との会談も同時に行った、アクレイギアのジークハルト殿下。
アベルの護衛騎士のダルトンさん、お父様の部下であるジャック様、そしてホワイト先生。殿下の補佐として同行しているルトガー様……どんな会話があったのか気になるところだけれど、それは私が知るべき範疇を超えている。
もう一度カップに口をつけると部屋の扉がノックされ、廊下に控えているダンの声がした。
「お嬢様。第二王子殿下がお見えですが、いかがなさいますか?」
――…私、何かやったかしら。
カップを持ったまま、最初に浮かんだのはそんな言葉で。ぱちりと瞬いてから、私は「お通しして」とメリルに合図した。
ダンはにやにやと笑いながら言った声に聞こえたので、少なくとも深刻かつ重大なお叱りの可能性はないはずだわ。カップをテーブルに置いて立ち上がる。
メリルが手早くもう一つのカップを用意して紅茶を注ぎ、ダンが開けた扉から「失礼する」と言ってアベルが入ってきた。
「…悪いけど、君も席を外してくれる。もちろん扉は閉めきらなくていい」
そう言われたメリルは私に確認をとってから退出し、アベルは私が立っていると見るや、座っていいと手振りをした。
大人しく指示に従うと、アベルは客席で着ていたのだろうローブを私の向かいの椅子の背に置く。困っているのか疲れているのか、彼は眉を顰めたまま席についた。
「いきなり来て悪い。」
「それは構わないけれど、何があったの?」
率直に問いかけると、アベルは開きかけた唇を閉じ、指の背を眉間にあててため息をついた。…理解できない何かが起きた、といったところかしら?
待つ事ほんの二秒、テーブルに手を置いたアベルは私の方を見ずに言った。
「まず君影の姫が俺に、君と二人で話をすべきだと言ってきた。そこに合流したウィルが、是非そうするべきだと言って譲らなかった。」
「……貴方が、二人で話したという事実を作りに来た事は理解したわ。エリ姫が言う『話』というのは、何についてかしら。」
「…見当違いの誤解をされてるだけだから、そこは無視していい。」
「そうなの?」
聞き返すと、アベルは眉を顰めたまま頷いた。
ヴェンを夫にすると言っていたエリ姫の無邪気な笑顔が思い出される。アベルがその誤解を解こうとしなかった、とは思えないけれど……もしかして、聞いていただけなかったのかしら。
ウィルにまで言われては駄目押しね、アベルにはどうしようもなかった事でしょう。説得するよりさっさと私に会う方が楽だ。
後から行ってもし私が着替え始めていたら、それだけ時間がかかってしまうし…。
納得して軽く頷くと、金色の瞳と目が合った。
二人用の丸テーブルは食堂のそれに比べると小さくて、私達は手を伸ばせば簡単に届く距離にいる。まるであの窓辺のような近さで……安心したのか、胸の奥がじわりと温まる心地がした。
薄く開けられたままの扉の先にはダンもメリルもいるけれど、聞き耳を立てるような真似はしないから、少し声を落とすだけで届かないだろう。
「ではしばらく、私と一緒にいてくれる?」
「…もちろん。君がいいなら」
二人で話せる機会を喜ぶ自分がいた。
自然と眦が下がって、心のままにくすりと微笑む。アベルの眼差しが僅かに和らいだ気がして、さらに嬉しくなった。
ウィル達に押し切られた貴方はきっと……二人で話す時間があっても良いと考えたからこそ、ここへ来てくれたはずだから。
「今日は大丈夫だった?伝令の方から、エリ姫様は合流が遅れたと聞いたけれど。」
「ああ。マグレガー兄妹の誘導もあって、そのせいで他と鉢合うような事にはならなかった。空き時間にロズリーヌ殿下や教員の様子も確認できたから、むしろこれでよかったかもしれない……そちらは?」
「問題ないわ。殿下達は落ち着いて回られていたし、周りの人が正体に気付くような素振りはなかった。」
ギャビーさんの新作は相変わらず写真のように繊細なタッチで、ジークハルト殿下すら驚かせていたわね。異常だろう、と仰るほどで。
ヴァルター殿下は女性恐怖症にもかかわらず、終始こちらを気遣ってくださって……思っていた以上にあの方とお話できたのは、やはりホワイト先生の存在が大きいでしょう。
「…ヴァルター殿下との交流は、上手くいったのかな。」
「ええ。時折お辛そうだったけれど、ホワイト先生の話をする時は心から笑っているように見えたわ。それに、帰国したら私に手紙をくださるそうなの。確かにそれなら症状は出ないでしょうし、殿下と情報交換できるなんてありがたい話ね。」
「手紙か……」
アベルはどうしてか少し眉根を寄せた。
殿下から提案してくださった事なのだし、無礼な振る舞いはしていないはずだけれど。何かまずかったかしら。
「君がジークと内密にやり取りした結果の今日だから、『よかったね』と軽く言う気にはなれないな。一応、最初に来た時はウィルにも伝えてから返事をした方がいいんじゃない。後から知ると気を揉むかもしれない。」
「…そういえば、先日は私を『国益のために差し出した』と落ち込んでいたものね。もちろん差し出された覚えはないのだけれど、心配させないように気を付けるわ。」
それでいいとばかりに頷くアベルを見て、ウィルに言われた事をもう一つ思い出す。
ついくすりと笑ってしまって、目が合った私は素直に口を開いた。
「ロベリアに行くなら貴方と一緒に、だったかしら。ふふ」
「あれは本当に意味がわからない。護衛の面で言えば文句はないけど、それならウィルもいてくれないと余計な噂が立つ。」
「ウィルが貴方を信頼している証だわ。」
「それはわかるが……はぁ。ウィルにはもう少し、周囲からどう見えるかを考えてほしい。今もそうだが」
「貴方がここへ来た事は、エリ姫様とウィル、メリル達以外に誰か知っているの?」
「ヴェンとイアン、リビー。言い触らす真似はしないだろう」
なるほどと頷けば、アベルは小さくため息をついてどこともない空中へ視線を投げた。ウィルにも困ったものだ、なんて思っていそうだわ。
ダンが冗談でアベルが私をデートに誘ったと言った時も、ウィルは「ぜひ行ってくるといい」なんて大賛成していた。
『――…ふざけるな。なぜこうなったんだ』
『割と貴方のせいだと思うわ、アベル。』
ものすごく不可解かつ不満そうなアベルの顔を思い出して――…でも、当日は彼も笑ってくれて。そういうデートではなかったけれど、あの日は本当に楽しかった。
またいつか行きたいと、そう思うくらいには。
いつか…
『何年先の未来でも、こうして三人で笑い合っていたい。俺はその未来を守りたいんだ』
『――もちろんよ。私達はずっと一緒だわ』
『何年先より前に、サディアスの件を何とかしないとね。』
……貴方はいつまで、私達といてくれるのだろう。
そう考えてしまって、無意識に唾を飲む。
発表会を無事に終えて緊張の糸が切れていたせいか、気が緩んだところへ不安が一気に押し寄せてくる。
私達はちゃんと、貴方を繋ぎとめていられるのかしら。
普段心の奥底にしまっている不安が、恐れが、じわりと滲み出てきて。薄く微笑みを浮かべていたはずなのに、今、自分がどんな顔をしているかわからなかった。
こんな事では駄目だわ。
アベルが言った通り、何年先の話より今の女神祭を、そして《学園編》の最終章である一年生の二月を乗り切らないといけないから。
記憶に残っている、かつて見たゲーム画面が頭に浮かぶ。
【 シャロンが治癒の魔法をかけながら、「治して、お願い」「どうして」と泣いている。 】
立ち絵の私はぼろぼろと涙を流していた。
【 アベルは何か呟いたみたいだけど、力のない声は私まで届かなかった。 】
私の手や制服についた血はアベルのものだろう。
【 そして、どうしてか彼は微笑み、目を閉じる。 】
ウィルを守った貴方はきっと、「これでいい」と思ったのでしょう。
【 私は呆然と座り込んだまま、その光景を見ている事しかできなかった。 】
ゲームの主人公はカレン。
そのまま画面はブラックアウトして、別の日に変わってしまうけれど……目の前で貴方を喪った私は、どんな思いでいたのだろう。
「シャロン」
アベルが私を呼ぶ。
瞬いて視線を上げると、はっきりと目が合った。
アベルは手のひらを上にして、軽く開いた手をこちらに向けてくれている。
それを許可だと理解してそっと手を伸ばし、彼の指先に触れた。どちらからともなく指先だけを軽く繋ぎ、テーブルに下ろす。
ほのかな熱を分け合う行為は彼の優しさで、私達の絆を証明することで。
たったこれだけで私は、ひどく安心してしまう。なのにどうしてか、胸が苦しくなった。
「何か、不安にさせたか?」
「――ごめんなさい、違うの。未来の話をしたから、つい……《先読み》のあった二月の事を、考えてしまって。」
「謝らなくていい。……その件については、対策の検証もしただろう」
「ええ。」
わかっている。
アベルも、ウィルも、私が《効果付与》を施したカフリンクスを身に着けてくれていた。
水の守りは火の攻撃魔法に対して自動的に発動する防御……威力ごとの検証はアベルがしてくれたし、その結果は私も見ている。
「魔力暴走については…二週間前、薬を依頼した者を捕えて自供も取れた。」
「っ、そうなの?」
「ああ。詳細は教えてやれないが」
半年ほど前、心当たりがあるからお前は動くなとアベルが言っていたけれど……無事に捕まったのね。
違法薬物を作らせるだけの財力あるいは権力、伝手……公爵令息を狙う事からも、やはり簡単にはいかない相手だったのだろう。時間はかかっても、捕まってくれて本当に良かった。
けれど、詳細を明かせないこと、捕まえたその時に教えてくれなかったこと、「だから安心していい」とは言わないこと……アベルの表情が晴れないことからも、まだ解決していないのだとわかった。
「作られた薬は既に使ったという証言もあるが、信憑性は薄い。騎士団が捜索を続けている」
薬の行方がわからないということ。
自然と、繋いだ指先に力が入った。アベルが深く繋ぎ直してくれて、温もりが広がる。金色の瞳は私をまっすぐに見ていた。
「油断はできないが、《先読み》の通りにはさせない。万が一誰かの暴走が起きても、お前の事はウィルと俺が守るし、――俺達の事は、お前が守ってくれるんだろう?」
ふと微笑んでアベルが言う。
彼の指が、私の手を優しく叩いて。
ああ、覚えてくれているのだと思った。
いつか貴方達を守れるようになりたいと言った事を。
心臓がとくりと震える。
笑うための努力はいらなかった。私は今、心からの笑顔で伝えられる。
「もちろんよ、アベル。私……貴方達と一緒に生きていたいから。」
「…無茶だけはしてくれるなよ?」
「善処するわ。」
彼の手をとんとんと指先で叩きながら答えると、小さくため息をつかれてしまった。
けれど、苦笑するアベルの目は優しくて……私は、お父様への手紙に書いた一言を思い出す。深くは考えておらず、思ったままに書いた一言だったけれど。
その通りなのだと、改めて自覚した。
――あの方が笑ってくださると、大丈夫だと思えるのです。




