498.意識する必要もない事実
教員の待機所の一つとして区分けされた観客席の一角には、今は誰も座っていない――ように見えていた。
実際には第二王子アベル、三つ隣の席に君影国の姫エリ。
二列後ろにはハラハラした様子のイアン・マグレガーと、エリの護衛であるヴェンが座っている。
彼らの姿も声も他の観客にはわからないよう魔法をかけているが、今はその中でもさらに、アベルとエリの会話がイアン達に聞こえない状態になっていた。
「くっ、声が聞こえないと何もわからない……!ヴェン、エリ姫はきちんと遅刻の謝罪をしているだろうか?」
「そう思いますが、それだけなら我々に声が聞こえぬようにする必要もないかと。」
「そうだよな。……余計な事を言っていなければいいのだが。」
合流してすぐ、アベルと二人での会話を望んだのはエリの方だ。
真剣な話があるという事だったため、朝の合流をすっぽかした事について一国の姫としてしっかりと謝るのだろう、そう思ってイアンやヴェンも防音の魔法の追加に賛成した。
しかし…
沈黙が漂っている。
アベルはエリが話し始めるのを待っていたが、なかなかどうして、口を開かない。
いつもわあわあと騒がしい、あのエリが。
――余程の事態か、あるいは……驚くほどどうでもいい話の可能性もあるな。
ステージで披露される魔法を眺めながら、アベルはただ待っていた。
ようやっとエリが口を開いたのは、発表会も後半になってからの事だ。
「アベル。おぬしに言わねばならぬ事がある」
「何かな。」
真剣な声色のエリにそう聞き返せば、彼女はアベルの方を見た。
纏わりつく黒いものを見ないよう、相変わらずハート形のサングラスをかけている。とても真剣な話がしたいようには見えない。
「よいか。その……男女の交際というものは、互いの合意があってこそなのじゃ。」
「……、いきなり何?」
「まぁ聞け。若気の至りで済ませて良い事と悪い事がある。特におぬしは王子なのじゃから、求めた場合に相手が受ける圧を考えてやらねばならぬ。グイグイいけば良いというものではないのじゃぞ。」
「君が言う事でもないと思うけど。」
姫であるエリが護衛兵であるヴェンに求婚するのは、それにあてはまるのではないか。
アベルの冷静な指摘に、エリは「わらわの事はよいのじゃ!」と軽く拳を握った。
「噂によれば、おぬし!シャロンと……ちちっ…チッ…スをしたそうではないか。」
「チ……何?」
「口付けじゃ、口付け!声を潜める乙女心がわからぬかっ、このたわけ!」
「……剣闘大会の話かな。」
声を潜めても潜めなくても、今声が聞こえるのは互いだけである。
一つため息をついて、アベルは面倒そうに眉を顰めた。
「惚れてないと言っていたであろう、それなのに大衆の面前で口付けとは、どういうつもりなのじゃ!?乙女を弄ぶなど見損なったぞ!」
「…誰にどう聞いたか知らないけど、そんな事はしてない。あれは…」
「《あれ》と言う時点で心当たりがあるではないかーっ!おぬし、惚れてもない娘にそんな事を!」
エリは眉を吊り上げ唇を尖らせていたが、何も悪びれていない様子のアベルを見てふと閃いた。気付いてしまった。
パカッと開いてしまった口元に手をかざす。
「ハッ……そ、それとも、あれか?あれなのか!?」
「一度落ち着いてほしい。黙る事はできる?」
「あの時わらわに言った『そんなわけない』が照れ隠しで、実は……というやつかッ!?」
「できないか。貴女は本当に止まらないね」
軽く首をひねり、アベルは長い脚をゆったりと組んだ。
興奮したエリとは中々、まともな会話にならないものである。
「よいか、アベル。熱烈な愛情表現がダメと言っているわけではない。」
「してないよ。」
「わらわとて、ヴェンからそういったあれを求められたら、その…満更でもなくンゥッフフフ、ごほん。まずはな?相手に『好きです』と伝えるところから始めるべきじゃ。」
「僕の声、聞こえてる?」
白けた様子で聞いたアベルを見もせずに、エリは自分の顎にそっと手を添えた。
君影国が誇る美姫の冴えわたる頭脳が、またしても閃いてしまったのである。
――好きと言ったところで……合意の無いチッスをしたアベルに、シャロンのような身持ちが固そうな娘をきちんと口説くだけの手腕があるのか?いや、とてもそうは思えぬ!これ以上の不和を起こさぬためにも、わらわが指導してやった方がよいのではないか。そうとなれば…
「……おぬし、シャロンのどこに惚れたんじゃ?いやもちろん?茶化したいとか、わらわが楽しいからではなくてじゃな?助言のために……さ、ともかく答えてみよ。」
「大会で彼女がやったのは《剣に口付けるフリ》だ。僕じゃないよ」
「む……そうなのか?では無体は働いてないのか、それは何よりじゃな……で、あの娘のどこが好みなんじゃ?」
誤解が解けたはずなのに新たな誤解が生まれ、サングラスの奥にある瞳はきらりと光っている。
アベルが再びため息をついてステージに視線を移し、エリは「照れて言わぬ気か」と察した。ステージにはちょうど、着飾ったシャロンが眩い笑顔を見せている。
エリはちらちらとアベルの様子を窺った。
「見目の良い娘じゃからな~…、今日も可愛いのう、みたいな事を思っておるのか?」
相手にするだけ時間の無駄なので、アベルはもはや黙っていた。
ウィルフレッドが選んだ娘でありアーチャー公爵令嬢なのだ。シャロンの見目が良い事など一目瞭然であり、口に出すまでもなく、逐一意識する必要もない事実だった。
特に、普段の落ち着いた笑みとはまた違う――咲きかけた花がほころび満開になるような、柔らかな笑顔。
あれを見られると、分不相応な輩でもじろじろとシャロンを眺め始めるのだ。オペラハウスの時のように。ロベリアの王弟が陥落したのも最後の一押しは笑顔だったのではと、アベルはチェスターから聞いている。
「優しい雰囲気ながらも意思が強そうに見えたが、どうじゃ?おぬし、ただ言う事を聞くだけの娘には興味なさそうじゃからなぁ~。のう?」
今後もしウィルフレッドが何か道を誤りそうな時、隣に立っているべきなのは彼に意見できる者だ。
シャロンはそれができるし、何よりその存在はウィルフレッドにとって心の支えになっている。だからこそウィルフレッドが少々シャロンに甘く、結果的にアベルが困るような時もあるのだが。
「何か言わぬか、アベル。告白まで行かずとも二人で出かけたとか、手を繋いだとか見つめ合ったとか、ほっ…抱擁を交わしたとか、何か進展はないのか?」
幾度か二人で出かけたのは不可抗力その他諸事情によるものであり、手を繋ぐ事はシャロンを安心させるための有効手段であり、会って話す事が多ければ自然と目が合うものだし、体が密着した事があるのは主に移動や事故のためである。
ステージでは、アベルと長年の付き合いであるフェリシアが魔法を披露していた。
目を引くような奇抜さや力を誇示する程の威力こそないものの、丁寧で美しい発表だ。
「さては、敵に強くても想い人には強く出れぬのか……?合意なきチッスは論外じゃが、どう口説いたらよいか、脈のあるなしなどな?相談に乗るのもやぶさかではないぞ。どうじゃ?」
脈のあるなしという次元ではなく、シャロンは既にウィルフレッドの婚約者なのだ。
アベルがそういった意味で彼女を求める事はないし、どこの誰に口説かれようが、シャロンが他の男に目移りする事はあり得ない。
「無視するでない、アベル!こらっ!」
「君がこちらの意見を聞かないからでしょ。彼女はそういう相手じゃない」
「わかったわかった。確か、明後日の晩には《ぶとーかい》があるのじゃろ?キャサリンに聞いたぞ、おぬしらは誰か女子を誘って踊るが、最初に誰を選ぶかが重要なのだと。わらわが作戦を授けてやっても…」
アベルは後ろを振り返り、無言でイアンに合図した。
二人を囲っていた防音の魔法が解かれる。エリが「あっ!」と声を上げてアベルを睨みつけた。慌てて立ち上がったイアンが前の座席に片手をつき、エリの視線を遮るように手を振る。
「エリ姫?ちょっと――」
「まだ終わっておらぬぞ、アベル!わらわと恋バナをせい、恋バナを!」
「こ………えっ、謝罪は?」
つい真顔になったイアンが聞くと、エリは「何じゃ?」とばかり目を丸くして見返した。
朝の一件についてはすっかり忘れているようである。
イアンの長いお小言開始まで、あと――…
《それでは、最後の発表です。》
シャロンの落ち着いた声が響く。
観客席からは待ちきれないとばかりに拍手や歓声が返ってきた。皆その名を聞く時を、その姿を見る時を楽しみにしていたのだ。
《一年生――ウィルフレッド・バーナビー・レヴァイン!》
現れた王子の姿を見て、歓声はどよめきに変わった。
ステージにひらりと飛び乗ったウィルフレッドは、代わりに降りたシャロンとほんの一瞬、微笑み合う。
長い金髪は編み込みを作りながら後ろの低い位置でまとめ、身に纏っているのは黒を基調とした騎士服だ。剣闘大会でアベルが着ていたものともデザインが異なり、ウィルフレッドのために仕立てられた物だとわかる。
金装飾の黒い衣服によく映える紅色のネクタイを締め、襟飾りのついたシャツとなびくマントは純白。ステージの中央へ進み出た彼は、辿り着くと同時、優雅な仕草で剣を抜いた。
星の意匠の剣を。
「始めようか。」
観客席までは届くはずもない一言。
薄く微笑んだウィルフレッドが剣先を天に向けて胸の前で構えると、とうに準備を終えていた楽隊が音を奏で始めた。
相応しく、相応しく。音色には気品があり決して騒がしくはなく、けれど丁寧に添えられた低音は聴く者の耳に、心に、必ず届く。
ウィルフレッドは光の属性こそが最適である。
柔らかな光を纏った剣を手に、舞うように回転を加えながら曲に合わせて空中を切り払っていった。
刃が辿った三日月の軌跡は光の帯となって宙に残り、空へと上がっていく。遠い星への道しるべのように、途切れ途切れの螺旋階段のように。
「宣言。水の大鳥よ、この地に現われ俺と共に飛んでくれ――今こそ。」
ウィルフレッドが高く跳躍し、その瞬間にステージの床から湧き上がるようにして、三メートルはあろうかという水の大鳥が姿を現した。
大鳥は頭をもたげて飛び立って、先に跳んでいたウィルフレッドを《固形化》のスキルもなしに背に乗せて羽ばたいていく。
空に記された光の道をぐるぐると辿って空高く、いつの間にか大鳥はきらきらと輝く光の粒を纏っており、水の反射も相まって明るく照らされた中、掲げた剣と黒い衣服がウィルフレッドの存在を教えていた。
全ての光を辿り終えると大鳥はコロシアム上空をゆっくりと旋回し、剣先から零れ落ちるように灯された炎が連なって一つの輪を形成した。
大鳥が輪の中央に着くとその身を反転し、逆さまになったウィルフレッドが遠い地面に向けて飛び出した。風の魔法があるとわかっていても観客席から悲鳴が上がる。
ウィルフレッドはまだ点々と残っている光の帯に足を乗せ、まるでそれが三日月状の床だと言わんばかりに靴裏で滑っては端で光を蹴って次へ、さらに次へ、次へ――…
実際には風の魔法で飛んでいても、床を滑っていると見えるように姿勢も減速も細かく調整している。
水の大鳥は落下していくウィルフレッドの周囲を大きく回り、ステージ中央へ飛んでいくその体は光の反射が強くなり、弦楽器が掻き鳴らされた瞬間に光となって降り注いだ。
淡く輝く光の草原へ、ウィルフレッドは優雅に降り立つ。
黒色を纏う彼は確かに微笑んでいるけれど、青い瞳には油断のない鋭さがあった。剣を一振りすれば刃を覆っていた光は消え、曲の終わりと共に剣を鞘に納める。
一気に沸いた大歓声を浴びながら、ウィルフレッドの目に弟の姿は映らない。彼は今君影の姫と共に、リビー・エッカートのスキルで身を隠しているからだ。居る場所は知っていても、そこには誰もいない。
けれどきっと、アベルは自分を見ているはずだから。
そんな確信を持って、ウィルフレッドは笑顔で手を振った。




