4.ティータイムの乱入者
「シャロン様ーーッ!」
よく晴れた午後のこと、公爵邸にはメリルの悲鳴が響き渡った。
……何も、私が侵入者に刺されたとか、攫われてしまったというわけではない。
お父様が手配してくださった、体を鍛えるための「先生」が来るのはまだ先のこと。
だけど今日から頑張ると決めたのだから、兎にも角にも筋トレだわ!
…と、腕立て伏せに腹筋にスクワットにと思いつくままやっていたら、疲労困憊状態になってしまっただけである。
私だって以前からダンスのレッスンくらいは体を動かしていたけれど、本格的な筋トレなどした事がない。
悲鳴を上げる筋肉に「わかりました!休む!休みます!」と心の中で叫んでベッドに倒れ込んだところ、位置が端過ぎたのかズルズルと床に落ちてしまった。
――もう一旦このままでいいわ…これ以上動けない……。
などと考えていたら、メリルが入ってきたのである。
扉をノックする音は聞こえたけれど、あぁ声を出す元気がないわ、と思う内に開けられていた。
ドヤドヤと使用人の皆が駆けつけてきて――お父様はお仕事に、お母様は社交に出ていた――状況を把握してすぐに散ったけれど、メリルからは「脅かさないでください!」と叱られてしまった。
気分転換のためにも、庭へ移動してのティータイム。
痛む筋肉を擦りながら考えるのは、やはり昨日の事だった。
「本当にひどい無礼を働いてしまったわ。誠心誠意謝らなくては…急ぎたいけれど、すぐに会えるような方々ではないわよね。お父様は、ひとまず自分が対応したから、お前は落ち着いてからにしなさい…なんて言っていたけれど。」
ため息交じりに呟くと、メリルは苦笑しながら紅茶を注いでくれた。
「そういえば、気絶した私をメリルが介抱してくれたのよね。本当にありがとう。」
「むしろ、お一人にして本当に申し訳ありませんでした。私がお傍にいれば…」
しゅんとするメリルに慌てたけれど、結局は「いえ私が」「いやいや私が」とループしてしまう。
やがて笑い合って、私は紅茶で喉を潤した。
「バーナビー…ウィルフレッド殿下はお優しいから、気にしていないかもしれないけど。第二王子殿下は怒っていらした?」
「怒った様子はありませんでしたよ?えぇ、まったく。」
それならよかったと少しほっとする。
前世の知識で大体の人柄を知ってはいるものの、流石に初対面で叫んで気絶したケースはわからな…
「第一、シャロン様を抱きとめたのも第二王子殿下でしたし。」
紅茶を噴くところだった。
「んッ!く、げほっごほごほ!」
「シャロン様!大丈夫ですか、お水を飲まれますか?」
噎せた私の背をメリルが擦ってくれる。差し出された水をくぴくぴ飲んで、大きく息を吐いた。
「はぁっ、はぁ……ど、どういう事?だっ…抱きとめた?」
「えぇ、流れるような動きで、サッ!と。剣術に秀でた方とはお聞きしておりましたが、動きが違いますね。動きが。とても十二歳とは思えない身のこなしで。」
「あぁああぁ…なんて申し訳ないのかしら。顔を見て叫んで気絶した上に、助けて頂くなんて……」
しかも相手は王族だというのに。
私はテーブルに肘をつき、すっかり頭を抱えてしまった。前世の記憶を得て混乱したとはいえ、やらかしすぎだわ。
「声をかけても起きないとみるや、そのまま『失礼。』と抱き上げて屋敷の中まで!」
「ひぇ……それは、そん、そんなぁ…!」
「護衛騎士の方も私達も慌てておりましたが、お客様方の目につかないところまで来たら、私ども使用人に任せて下さいました。」
「わ、私、なんてご迷惑を……」
「その時も、『ご令嬢に無礼をした、すまない。気絶しているだけだと思う』とおっしゃって。駆けつけた旦那様達にまで謝られて…」
魂が抜けていきそう。
あら、私このまま死ぬのではないかしら、不敬罪で。
熱く語っていたメリルは、オレンジの瞳で私をじっと見つめた。
「シャロン様。第二王子殿下って、噂とは違うお方なのですね。」
「…そ、そうね……。」
赤くなったり青くなったり忙しい頬を両手で押さえる。
城の外に聞こえてくる彼の噂と言えば……優秀ではあるが気まぐれがひどいとか、第一王子殿下に嫌がらせをしているとか。
騎士をも剣で負かしてしまうとか、奔放で抑えが効かないとか…
民を、遊びで殺しているとか。
サクサクと芝生を踏む音がして振り返ると、細身の老紳士が眼鏡をきらりと光らせた。長年この家に仕えているお父様の執事、ランドルフだ。
私はちらりと、メリルの位置が適度に離れている事を確認した。あまり使用人と雑談するものではありません、というお説教は耳にたこができるほど聞いている。
「シャロン様。第一王子殿下がお見えですが。」
「え!?お、おぉお通ししていえ私が行きまむんッ!」
舌が!舌が!!
慌てて立ち上がりかけた足を止めて口元を押える。痛い……!
私は玄関に向かおうとしたけれど、テーブルから数歩も離れないうちに、屋敷の角からバーナビーが顔を出した。
「シャロン!」
「バ…あ、いえ、ウィルフレッド第一王子殿下…!」
「ウィルでいいよ、体調は大丈夫?」
一つに結ったさらさらの金髪が乱れてしまうのも構わずに、私の幼馴染は心配そうな顔で駆け寄ってきてくれる。
「え、えぇ…はい、ウィル様。昨日は大変なご無礼を。」
「敬称も敬語もいらない。シャロン…俺と君は友達だろう?これからもだ。……違う?」
遠慮がちに私の腕に触れ、けれどこれだけは譲らないとばかりに彼は言う。
寂しげな色を湛えた青い瞳が、私をじっと見つめていて……うぅ。
「わかり…わかったわ、ウィル。失礼でなければ、今まで通りに。」
「失礼なわけがない!…ありがとう、シャロン。」
嬉しそうに微笑まれて、つい私もはにかんでしまう。
けれど…あぁ、ウィル。
「腕が…」
「え?あっ、ごめん!失礼なのは俺だったね。」
慌てた様子で手を離し、ウィルは視線を彷徨わせた。焦りのせいか、その頬は少し赤らんでいる。
私は腕を軽くさすって「違うの」と呟いた。
「痛みがひどくて…」
「……えっ?」
突然の登場に意識が向いていたのもここまでだわ。
筋トレで限界を迎えていた腕や脚がぎこちなく震え、ウィルが目を丸くする。
「シャロン様、こちらへ。」
「ひぃい……」
小さく情けない声が漏れてしまう。
私は涙目になって、前世テレビで見た産まれたての小鹿のように震えながら、メリルが近付けてくれた椅子に座った。
テーブルには既にウィルの分のお茶とお茶菓子が並べられている。椅子を勧めるとウィルも向かい側に座り、困惑した表情で私を見つめた。それはそうよね。
「ど…どうしたんだ。痛みって、まさかあの時アベルが何か…」
「えっ?いえ。私少し、体を鍛えなければと思って。今日はできる限り体を動かしていたのよ。それで筋肉痛が…」
「えぇっ!?」
ウィルがぽかんとして、まさに穴が開くほど私を凝視する。
「えぇ、と……どうしてまた?」
目をぱちくりさせて、紅茶のカップを持ち上げたウィルがためらいがちに聞いてくる。
さすがに…「貴方が殺される事件を防ぐために!あと私も、いずれ殺されちゃうの!」…なんて、言えないわね。
さくっと省略しましょう。
「どうしても貴方を守りたくて。」
「ッ!げほっ、ごほごほ!」
「だ、大丈夫?ごめんなさい。急に変な事を言って、驚かせてしまったわね。」
立ち上がってウィルの背中を擦ってあげたいけれど、ちょっと今は無理そうだ。
震える手でハンカチを差し出そうとすると、ウィルは大丈夫と手で制止して、自分のハンカチで口元を軽く押さえる。
「ど、どうしてまた。」
さっきと同じセリフになっているわ。よほど驚いてるのね…
「貴方がそうだと知る前から、二人の王子殿下の噂は流れてきたもの。……命を狙われる事もあるって。」
「……ごめん。君を危ない目に遭わせるつもりは」
「わかっているわ。」
ウィルの言葉を遮った。
優しい彼が、私の安全を考えないわけがないのだ。
「もしその時に私もいたとして、貴方は私を守ろうとしてくれるでしょう?」
「当たり前だ!大事な友達に怪我なんてさせたくない。」
「私だって同じ気持ちなのよ。」
「でも君は女の子、……。」
女性でも騎士がいる事実を思ってか、ウィルの言葉が途切れた。
ちらりと視線を彷徨わせてから、拗ねたように私を見る。
「…君が、そんな事をしなくたって。」
「お父様にも同じように言われたわ。けれど、せめて自分の身を守る事ができたら…それは貴方を守る事にだって繋がると思うの。動けない人がいるのと、自分で逃げ切れる人がいるのとでは違うでしょう?」
それはそうだけどと呟いて、ウィルは困り顔で紅茶を一口飲んだ。
青い瞳が心配そうに私を見つめて、やがて諦めたようにため息を吐く。
「君は、決めたら聞かないからなぁ。」
くしゃりと笑うその顔に、やっぱり私が知っているバーナビーだわ、なんて思ってしまった。
「ふふ。」
「どうして笑うの?」
「なんだか嬉しくて。」
「変なシャロン。…ははっ。」
安心した。
何かが変わってしまうかもしれないと思ったけれど、私と彼がお友達なのは変わらない。
時々しか会えない理由もよくわかった。
王子殿下が気軽に城を出て来れるわけがないのだから、スケジュールの合間を縫って何とか来てくれていたのね。
「あの……ただ、もう一度ちゃんと謝らせてほしい。」
「謝る?」
突然何を言い出すのかと、目を丸くしてしまう。
昨日は私からの無礼はあったけれど、ウィルが何かした事なんてないはずだ。
何かしらと思いつつ、一口サイズのクッキーをさくりとかじる。
「君を騙していた。…正体を隠してた。」
「そんなこと!初めて会った時は七歳だったのよ。私が誰に言ってしまうかわからないもの、貴方は正しい判断をしたわ。」
「違うんだ、俺はただ…王子じゃない自分として、友達がほしくて、君を利用した。」
「ウィル……利用だなんて。」
そんな風に思ってしまっていたの?
罪悪感を覚える必要なんてないのに、本当にウィルは優しい人だ。
ゲームではヒロインが主人公だから、私とウィル達が入学前からの知り合いと言っても、その経緯は描かれていなかった。
けれど学園でも親しくしていたから、前世の記憶がないシャロンもずっと友達でいたのだろうと思う。
「これからも友達よ。そうでしょう?」
「…さっき俺が言った事だね。つい焦って、君が断りにくい言い方をしてしまった。」
ウィルを包む空気がドンヨリしている。どうしましょう、本当に落ち込んでいる。
全然気にしなくていいのだけれど……断りにくい言い方という事は、私が本意ではないと思ってるのかしら。
「ねぇ、ウィル。そんなに気になるなら聞くけれど、私が貴方の友達をやめたい理由ってあるのかしら。」
「えっ?」
予想外の返しだったのか、ウィルは私を見て目を瞬かせた。
今日のウィルはびっくり日和ね。私もだけれど。
「だってそれは…友達を騙すなんて。」
「貴方が第一王子だと知らなかった事で、私に損はないわ。公的なお仕事以外で来ているなら、むしろ身分を隠すのは当たり前だと思うし。」
「……嫌じゃないか?王族が来るなんて。」
「どうして?貴方が来てくれるのは、嬉しく思う事はあっても、嫌なはずがないわ。」
「その、危険かもしれないし。」
「だから、鍛え始めたと言ったでしょう?」
今はプルプルして頼りない細腕を、きゅっとガッツポーズのようにして笑う。
「ね!これからも一緒にいるための努力をしているのに、本当は嫌じゃない?なんて、それこそ失礼だわ。」
むしろ、利用される危険などは考えていないのだろうか。
ウィルは優しいから犯罪的な事では友達を疑わないのかもしれないけれど、ちょっと心配になってしまう。学園でやっていけるのかしら…。
ゲームの《学園編》は一年生までだし、未来の出来事すべてはわからない。
「そうだね。…ごめん、シャロン。」
「そこはこれからもよろしくと言うのよ。そうでしょう?」
「…うん。これからも、どうかよろしく。」
ようやく笑ってくれたウィルにクッキーを勧めながら、私ももう一つ口にした。
紅茶のおかわりを注いでくれるメリルが、さりげなく微笑みかけてくれる。
「それ、僕も貰っていいかな。」
昨日ぶりに聞いた声に、私の喉がヒュッ、と音を立てた。