496.生きているという証明
シャロンに名を呼ばれて登場したサディアスは、丈の長い黒のローブを纏い、きちりとフードをかぶっていた。
薄暗い空の下、ステージ中央へと歩く彼の白いブーツがランプの火に照らし出されている。
楽隊がそっと奏で始めたのは繊細で美しく、どこか寂しさのある曲だ。客席にいた貴族の半数以上が何か思い当たったように頷いた。誰かが呟く。
「《宵待ち人》だ」
初代騎士団長グレゴリー・ニクソンが登場する逸話。
それを題材とした歌劇で彼が魔法を使うシーンに必ず用いられるのが、今流れている曲である。
サディアスが正面に向けて片手を上げると、数メートル離れた空中に火の玉が浮かんだ。
そこから右へ、右へと指し示す場所をずらし、自分を中心に八つ、等間隔に灯していく。彼はローブの下に剣を携えており、抜き放ったその刃を火の玉に突きつけた。剣先で点と点を繋ぐようにひとなぞり、その場で優雅に回ってみせる。
個別に存在していた火が一つの輪に形を変え、楽隊の奏でる曲は低く重みが増した。
最後の一つも完全に溶け合って輪が完成すると、サディアスは着ていたローブをばさりと放り捨てる。風にはためいたそれは燃え上がって一瞬のうちに焼き尽くされ、その威力に客席はどよめいた。
残っているのはサディアスと、宙に浮かぶ火の正円だけだ。
彼が着ているのはニクソン公爵家特有の騎士服。
濃紺の詰襟で、ダブルボタンを配置した中心部分と袖の折り返しは白地。濃紺のズボンに白の編み上げブーツを履いており、白いマントは裏地が鮮やかな青色をしている。
サディアスが天に向けて剣を振り上げると、火の正円は大きさを増しながらぐんと高度を上げた。
荘厳な音色が奏でられる中、円の内側から炎が次々と顔を出す。剣が空中を裂くと正円は起き上がり、その絵柄が客席からも見えるようにゆっくりとその場で回転した。
まるで、炎の花々が咲き誇る様子を描いた絵画のようだ。
人の営みなど容易に焼き尽くせるだろう業火が、「いつでも遊べる」と無邪気に笑っているかのようでもある。
見ているだけで熱が伝わってくるほどの炎は内側から膨らみ、円から球体へと変化した。内部からは炎によるものとは違う光が差し、いつの間かあちこちへ浮かんだ水球が美しく反射している。
すべて、全て。
サディアス一人が操っている魔法だ。
やがて曲の終わりに近づくと黒い霧のように闇が広がり、光を奪っていく。光の魔法を弱めるのではなく敢えて打ち消して、サディアスの周りにだけ夜が訪れる。
楽器の音はゆるりと遅くなり、小さな火の球一つを浮かべたサディアスは手のひらを軽く閉じる。指揮者が終わりを告げるように。
同時に楽器の音色も途切れ、観客席から拍手が沸き起こった。
「殿下。生きてますか?」
コロシアムの片隅でひっそりと聞いたのはラウル・デカルト。
ぽんぽんと肩を叩かれたのは、今にも意識が天へ昇りそうなほど安らかな顔をしたロズリーヌだ。
ロベリアの王弟ヴァルターの席から見えない死角で、かつ静かにという条件はあったものの、この魔法発表会を出禁にはならなかったロズリーヌである。
既にシャロンのドレス姿にひと通り騒ぎ倒した後ではあるが、叫ぶとしてもあくまで小声にする事によって、さほど、周囲の注目を集める結果にはなっていない。
なお、万一に備えて防音の魔法を使える騎士も近場に控えているのだが、二人はそれを知らなかった。
「……むしろね?一体何をもって、わたくしが今生きていると、そんな証明ができるのかしら。」
「喋ってるので、生きてますね。」
「え゛え、それはもう!それはもう生きててよかったですわーっ!わだぐじっ、生きてここに居られた事がっ、うれじぐてっ!」
「液体が出てます」
そっとハンカチを差し出され、ロズリーヌは「涙っ!」と言いながら受け取った。
ぐしゅりと鼻をすすって目元にハンカチをあてる。
「ああ、推しが…推しが最ッ高に輝いてますわ……!あの美しさ、格好良さと可愛さと儚さそして力強さまでもが織り交ざって三百六十度どこからでも何度でも繰り返し眺めたくなる、叶うものなら永久保存確定というまさに名シーン…!」
「剣闘大会でもあの方の炎は見ましたが、今日は色々と同時に使ってましたね。」
「ええ、ええ。サディアス様は全ての属性を使えますからね!」
推しを語るロズリーヌは目を輝かせていたが、ラウルは曖昧に頷き返す。
主君はサディアスとその周りしか見ていなかったのだろうが、披露された魔法のあまりの規模に、客の中には怖がって身をすくめる者すらいたほどだ。
『サディアス・ニクソンなら確かに、第二王子すら一撃で殺せるかもね。』
謎の男が語った言葉を、ラウルは覚えている。
ロズリーヌが懸念しているのはサディアスが薬によって魔力暴走を起こすこと。ツイーディアの騎士団もその薬を追っているらしいとは聞いたが、それで解決する保証もなかった。
――あんな高威力の魔法を扱える人間が起こす魔力暴走……想像もつかないが、死者は一人では足りないだろう。
事が起きるのは二月だとロズリーヌは言う。恐らく彼女は心配し、サディアスを見守ろうとして、場合によっては巻き込まれる。
いざという時はラウルがロズリーヌを連れ、彼らから離れておく必要があるだろう。
たとえ泣きわめかれようと、蹴られようと、罵られようとも。ラウルは普段のサディアスにだって勝てないし、止めたがったところで、他国の人間であるロズリーヌ達にできる事は非常に少ないのだ。
《ありがとうございました。伝承を踏まえた炎の美……複数属性の同時発動もさることながら、非常に正確な魔法操作を見せて頂きました。》
再び姿を現したシャロンの声は落ち着いている。
少し怯えてしまっていた一部の観客も、あの魔法はあくまで発表会の内で披露されたものであり、誰かを攻撃するためのものではない――そんな当たり前の事を再認識し、ほっと胸を撫でおろした。
サディアスはニクソン公爵家の誇りを重んじた上で、魔法の威力とコントロールの正確さ、それを維持する魔力と集中力を見せる発表をした。
とても彼らしい事だと、シャロンは心のままに微笑んで司会を続けている。
チェスターやセシリアと共に客席にいるヴァルターはそんな彼女に目を奪われていたが、考えているのはサディアスの魔法についてだ。
「…あれでまだ十五歳か。」
誰に伝える気もない、ただの独り言が口を突いて出る。
拡声もしていないステージ上の発表者の声など客席には届かないが、ヴァルターは顔が見える限りは口元の動きにも注視していた。宣言の長さを確認するためだ。
――速く正確で威力も高く、扱えない属性はない……高位貴族の嫡子とはいえそんな子供がいるとは、やはり魔法においてツイーディアは格が違うな。
金属の加工技術に優れた帝国が兵器を作ろうと、仕掛けや毒の知識に優れたロベリアが絡繰りを作ろうと、強力な魔法の前では意味がない。
だからこそ魔法大国ツイーディアは、近隣諸国が平和を保つための要となっているのだ。
「…チェスター、君は参加しないのか?」
「ええ。少なくとも今年は見る側にいたいと思いまして」
ヴァルターの問いかけに、チェスターはにこりと笑って答える。
騎士が興した国であり、魔法大国と呼ばれるツイーディア。
王立学園に通う高位貴族の子息子女にとって、定期試験や剣闘大会、魔法発表会は自身と家の格を示す良い機会だが、後者二つへの参加は義務ではない。
サディアスが出たのは彼自身が剣術より魔法を得意とするからであり、ネイトが出たのは将来に備え実力をアピールしておくため。《魔法学》の教師である母の存在も理由の一つだろう。
チェスターは参加する必要が特になく、護衛に向けた魔力の温存や、披露するならこだわりたいので時間をかけてしまう性質である事を考えても、不参加と決めていたのだ。
「参加者の控室と客席では、見え方も違いますしね。」
「なるほど」
先程の質問は単に世間話だったらしく、ヴァルターがそれ以上深く聞いてくる事はなかった。
青い瞳が見つめる先はステージ上のシャロンだ。女性恐怖症だという彼が唯一心惹かれている相手。チェスターはちらりとヴァルターの表情を確認し、ステージへ視線を戻す。
――惹かれちゃうのはわかるけど、あの子は駄目だよ。うちの王子様達に……俺達にだって、必要な子だからね。
シャロンが次に発表する生徒の名を告げて下がり、その姿はふわりと消えてしまう。
まるで限られた時間しか会えない妖精のようだと、ヴァルターは心の中で感嘆のため息をついた。後方でセシリアが売り子を呼んで何やら買っている。甘い香りがしてきた。
ステージ上では、二年生の男子生徒が強力な風の魔法を発動させている。
素の力では到底一人で持てないだろう太い丸太を宙に浮かべ、彼は少し離れた位置からくるくると踊るような身のこなしで剣を振る。肩の上で切りそろえた柿色の髪が風に揺れていた。
剣が空中を薙ぐ度に風の刃が放たれ、いとも容易く丸太を切断する。
輪切りになったそれを空中へ段々に浮かせると、彼はそれを螺旋階段のようにして上へ、上へと楽しそうに駆けていった。
何も可笑しい事などないのに不思議だと、ディアナ・クロスリーは疑問に思う。
長い銀髪をフードの下に隠し、儚げな美貌を持つ彼女は他の客から距離を取って、客席最後列の通路に佇んでいた。
細い手指は白い手袋で覆い隠している。触らないように、決して触らないように。
「ああ、こんな所にいたのか――こちらを向かず、そのままで聞きなさい。」
ディアナは最初からそちらを見る気など起きなかったが、結果として声の主の言う通りになった。
リラにある夜教の支部に所属している貴族の声だ。ディアナから少し離れた席に腰掛けて、彼もまたこちらを見ずに話している。
「とあるお方が我々の信条に賛成してくださってね。来週かその次か未定だが、改めて詳しい話をする事になった。さすがにその上まではまだ難しいかもしれんが、それでも長くて十数年待てばよいだけのこと。女神様の存在を王家に認めさせるのだ、悲願達成の時は近い!」
「……認められたら、どうなるの。」
そんな疑問を返すのは、ディアナにしては珍しい事だった。
しかし相手は己の成果に興奮気味で、些細な違和感になど気付きもしない。
「第二王子さえ手に入れば、きっと女神様は愛を取り戻せよう。おお、あの方は果たして幾年涙を流し続けたのか……君もようやく女神様の役に立ち、女神様によって導かれる正しい国が始まるのだ。」
「――…、ええ。正しい国へ」
「お渡しする日まで丁寧に管理するように。ああそれと、来月は休日の外出禁止だ。」
「そう」
肌寒い風が頬を撫でる。
ステージ上では、輪切りの丸太をバランス悪く重ねた上で男子生徒がポーズを取っていた。ぐらぐらと揺れて物理的にはかなり無理があるため、実際には風の魔法で調整しているのだろう。
客席からは笑い声が聞こえ、自身も楽しそうな彼は身軽なステップで回転も加えながら移動してみせている。
いつの間にかディアナの周りにはまた誰もいなくなっており、彼女はただ遠いステージを見ていた。




