489.僕はそれだと落ち着かない
学園祭の三日間、南校舎の図書室は施錠され立入禁止となっている。
しかしそれは客に対しての話であり、実際には北校舎の職員室と合わせて教員の待機場所になっていた。
各イベント会場の警備などに参加しない間、騎士団や巡回係との報連相をここで行うのだ。
図書室は二階から四階までを占めている。
二階で《治癒術》担当教師ローリーと騎士達との歓談に捕まったチェスターを置き去りに、アベルは一人で階段を上がった。
瑠璃色の短髪、明るいグリーンの瞳に白の正装。
《剣術》上級および《格闘術》担当、ユージーン・レイクスがそこにいる。テーブル上の学園見取り図から目を離し、立ち上がった彼は丁寧に騎士の礼をした。
「おはようございます、第二王子殿下。今のところ問題ありません」
「そうみたいだね」
アベルは生徒として教師に会いに来たのではない。
王子として、生徒会や騎士団と連携し警備を統括しているレイクス伯爵に会いに来たのだ。彼はそれを正しく認識し、アベルを王子として扱っている。
見取り図には教師や騎士、巡回係を表す小さな駒が配置され、要注意護衛対象――他国の貴人が現在いるはずの地点にも、色の違う駒が置かれていた。
アベルは空いている席の一つに腰掛け、レイクスにも座るよう促す。彼は軽く頭を下げてから着席した。
「まだ開場から数時間ですから、油断はできませんが。不審な場所に行く者がいないか、定期的にスキルでも確認しています。」
「そう。……」
アベルは「魔力の配分は問題ないか」と聞こうとして、やめた。
その程度、騎士団の一番隊長を務めた程の男ができないはずはない。いざという時に魔力切れ、などという無様は晒さないだろう。
レイクスのスキルは《探知》。
風、すなわち空気が入る隙間さえあれば、建物の中も外もくまなく対象範囲とし、自らの頭に略図と人間の位置を描き出す。総数や一定範囲内の数などは、レイクスが数えずとも自然と答えが浮かぶのだ。
そこにいる人間が誰かまではわからないが、少なくともこのスキルを前にして、光の魔法などでの目くらましは通用しない。
「殿下。こうして来て頂けるのは、警備を担う者として励みになりますが……学園祭は生徒が学び、楽しみ、遊ぶための催しでもあります。予定が空いたのであれば、少し気を楽にして回られては?」
他国から来た貴人達に、王子とその仲間達は交替で対応する。
北東校舎の特別展示室にいる帝国のジークハルトはこの後、正反対にある南西校舎の食堂へ右回りに移動する。その途中でアベルが合流でき次第、ウィルフレッドとシャロンはそれぞれ別の場所へ移る。
ロベリア王国のヴァルターは、北西校舎の展示室から階段を降りて、中庭へ。
温室にいるホワイトが中庭へ移動完了次第、案内を務めていたネイトはコロシアムへ向かってウィルフレッドと合流、ヴァルター達を内密にサポートしていたフェリシアも離脱予定だ。
アベルはそもそも、学園の門が開く頃に君影国のエリ姫と合流するはずだった。
しかしイアン・マグレガーから早馬で「本人寝坊」の連絡が入り、ならついでにとホーキンズ姉弟と軽い打ち合わせを済ませ、北校舎のダンスホールで公演準備を進めるヘデラの王女、ロズリーヌの様子を軽く窺ってから現在に至る。
気楽に回ったという状態ではなかった。
「僕はそれだと落ち着かないんだ。許せ」
「ははは、なるほど。落ち着かない……それは余計な事を申しました。」
レイクスとて、部下や友を信じて任せつつも心配になる事くらいはある。
自分の采配は正しかったか、何か起きるとしたら人々の動線はどうなるか。頭に叩き込んだ地図や資料を改めて眺め、幾度も脳内で予測を重ねていくものだ。
アベルは見取り図に目を落とし、配置をひとつひとつ確認している。
――本当に、騎士に向いておられる。
レイクスは心の中で呟いた。
アベルの未来を想像するならそれは当然ただの騎士ではなく、隊をまとめ、皆を率いる立場の者としてだ。
成長したならたとえ魔力がなくとも立派に隊長を務めあげ、団長の座についたとしても不思議はない。
――…以前の殿下は少し、危うくも見えたが。
レイクスが王都にいたのは、七年も前の事だ。
当時六歳のアベルは、レイクスの実兄を殺した。金目当てで人身売買組織に情報を渡し、第一王子ウィルフレッドすら狙っていた犯罪者だからだ。
とある夜、レイクスのもとを訪れた十番隊長ティム・クロムウェルは、第二王子が待っていると言って彼を連れ出した。
兄の死体と、十番隊副隊長だったレナルド・ベインズと共に到着を待っていた幼い王子の表情を――…レイクスは今でも覚えている。
『僕はウィルを狙うやつは許さない。…怒っているんだ、とても。』
一度だけ目にしたアベルの印璽を、金色の封蝋に押された模様を覚えている。
ツイーディアの花が一輪、星が二つ、背景には時計の文字盤。
遠く、階下から笑い声が聞こえていた。
穏やかな沈黙をそっと切るように、レイクスは彼を呼ぶ。
「殿下」
国王譲りの金の瞳がレイクスを見た。
あの頃とは違う眼差しで。
「七年前。俺の兄は、死ぬ前に何を言いましたか。」
ひどく穏やかな声色で、レイクスは真実を問う。
アベルに驚いた様子はなかった。いつか聞かれるという事はわかっていたのだろう。
「俺に対する恨み言でも?」
「……それは」
七年前――魔力鑑定の前で、世間がまだ第二王子の《魔力なし》を知らなかった頃。
文官だったレイクスの兄は、夜中に城内で不審な男と密会していた。
ティム、レナルドの二人と共にそれを見かけたアベルは、わざと一人だけ姿を現して、まるで何もわかっていない幼子のように声をかけた。
不用心な王子を捕まえようとした二人は、潜んでいたティムとレナルドによってあっという間に捕縛される。
騒がれないよう、近場の倉庫に放り込んでから猿轡を外すと、レイクスの兄は――…
「君が聞く必要もない戯言だ。」
「少なくとも殊勝な言葉を吐きそうにない事は、わかっていますよ。」
珍しくも苦笑し、レイクスはゆっくりと腕を組んだ。
言う気の無さそうな第二王子殿下相手に、どう聞いたものかと言葉を選ぶ。
『弟が、ユージーンが企んだ事なんだ!私は弟の指示に従ったまでなんです、殿下!』
「幼かった貴方に加減を求めてもと、当時は思いましたが……時が経ち、殿下のご活躍を聞き、成長した貴方をこの目で見て。やはり考えるのです」
レイクスの顔から笑みが消え、明るいグリーンの瞳がアベルを見据える。
金色の瞳は静かだった。
「当時の貴方に、あの男を殺さずにおく事はできましたか。」
『なにを言ってるの?』
『貴方は知らないだろうが、弟は金遣いが荒くて…』
『それは君だと聞いてる。』
『っ……ま、まさか。違います、ユージーンが言ったんです。人攫いは儲かると』
「できた。そうしなかっただけだ」
『あいつに脅されたんです、協力しなければ私を殺すと!何が一番隊長、ユージーンは国の裏切り者だ!』
「…やはりそうですか。」
ティムとレナルドが既にその場に居た事を、アベルは言わなかった。
彼らの前で殺した事は、生かすべきだという意見が出なかった事は――レイクスは知らなくていい話だ。
「理由をお聞きしても?」
「生かせば偽証し、無用な捜査や混乱を生む事になるのは明白だった。正直に吐きそうな事件の証人は他に居たし…狙われた以上、彼を殺しても僕は罪にならない。」
「――…、仰る通りです。」
アベルが間違っていない事など、レイクスは当時から知っている。
予想していた通りの答えを聞いた今も、「間違っている」とは思わなかった。騎士団にとって大事なのは犯罪者の命ではなく、狙われた王族の命だ。
「……君には、できれば騎士団に残ってほしかった。」
少しだけ目を伏せてアベルが呟く。
実際にはそうはならなかったから、その理由もおおよそわかっているから、声には怒りも疑問も滲んでいない。
実兄が王族を狙った犯罪者。
そんな枷を嵌められるレイクスを騎士として残すには、要らぬことを吐く男の口を塞ぐ方が早かった。
当時のアベルはまだ騎士団内部への伝手が薄く、生かして捕えれば、誰かしらの耳には戯言が聞こえただろう。
聞こえてしまえばそれはレイクス個人だけでなく、王国騎士団そのものへの不信も生む。
ツイーディア王国にとって良い方を。
アベルは殺す事を選び、レイクスは騎士を辞める選択をした。
「申し訳ありません」
意思に沿わない事を謝りながら、それでも、苦笑するレイクスの顔に後悔はない。辞めるべきだったと思っているのだ、今でも。
七年前に兄を殺した王子の目を真っ直ぐに見て、告げる。
「はっきり言って、俺は兄を好意的に思っていません。顔を合わせたくないとすら思う相手の一人だった……それでも当時、貴方を恨みました。なぜ殺したのかと」
「そう」
「どんなに僅かでも、たとえ一瞬でも、そう思ったのは事実です。守り手の心にそのような陰りがあっては、万一の際に必ず響く。――俺には、騎士として貴方がたを守る資格が無い。」
「…、そう」
アベルはゆっくりと目を閉じ、テーブルに置いた手の人差し指に僅か、力がこもる。
羨望からくる嫉妬、身分差ゆえの恨み、己の生活に対する不満の矛先。
それらが僅かでさえも許されないのなら、王族にそういった感情を抱く騎士など大勢いるに違いない。
目を開けたアベルはほんの僅か眉を顰めていて、その瞳は自分の手元に向いている。
「……君は真面目な男だから、きっとそうなのだろうと思っていた。」
誇り高きユージーン・レイクスの胸に燻った恨みなど、吹けば飛ぶ程度のもので。
仮にアベルが窮地に陥って、救えるのが自分だけで、見捨てたとしても誰も知らない、咎めない――そんな状況にあったとして。
彼は間違いなく体を張って助けるだろう。
それでもそこにコンマ一秒にも満たない躊躇が生まれる可能性を、レイクスは危惧しているのだ。
「殿下。騎士でなくなったのは俺の甘さと弱さが原因で、教師になった事はこれで良かったと思っています。国の未来の担う子供達を見守り、いずれ騎士になる者達を育てる事ができる。やりがいのある仕事ですし、成長した貴方がたにも再会できた。」
レイクスは、学園に来てからのアベルを見てきた。
共に《剣術》上級に入った兄ウィルフレッドやデューク達との試合も、《格闘術》でのチェスターやネイト達とのやり取りも。
学園内で時折見かける、友人達と話す姿も。
剣闘大会の授賞式で見せた、心を許した笑顔も。
「多くの良き出会いを得られたようで、何よりです。」
穏やかに笑ったレイクスの言葉を聞いて、アベルは少し意外そうに瞬いた。
心当たりの顔はすぐに浮かんだのか、素直に頷く。
「……そうだね。随分助けられている」
「俺も、閣下をはじめ同僚達にもよく助けられています。笑い合い、学び合って、より良く成長できている。此度は滅多にない重鎮の来訪が重なりましたが、無事に終えられるよう、皆で力を尽くします」
「ああ」
そろそろ時間なのだろう、アベルは立ち上がった。
見送りのために立とうとするレイクスを手で制し、薄く微笑みを浮かべる。
「本当に、頼りにしてるよ。レイクス」




