480.絵画の令嬢シャロン・アーチャー
金曜日の放課後。
午後に到着したロベリアの王弟ヴァルターも、充分に休憩できただろう頃合いだ。
ウィルフレッド、アベル、シャロンの三人は彼に会うため、それぞれの従者を連れてホワイト――ルーク・マリガンと共に、ドレーク公爵邸を訪れていた。
「ではシャロン、君はダンと一緒に少し待っていてくれ。」
「えぇ。わかりました」
待機部屋の前で立ち止まり、ウィルフレッドの言葉にシャロンが頷く。
面談相手であるヴァルターは女性そのものが苦手なのだ。アーチャー公爵と仕事で関わった故の世辞なのか、シャロンに対しては「会いたい」と言ってくれたようだが、接触は慎重になる必要がある。
――と、シャロンは思っている。
大事な幼馴染に微笑みを向けたまま、ウィルフレッドは心の中で呟いた。
国王ギルバートからもたらされた情報によると、ヴァルターはシャロンの絵姿を見て一目惚れしたらしい。
女性恐怖症の王子が初めて興味を持った公爵令嬢、それも《薬学》《植物学》で優秀な成績を修めている――見た目だけでなく心まで美しく気品がありとっても素敵で、まさにアベル以外相応しい男などいないだろうと思える程の――、ウィルフレッドの大事な友人である。
「一応、注意事項を確認しようか。」
従者三人が公爵邸の家令と話す中、アベルが言い出した。
大事な事なのでウィルフレッドもしっかりと頷き、シャロンの目を見る。彼女は「任せて」と言わんばかりに小さく微笑み、頷き返してくれた。
「殿下の様子を見つつ、私は必要以上に近付かない、無理に話しかけないこと。」
「そうだな」
「うん。それでいい」
「呼ばれて部屋に入ったら、席はもちろん――」
「アベルの隣だな。」
「ウィルの隣だね。」
「先生のところに行くわね。」
何を言っているんだという顔で互いを見る双子の意見を流し、シャロンはさらりと決定する。全員で会いに行くと決まった後でもまだこうなるとは。
ここまで一切話を聞いていなかったらしいホワイトが、ゴーグルの奥でゆるりと瞬いてからシャロンを見下ろした。
「……何の話だ。」
「殿下にお会いする際の席です。私は先生の隣に行ってもよろしいでしょうか。」
「好きにしろ」
「ありがとうございます。」
ホワイトとシャロンは教師と生徒であるだけでなく、個人的な師弟でもある。
アベルとの不毛な無言の争いを中止し、ウィルフレッドは神妙な面持ちで二人を見比べた。
まだ百七十センチにも満たない自分達と違い、ホワイトは百九十センチ近い。昨日聞いた話が脳裏に蘇る。
「……シャロン、やはり身長なのだろうか。」
「…えっと、何がかしら……?」
薄い白手袋をはめた手を片頬にあて、シャロンが僅かに小首を傾げる。ため息をついたアベルが軽く手を振った。
「もういい。行こう」
ウィルフレッド達が応接室へ移動してしばらく。
現れたヴァルターはホワイトを見て子供のように目を輝かせたが、すぐに気を取り直して平静を取り繕った。ウィルフレッドが手を差し出す。
「ようこそお出で下さいました。俺が第一王子、ウィルフレッド・バーナビー・レヴァインです。」
「第二王子、アベル・クラーク・レヴァインです。」
「ヴァルター・ヨハネス・ノルドハイムです。お二人とも、お会いできて光栄です」
「「こちらこそ」」
互いに微笑んで握手を交わす。
ウィルフレッドは一歩引き、チェスターやサディアスとも挨拶するヴァルターを観察した。
髪はやや外跳ねしていて肩を越す長さ、襟足で一つに結ばれている。
根元から毛先にかけて白から青へと変わっていく色合いこそはロベリア王家の証だ。整った顔立ちをしていて瞳は青く、目の下にはうっすらとクマが見える。首元には薄青いガラスの嵌まったゴーグルをかけ、どうやらかなりホワイトを慕っているらしい事がわかった。
ヴァルターの護衛の中に見知った顔を見つけ、ウィルフレッドはその人物と目を合わせてにこりと微笑む。
茶色のポニーテールに赤紫の瞳、男のような格好をしてはいるが、ウィルフレッドの護衛騎士セシリア・パーセルだ。歯を見せてニカッと笑った彼女を見て、ウィルフレッドは「仕事中だろ」と注意するヴィクターの姿が浮かんだ。
「――そして、久し振りだな。ルーク」
「ああ」
「貴方と話したい事も山のようにあるんだ。後ほど付き合ってくれると嬉しい」
「時間があればな。」
差し出された手を軽く握り、ホワイトがそっけなく返す。
相変わらず淡白だが、直接会うのはかなり久し振りなのだ。ヴァルターとしては、今回の滞在中に合計六時間はもらいたい所である。
「それで今日は……噂に聞くアーチャー公爵令嬢も、来て頂いているのですよね。」
王族とホワイトがソファに腰掛けたところで、ヴァルターがそう聞いた。
従者として同席しているサディアスとチェスターはそれぞれの主の後方に控えている。ウィルフレッドはにこりと笑みを作った。
「ええ。彼女は俺達の大事な友人でして、せっかくならば共にご挨拶をと。」
「僕達としては殿下の負担にならぬよう、最後に挨拶ができればと思っていたのですが。」
「お気遣いは大変ありがたいのですが、できればゆっくりお話を伺えればと思っています。優秀な方と聞いておりますし、お待たせするのも悪いので…よろしければ、ご友人をお呼び頂けますか?」
この時のヴァルターには余裕があった。
四つ年下のツイーディアの王子達に、「どうも本心では俺と会わせたくないようだな。彼女に気があるのだろうか」と考えるくらいには。
その上で柔らかに微笑んでみせるくらいには、余裕があった。
――ようやく会えるのか、あの絵画の令嬢に。
緊張して少し脈が早くなった自覚があっても、本当に絵とそっくりな令嬢が現れても、ある程度落ち着いていられると思っていた。
なぜなら彼は知性を重視する国の王子として生まれ、シャロン・アーチャーはヴァルターが女性恐怖症になってからは初めて、吐き気を催したり気分が悪くならない相手…かもしれないのだ。他の女性より話しやすいはず。
見た目が好みなので多少は緊張するだろうが、外交にも携わってきた自分なら冷静に対応できると思っていた。
ノックの音がして、「お連れしました」と言うのは公爵家の使用人だ。
入室許可を得て扉が開き、ヴァルターの青い瞳がそちらを見る。
ひゅっ、と喉が鳴った。
絵画から抜け出したかと思う程の美少女がそこにいる。
長く艶やかな薄紫の髪がさらりと揺れ、澄んだ瞳には純真さが見え、落ち着いた眼差しは確かな知性を感じさせた。入室の歩き方ひとつ見ても気品があり、ヴァルターと目が合ったところで足を止めた彼女の微笑みで心臓が大きな音を立てる。
絵と本物だからだろう、焦がれていた笑顔とは何かが違っていた。
しかし。
「お初にお目にかかります。アーチャー公爵が長女、シャロンと申します。」
そう言って完璧な淑女の礼を披露した公爵令嬢を前に、ヴァルターは完全に硬直していた。
シャロンを見た瞬間に目を見開き、微笑まれてぶわっと顔を真っ赤にし、一国の王弟が挨拶を返す事もできずにただ、見つめている。
頭の中は大混乱だ。実物の威力が凄い。
動いているし可愛いし自分に微笑んできたし声まで綺麗で、なおかつ彼女は僅かたりともヴァルターを色目で見ていない。その清純さも好ましい。
数か月に及ぶ期待と憧れの果てに、ヴァルターは僅か数秒で陥落した。
固まっているのはウィルフレッドとアベルも同じだった。
まさか、ヴァルターがそこまでの反応をするとは思いもしなかったのだ。二人は人生で初めて、「人が本気の恋に落ちる瞬間」を見た。否、これまでもあったかもしれないが、一瞬でそれと気付けたのは初めてだ。
それ程までにヴァルターは隠せておらず、チェスターとサディアスも思わず瞬き、ダンはシャロンの斜め後ろで頭を下げているため見えないが嫌な予感がし、セシリアは小腹が空いており、ホワイトはちらり、全員を見回した。誰か返事をしてやるべきではないのか。
王族が軒並み固まった中、従者として控えるチェスター達が「王弟殿下に挨拶したシャロン」へ言葉を返すわけにはいかない。
数秒の沈黙の後、口を開いたのはホワイトだった。
「座れ。」
「はい、失礼致します。」
シャロンは内心ホッとしつつ顔を上げ、拒絶反応なのか赤い顔でこちらを見つめるヴァルターに控えめな会釈をしてホワイトの隣に落ち着いた。
ダンがその後ろに控え、それとなくヴァルターを見て「こりゃ駄目だな」と察する。完全に落ちた男の顔だ。
公爵家の男性使用人達がてきぱきと紅茶や茶菓子を並べていく。
「ヴァルター。会いたがったのはおまえだろう」
「っ!――し、失礼した、アーチャー公爵令嬢。」
ホワイトに文句を言われてようやく、ヴァルターがハッとして軽く頭を下げた。
他国の王弟だ、シャロンは慌てて「お顔を上げてください」と声をかける。ヴァルターは火照った頬の熱さを自覚しつつ姿勢を戻した。あまりの狼狽えぶりにウィルフレッドが口を開く。
「大丈夫ですか、ヴァルター殿下。具合が悪いのでしたら」
「大、丈夫だ。ウィルフレッド殿下」
そうは言いつつ、ヴァルターはシャロンから目を離せていない。
ほんの僅かに下がった眉と気遣わしげな視線、彼女も女性恐怖症の事を知っているのだったと思い至り、ヴァルターは何か言わねばと焦った。しかし動揺のあまり目が泳いでしまう。
「本当に…違うんだ。こ、…こんなにも、美しいご令嬢に会ったのは……初めてだったので。」
「まぁ……ふふ、ありがとうございます。殿下」
女性が苦手な彼なりの、精一杯のお世辞であり気遣いなのだろう。
心からそう思っているシャロンは、ヴァルターに僅かにも圧をかけないようできるだけ優しい声で返した。ヴァルターが胸元の服をぎりりと掴む。
――胸が苦しい。今すぐにでも彼女にこの想いを伝えたいくらいだが……困らせてしまうのは目に見えている。落ち着け、手順を踏まねばただの傲慢な王族だ。
同意も無しに母を閉じ込めた父とは違う。
深呼吸しながら意味もなく視線を走らせたヴァルターは、シャロンがつけているブローチとウィルフレッド達のカフリンクスが同じ種類の宝石を使っている事に気付いた。ウィルフレッドが「俺達の友人」だと強調していた事を思い出す。
――なるほど。しかし友人である以上、下位は阻めても俺が躊躇する理由にはならない。
冷静にならねばと己に言い聞かせ、顔の熱もいくらか引いたヴァルターは一つ咳払いをしてシャロンを見た。途端にじわりと熱が戻り額に汗がにじむ。
――駄目だ、あまりにも麗しい。普通に話せるようになるまで少しかかる。
開きかけた唇を閉じて目をそらしたヴァルターは、眉を顰めたアベルが向かいのシャロンに「あまり彼を見るな」と視線と僅かな動きで指示した事も、シャロンが「やはり無理をされてるのね…」と神妙に頷き返した事にも気付かなかった。
ウィルフレッドは「俺の友達は素敵でしょう」と誇りたい気持ちと、「絶対に貴方の所にやらないので今すぐ諦めてください」という気持ちとで複雑そうにヴァルターを見ている。
いつの間にか背もたれに身を預け、ホワイトはゴーグルの奥で目を閉じていた。寝息は穏やかである。
――サディアス君。これ、どうする?
――私に聞かないでください。大体、今は何もできないでしょう。
王族同士の面談である今この場において、会話の面子に入っていない従者達が助け船を出していいのは、全員が黙りきるような事態の時だけだ。
それもただの護衛や元々の生まれが貴族でないダンは論外で、許されるのは公爵家の生まれであるチェスターかサディアスくらいだろう。
シャロンに見惚れているヴァルターや、積極的に話すのは控えるだろうシャロンはともかくとして、今はウィルフレッドかアベルが場を仕切るべきだ。
ヴァルターを観察しつつ、ウィルフレッドが口を開く。
「ヴァルター殿下。貴国の」
ぐうううううう。
あまりにも空気を読まない音が響き、数秒の沈黙が漂った。全員の視線が音の主――セシリアに集中する。
今日も今日とて元気で素直な腹をさすり、彼女は笑って頷いた。
「うん。やはり腹が減っては何とやらだろう、ウィル様!せっかくの茶は飲んで、菓子は食べるべきだと思うぞ。いらない場合は是非とも私に分けてほしい!」




