478.知らなければよかった
週も半ばを過ぎた昼下がり、アベルは厚手のローブを着込んでリラの街へ下りていた。
貴族向けホテルの受付で名乗り、丁重に案内されて予約していた応接室に入る。
フードを下ろして黒髪を露わにし、ローブを脱いでソファに腰掛けた。数分待たずに熱いコーヒーと紅茶が運ばれてきて、茶菓子と共にアベルの前と、誰もいない正面の席へ並べられる。
相手はもう来ているという事だ。
アベルはわかっていたかのように、給仕が出て行く扉の先を見やる。
黒の短髪に手拭いを巻いた、赤い瞳の大男が廊下に立っていた。君影国の戦士ヴェンだ。彼はアベルと目が合うと一礼し、扉の傍にいるらしい誰かへ見線を送る。
細い指が扉の枠を横から掴み、内巻の黒髪を低い位置で二つに結った少女が顔を覗かせた。ハート型の黒いサングラスをかけた彼女は、君影国の姫エリである。
目が合ってから数秒待ち、アベルは口を開いた。
「入らないの。」
「急かすでないわ!よいか、おぬしそこから動かぬように!」
クワッと目を見開いて注意し、エリは自身のサングラスに指先をあてる。
ゆっ……くりと押し上げ、蜂蜜色の瞳でアベルを直視した瞬間に顔を引きつらせ、指を離した。サングラスがかちゃりと音を立てる。
「うぅう……相っ変わらず、すごい事になっておるのう。アベル」
エリは両腕をさすりながら部屋に入り、後に続いたヴェンが静かに扉を閉めた。
「君達も相変わらず元気そうで――兄君について情報を得られたようで、何よりだね。」
「うむ。さすがにウィルフレッドから聞いておるか」
向かいのソファにぽすんと腰掛け、エリはテーブルに並んだ菓子を吟味し始めた。ヴェンが横から紅茶に砂糖を入れてやっている。
アベルは改めてエリを観察した。
小さい。
百四十五センチほどの背丈、凹凸の無い――幼いシルエットに、イアンに買ってもらったらしいもこもこの上着とスカート。どう見ても子供だ。
見線に気付いたエリがハッとして胸の前で手を交差した。
「なっ、なんじゃ、じろじろと見て。わらわが麗しく愛らしいのは事実じゃが、おぬしのようなお子ちゃま好みではないぞ!」
「それは別に構わないけど、その姿は?元のままで過ごすんじゃなかったのかな。」
「ほう?さては大人になったピチピチのわらわが見たいのか?ふっ、お年頃じゃの~!」
「ヴェン。まずは君達の旅について聞きたいんだけど」
「む!?ちょ、ちょっと揶揄っただけではないか…こっちを向け、アベル!わらわを無視するでない!」
エリが両腕を振ってワァワァ喚くので、アベルは渋々ながら視線を戻した。
こほんと咳をした君影国の姫は、すっかり気に入っているらしいハート型のサングラスに指を添える。
「これはこの姿の時に買ったから、大きくなるとちと合わんのじゃ。耳の上が痛くてな……おぬしに会うからこちらの姿で来た。」
エリはアベルに憑いている黒い魂がはっきり見えるがゆえに、裸眼ではアベルの顔を見る事ができない。
しかしサングラスをかける事で、魂だけ見えないようにする事ができるのだ。これがなければ、エリはアベルと目も合わない。
「それを見ながら話すのは嫌じゃからな。菓子がまずくなるわ」
「…以前より肥大したりは?」
「しておらぬ――…と、思う。目測じゃから正確な事は言えぬが。」
「そう」
菓子をつまみながら、エリは兄にしたようにこれまでの旅路を軽く説明した。
神殿都市を出てから周辺を探し、「名前は知らぬがどっかの街道」(ロングハースト侯爵領内)でブルーノ・ブラックリーに会ったこと。
アベルから「何かあれば騎士団に」と言われた事はすっかり忘れ、兄の懐刀目指してセンツベリー伯爵領へ向かったこと。
伯爵からフェル・インスが学園都市リラにいると聞き、アベルに「そっち行く」と手紙を書きつつ神殿都市へ引き返し始めたこと。
護衛が負傷して困っていたイアン・マグレガーとの出会い。
森で魔獣と戦い、気付けばエリはイアンと共に牢へ入っていたこと。追跡していたヴェンは、ちょうどベレスフォード伯爵を探っていたロイと合流することができ、二人を救出したこと…。
「って、おぬし。騎士から聞いておらぬのか?わらわ達は散々喋ったぞ。」
「事情聴取の内容は報告を受けてるけど、騎士に言えない事もあるでしょ。魂が見える事とか」
「まぁ、それはな。道中幾度か見かけはしたが、ちいこいものよ。魔獣とやらの方が危険じゃ」
道を這う汚れのような黒い魂、街中を漂う白い魂。
いずれも記憶や意識が曖昧なのか、生前の姿を模る事もできていなかった。完全に無害とまで言えないが今すぐではないし、アロイスを探すエリ達がそれらの経過を見る義理もない。
「そういえばおぬし、今は授業中ではないのか?」
「《治癒術》の時間だからね。魔力のない僕には関係ない」
「……なるほどのう」
エリは視線を皿へ移し、ボロを出さないよう口に菓子を詰めた。
ツイーディアの第二王子アベルは、本当は魔力を持っている。アロイスの特殊な瞳によって知った情報だ、間違っても言うわけにはいかない。
エリが元から菓子に気を取られる性質なので、幸いにもアベルは不審に思わなかったようだ。
「この国には魔獣が出るようになってしまったけど、君影国に特殊な獣はいる?」
「山間部ですので、当然獣はいますが……魔獣のような異質なモノはおりません。」
「そう。化け物がいると聞いたんだけど」
さらりと返したアベルの一言に、エリ達は僅か目を見開いてアベルを見た。
二人ともすぐ瞬いて目をそらしたが、隠すには今更だ。
――…化け物はいるらしいな。しかし……獣ではない?
数秒の沈黙でアベルは考える。
目撃談や「化け物」という単語から獣の類と思っていたが、そうではない可能性があるなら。
「人間か」
ほぼ確信しただろうアベルの声を聞き、目をそらし続けるエリの顔には苦味が混じった。
先程「化け物」という単語で通じた以上、ツイーディア王国の民が「君影の化け物」と呼んだそれは――君影国でも「化け物」と呼ばれている、あるいは同等の扱いを受けている。
口を噤む事を諦め、エリは憂鬱そうに視線を上げた。
「…誰に聞いたのじゃ。」
「霧の中で化け物に会った、そんな記録が残っていてね」
ニクソン公爵家の地下書庫に眠る目撃談。
サディアスに聞いた情報を思い返しながら、アベルは特徴を挙げた。牛より大きく、ねじれて跳ねた黒い毛並みに、獣臭がしたこと。
霧の中での目撃談、当然正確なものではないだろう。
じわりと汗が滲んだ気がして、エリは無意識にサングラスを外そうとし、指をかけた所でやめた。目の前にアベルがいるのだ。
「…何代前か知らぬが。これまでの《化け物》の中には…身綺麗にせず、獣の如く見えた者もおったのじゃろう。臭いだけで言うなら、狩りでもしていた所だったかもしれぬ。」
「なるほどね……君影国と言えば刀だけど、狩りをする時は鎖のついた武器を使う事もあるのかな。」
「…それも記録にあったのですか?」
「武器とは書いてなかったけど、音がね。」
アベルは軽く頷いてそう返した。
人間の話だった以上魔獣の考察に役立つ事はなさそうだが、追求する価値はある。
ヴェンがここで回答を避けたこと、二人ともが「心当たりのない反応」ではないことから、目撃談にあった「じゃらりじゃらり」という音は鎖で間違いなさそうだ。
――武器ではないなら、道具?装飾……あるいは、繋がれていたか。
二人が明るく語るようなものではなく、「化け物」と呼ばれて通じる存在。
観察を続けながら考えた。
――目撃談に出てくる最後の特徴は、「ひび割れた四ツ目」。
アロイスを探すにあたってエリが書いた兄の特徴は、「黒髪」そして「瞳に特徴あり」。
結びつける事はそう難しくないが、時に意地を張るエリ相手に直球で聞けば良いというものでもない。情報を聞き出すにはどうすべきか。
どこまで踏み込むべきか。
どんな聞き方なら、エリは語ってくれるか。
「…先程『何代前か』と言っていたけど、当代が居るんだね。」
「それは…うむ。」
「《化け物》と呼ばれる程の何かがあるのなら……もしかしてその人なら、僕に憑いたモノを取れる?」
「っ!」
俯きがちになっていたエリがハッとして顔を上げた。
サングラスの奥、蜂蜜色の瞳がアベルを見つめる。
望みはあるかと聞いたのだ。
とっくに自分の命を諦めていたはずの、アベルが。
――…兄様ならできると…そう言ってやれたら、よかったが。
「……すまぬ。わらわ達の国で《化け物》とは…生まれながらにして、人ならざる力を持つ者を言う。それは純粋な武力…霧を越えてきた外敵に立ち向かう術。死者の魂とは、まるで関係の無いものじゃ。」
「なら、見えてもいないのかな。」
「個人差はあるらしいが、当代は見えておる。」
アベルが心にもない「もしかして」を言ったとも知らず、エリは《化け物》についてそう話す。
「《化け物》は君影を守り、君影の敵を殺す。彼らだけが知っている事もあるが、それでもおぬしを救う事は叶わぬ。……アベル」
エリはサングラスに指をかけ、少しだけずり下げた。
見るも悍ましい姿を瞳に映して続ける。
「人の世に災いをもたらす黒き魂は、その存在を知る我ら君影にとって明白な脅威じゃ。それ程なら余計にな。」
異常な大きさ。
憑かれた宿主が大国の王子であること。
抵抗するだけの能力と精神を持つがゆえに、健康で強い肉体を維持していること。
アベルがこれに喰われたらツイーディアは内乱に見舞われ、魔法大国を軸にしていた各国のバランスもあっという間に崩れるだろう。
隣国である君影も害される可能性がある。
「《化け物》にとって、僕は霧の先へ行かずとも討伐対象というわけだ。」
「………。」
エリは唇を引き結んで目を伏せ、サングラスをくいと押し上げた。
本来、《化け物》は生涯君影を出る事はない。国を守る事が役目だから。
人ならざる力を持っていようと国の為に生きており、出る事は許されず、完全な自由も許されない。それを理解させるため、齢一つを数えた時点で、首と両手首に鎖で繋がった枷を嵌められる。
ツイーディア王国よりも長い歴史の中、《化け物》が外へ出た前例はたった一人。大罪を犯した《赤目持ち》を――君影の敵を追いかけた「アンジェ」だけだ。
本当ならアロイスが国を出る事はなく、エリがアベル達と出会う事もなかった。
「…エリ様」
「大丈夫じゃ、ヴェン。」
――……「本来」も「本当なら」も、関係ない。わらわが生きているのは、今この時なのだから。
顔を上げると、目が合ったアベルはふと笑った。
気にするなとでも言いたげに。
「要は…僕が自分の始末に失敗しても、片を付けられる人間がいるって事でしょ?」
有益な情報をありがとうと、彼は言う。
エリ達が言葉を返すより早く、話題は今夜の食事会へと移った。ウィルフレッドが言っていた令嬢とも会うはずだ。
楽しみにしていたはずなのに、エリは鉛を飲んだような重さを少しだけ感じる。これ以上、「アベルが殺されたら悲しむだろう人」を知りたくなかった。
アベルは薄く笑みを浮かべ、ヴェンと話を続けている。
――……笑うでない、阿呆め。
サングラスを買わなければ、その笑顔を知る事もなかったのに。




