477.罪の在処
「サディアス」
ウィルフレッドの声に、サディアスはハッとして顔を上げた。
男子寮の廊下、既に二人はウィルフレッドの部屋の前まで着いている。青色の瞳が心配そうにサディアスを見ていた。
「大丈夫か?少し顔色が悪いようだが」
「問題ありません。……ですが、今日は早めに寝るようにします。」
「ああ。それがいい」
にこりと微笑んだウィルフレッドに一礼して、サディアスは踵を返す。
扉が開いて閉じる音を後ろに聞きながら、まだ不在だろうアベルの部屋の前を通り過ぎた。絨毯の敷かれた階段を降りていく。
――昨日届いた、父上からの手紙……早く、返事を書かなくては。
気付けば無意識に拳を握り、視線は床へと落ちている。
自室の前で立ち止まったサディアスは顔を上げ、鍵を取り出した。胸の奥には吐き出せない何かが溜まっている。中に入り、扉の鍵を閉めた。心の底で誰かが呟く、「関わりたくない」。
――それでも、逃げ続けるわけにはいかない。
水色の瞳が見た先、机にはレターセットが広げられていた。すぐ横にインク壺とペンも置かれているが、文字は一つたりとも書かれていない。
鞄や上着を定位置に片付け、サディアスは机に向かって椅子に腰かけた。数冊並んだ分厚い参考書の一つを開き、中に挟んでいた手紙を取り出す。
《まだ見つからない》
手紙には、その一言だけが書かれていた。
ニクソン公爵邸に運ばれたはずの違法魔力増強薬、《ジョーカー》の話だ。
イザベルは「自分で飲んだ」と証言しているらしく、確かに彼女は騎士団が踏み込んだ際に魔力暴走を起こしており、直前に幻覚を見たような言動もしたそうだ。
証言について、騎士団内の意見は複数ある。
自ら暴走を起こす事はできないので、本当に飲んだのではないか。
仮に騎士団が来る時間をわかっていたとしても、《ジョーカー》による暴走のタイミングを合わせる事は難しい上に、夫人が飲む理由もないので嘘に決まっている。
精神的な病を患っているなら、こちらが予想しえない理由で《ジョーカー》を飲んだのでは。
窮地に立たされた人間が暴走を起こす事はあるので、意識的に自らの精神を追い込んだのではないか。それにしては彼女は冷静過ぎなかったか。
暴走を誘発する別の薬を服用した可能性もあるのではないか。
――普通、じゃない。元から、あの女の行動は普通ではない。
常識内で考えるべきではない、サディアスはそれを知っていた。
特に引っ掛かるのは、「イザベルが魔力暴走を起こすのは珍しくはない」という事だ。今回の逮捕劇で見せた程の威力ではなかったが、小規模の暴走なら幾度も経験している。
「……まさか」
一つの可能性を考えつき、背筋がゾッとしたサディアスは即座に首を横に振った。
そんな事はないだろう。
これまでの暴走が練習だったのではないか、などと。
計算でやった事なら、暴走前後の言動は演技だった可能性も浮上する。
精神的に患った人間ではなく、その演技をした人間に、サディアスは。
『食べなさい。お前に相応しく、跪いて手で食べるのです。』
こみ上げた吐き気に口元を押さえる。
心臓が震えた気がした。
『あぁそうだわ、賢い獣は「待て」ができるそうです。フッ、フフ…餌がもらえて嬉しいでしょうが、待て。』
サディアスにはわからない。
ずっとわからなかった。父の妻である、イザベル・ニクソンという女性が。
かつてサディアスを深く愛し、可愛がっていた女性が。
『おのれ、おのれ!貴様の母だなどと――!!』
違うとわかるなら、なぜ。
生かしておくなら、なぜ。
――… あなたは、どうしてそんなにわたしをきらうの。
ガン、と音がした。
拳で机を叩いた、それだけのことだ。眉間には深く皺が寄っている。
サディアス・ニクソンは泣きじゃくる幼子ではなく、次期公爵の肩書きを持つ立派な青年でなければならない。
「……騎士団も、父上も、まだ探していない場所…」
薬がまだ見つからない事など、ウィルフレッド達に届いた報告書を見てとっくに知っていた。それでもニクソン公爵が手紙を送ってきたのは、「心当たりはないのか」と聞きたいからだ。
深呼吸をして、サディアスはインク壺の蓋を開ける。
一つだけ、思い浮かぶ場所があった。
しかしそこを探れと書くのは、伝えるのは、あまりに罪深い。
字を書こうと構えたペンが動かない。
背中にじわりと汗をかき、呼吸がしづらいように感じ始める。心臓の鼓動が耳の奥で響き始める。
昨夜もそうだった。どうしても書けなかった。
――いくらあの女でも、それは。しかし万全を期すなら……だが父上が見つけたとしても、騎士団に発見場所を聞かれたらどうする?調べたいと申し出があるのは当然で、あそこを調べられたら…
《ジョーカー》に手を出した時点で、首が落ちても当然の大罪だ。
ジョシュアが関わっていないから公爵家にとって致命的とまではいかず、それもしでかした事が大き過ぎて、国中に公表される事態にはならないと思われる。
表向き、イザベルは病死となるだろう。
それでも、ニクソン公爵家は無傷ではいられない。
《ハート》に呑まれて壊れたダスティンのせいで、オークス公爵家が傷を負ったように。
加えて過去の出来事が知られ、全てが白日の下に晒された場合――…かつてジョシュア・ニクソン公爵本人が、公的な場で国王ギルバートに虚偽を伝えた事になる。
万一にもニクソン公爵家そのものが潰れたら、サディアスは全てを失ってしまう。
成長と共に見える景色は変わってきたのに、また戻ってしまうかもしれない。皆の笑顔が浮かび、すぐ塗り潰される。彼らがどんな目で、どんな顔でサディアスを見ているのかわからない。
『サディアス』
ふと、同じように怯えていた時の景色が目に浮かぶ。
自分を真っすぐに見据えるウィルフレッドの姿が。
『その名が何を示すものであろうと、この六年近く俺の従者でいてくれたのは君だ。』
最初は、与えられた義務でそこに居ただけだった。
それでもウィルフレッドが変わるきっかけとなった事件で、シャロンと共に彼を追ったのはサディアスで。シミオン達と共にアベルに協力してきたのも、チェスターが共に国を守る未来を語ったのも、今ここにいるサディアスだ。
「……問題、ない。」
言い聞かせるように呟いて、サディアスはペンを持つ手を反対の手で握りしめた。微かに震えている。意識して深く呼吸し、問題ないと繰り返した。
――王都の事は、父上がなんとでもする。私がここでどう考えたところで意味がない。
見つかるか、見つからないか、それだけの事だ。
震えが止まるのを確認して、サディアスはペンの先を紙につけた。
たった一言で構わない。父は必ず意味に気付くから。
だから、
《私の部屋は探されましたか?》
◇
ドレーク王立学園女子寮――シャロンの部屋。
「ご無沙汰しております、フェリシア様。」
女神祭に向けてやってきたシャロンの専属侍女、メリル・カーソンが静かに一礼する。
夕陽を映したようなオレンジ色のボブヘアがさらりと揺れた。
「元気そうでよかったわ。メリル」
そう返したのはフェリシア・ラファティ。
薄い水色の髪を腰まで伸ばしており、剣闘大会では二年生の《祝福の乙女》に選ばれた侯爵令嬢だ。シャロンの親友である彼女は学園の生徒会に所属し、一つ年上の婚約者セドリック・ロウルも副会長を務めている。
「こちらへどうぞ、フェリシア様。」
シャロンは笑い合う二人を見て満足そうに微笑み、椅子へ座るよう勧めた。
夕食後なので、ティーテーブルにはメリルが淹れた紅茶だけが置かれている。互いに着席すると、シャロンの薄紫色の瞳が改めてフェリシアを見た。少し疲れているのは気のせいではないだろう。
「女神祭に向けて、生徒会の皆様も忙しそうね。」
「貴女や殿下達ほどではないけれど、普段より時間を取られているのは確かね。でもいいのよ、プリシラ様は生き生きしていらっしゃるし、…セドリック様も一緒だから。」
偶然紅茶を見ただけか、気持ちが視線に表れたのか。
目を伏せて一言足したフェリシアを見て、シャロンは少しだけ眉をひそめた。彼女はしっかり者なだけに、何か我慢しているのではと不安になる。
「フェリシア様……彼とは、上手くいっている?」
「……よく、わからないわ。自分の気持ちさえ」
「何か気になる事が?」
「セドリック様は、紳士的に接してくださっているわ。…強いて言うなら、少し心配性なのかもしれないけれど。」
「心配性…」
フェリシアが話しやすいよう、シャロンはできるだけ落ち着いた声を心掛ける。
薄い水色の瞳がシャロンを見て、頷いた。
「最近、毎日必ず寮まで送ってくださるの。会う予定がなくても偶然居合わせるというか……わたくしが通る道で彼が友人と立ち話していたり、茶会の終わりに彼が通りかかったり…とにかく、毎日なのよ。心配してくださるお心は嬉しいけれど、少し……」
「疲れてしまう?」
だんだんと表情に苦みが混じるフェリシアに、シャロンは言葉の続きを予想して聞く。
数秒の沈黙の後、フェリシアはため息混じりに「そうね」と言った。
「わたくしの護衛は、少し距離を空けて同行する契約なのだけれど…一昨日、セドリック様はそれを『自分がいるからいい』と仰って。」
「…フェリシア様はなんと答えたの?」
「彼に決める権利なんてないもの。『彼女も仕事ですから』とお答えして、納得してくださったようには見えたわ。でも…」
「何かあったのね?」
「…シミオン様が通りかかったのよ、そこに。最悪だったわ」
当時を思い出してか明らかに疲れた顔をして、フェリシアは紅茶をくいと喉へ流す。
語られたところによると、「何か揉め事か」と聞いたシミオンは経緯を知って首を傾げたそうだ。
『婚約者の護衛を減らしたいとは、どう考えてそうなったのですか。』
『…今だけの話だよ。寮へ戻る間くらい、俺がいるのだから――』
『仮に俺が敵なら。貴方一人より護衛も一緒の方がまだいいでしょう。フェリシア嬢が逃げ切れる可能性はある』
『シミオン様!もういいのです、こちらで話はついています。行きましょう、セドリック様』
『…うん。行こう、フェリシア』
セドリック・ロウルは特別武に優れているわけではなく、剣闘大会に出場した事もない。
実戦面で考えればシミオンの指摘は正しいが、彼はそれを直球で言い過ぎた。セドリック一人では話にならないと言ったに等しい。それも婚約者の目の前で。
――嫌味ではなく純粋な疑問と指摘だったのはわかっているわよ、わたくしはね。でも、わかっていても失礼でしょう。まったく…。
「今後はできるだけ、二人を近付けないと心に誓ったわ。」
「そうね…少し、危ないかも。」
「シャロン様ならどう?婚約者が、自分が守るので護衛を遠ざけたいと言ったら。」
フェリシアにそう聞かれ、シャロンは困ったように眉を下げた。
なにせ婚約者はまだいないため、即答はできない。視線を空中へ投げて考える。
――ダンを遠ざける時……いえ、むしろダンから離れていった事が幾度もあるような。
カレンと三人で雑貨店に行けばアベルと共に置き去りにされ、アベルから(脅しで)デートに誘われれば「行って来いよ」と言われ、アベルと気まずくなれば二人で空き教室に送り出され、街でアベルを見かければダンは馬車の外へ出ていき、放課後にアベルを見かければダンはチェスターと話し込み……。
「…私も護衛も納得できるくらい強い方なら、頷くと思うわ。」
「考えてみれば、貴女の周りだとそうよね。では毎日帰りが一緒なのは?わたくしが神経質なだけなのかしら。」
「私の意見がどうというより……フェリシア様が負担に思うなら、それをお伝えした方が良いと思うわ。」
「……そうね。意見も言えないようでは、どの道長くやっていけないわよね。」
まだ苦みの残る笑顔を浮かべ、フェリシアは意識して肩の力を抜いた。
一人で帰りたい時もあると言ったら、セドリックはどんな顔をするだろうか。
――負担。……その言葉が当てはまってしまっても、いいのかしら。…わたくしは、彼の婚約者なのに。
ちらと視線を泳がせると、メリルが気遣わしげにフェリシアを見ていた。
今年で二十五歳になった彼女は、シャロン達よりずっと大人だ。フェリシアは真剣な顔で口を開く。
「…メリル。貴女そういう経験は?恋人とか」
「私ですか!?な、何を…そんな、あるわけないじゃありませんか。」
「でも、この学園には通っていたわよね。当時何か…」
「シャロン様、世の中には恋など無関係に過ごす学生も沢山いるのです。」
「…顔が赤くない?シャロン様、問い詰めるわよ。」
「ふふ、ちょっとわくわくするわね…」
「しないでください!」
慌てるメリルから当時人気だった令息を聞き出したりしつつ、フェリシアはシャロンと笑い合った。
――いつか……セドリック様とも、これくらい笑い合えるかしら。
そうだったらいいと、
そうだったらいいのにと、思いながら。




