476.イザベル・ニクソンの非望 ◆
魔力を封じる黒水晶の手枷が、重々しく光を反射していた。
暗い青色の髪は長く、群青色の瞳はここではない遠くを見ている。
公爵夫人という立場であったが故に、イザベル・ニクソンは貴人向けの質の良い牢に入れられていた。簡素ではあるが調度品は揃い、床には絨毯が敷かれ、ベッドが固くて体が痛くなるような事もない。
「ふふ」
唇を歪めて彼女は笑う。
自害されぬよう見張りに立っている騎士は、不気味そうに彼女の背を一瞥した。ニクソン公爵夫人は病に伏しているという噂だったが、実際はただ狂ってしまっただけのようだ。
イザベルが思い返すのは遠い昔の記憶だった。
あの頃はまだ正面から向き合って話をしていたかつての夫と、まだ若かった在りし日の自分。
――公爵家のジョシュア・ニクソン様が、あの怜悧で美しいひとが私を選んだ時の喜びをまだ、覚えている。
ジョシュアは変わらない真面目な顔でイザベルを見据え、イザベルは緊張しながらも微笑みを浮かべていた。
二人の間には契約書。
『イザベル嬢。改めて言いますが、私に男女の愛というものはわかりません。一切無いものと思ってください。もし貴女が夫に愛されたいなら、この婚姻は勧めない。そういった期待をせず夫婦として家を守る、それが私の求める事です。』
イザベルには自信があった。愛を求めない自信。
なぜなら彼女はずっとジョシュアに憧れを抱いていて、彼と結婚できるだけで幸せだったから。それも恋が叶う少女としてではなく、敬愛する人の役に立ちたいという一心だったから。
彼に愛されないのは、他人だったこれまでとなんら変わらないこと。
しかし結婚すれば、たとえ愛されずとも彼を支える妻で在れる。それはなんと素晴らしい事だろうと、この時のイザベルはやる気に満ちていた。
自身の胸に手をあて、彼女はジョシュアの目を真っすぐに見て答える。
『ご安心ください、ジョシュア様。空に輝く全てに誓って、私が貴方の愛を求める事はありません。』
『――結構。公爵夫人としての義務を果たして頂ければ、私も貴女に相応しい待遇を約束します。』
契約だった。
ジョシュアが欲したのはイザベルの《生まれ持った色》と《スキル》。
人を傷付ける事にしか使えない《破裂》など好きではなかったが、ジョシュアの役に立つなら話は別だった。
暗い青色の髪も、群青色の瞳も。「色で選ばれただけ」と嘲笑った者もいたが、選ばれないより遥かに良い事だ。
生まれながらにして得た色を求められたなら、生まれながらにして彼の妻になると決まっていたようなもの。見目の美しさだって、彼が誇ってくれる妻で居られるならどんな努力も惜しまない。
『では署名を。』
『はい、ジョシュア様。』
幾度も確認された。
これは契約結婚であり「愛」はない。ジョシュアがイザベルを愛する事は永劫ない。それを不満に思うならこの話は無しだと。
全て聞いた上で頷いたのはイザベルだ。
できると思っていた、自分には。
愛を求めずにいる事ができると。
『イザベル』
夫婦の寝室で名を呼ばれた初夜こそが、彼女の人生で最も幸福だったのかもしれない。
触れた肌の温かさも、どこかぎこちなくも優しい手つきも、少し余裕のない彼の声も、他に知る者はない。全て自分が独占していると思うと、泣きそうなほどに嬉しくてたまらなかった。
ジョシュアは「好きだ」とも「愛している」とも言わなかったが、妻として丁重に扱ってくれる。共に出席したパーティーでは完璧にエスコートし、イザベルを妬む者達から庇ってくれた。
期待に応えようと頑張り過ぎて体調を崩した時は、「無理をされた方が迷惑です」としかめっ面で言われた。反射的に「迷惑」と涙目で繰り返してしまい、ジョシュアがぎょっとして「つまり、休めという事です」と言い直したりもした。
半年に一度あるかないかでも、休日に庭で二人揃う事があった。
他人が見ても気付かないだろう程にほんの僅か、彼が表情を和らげる瞬間が好きだった。たまに話してくれる陛下への尊敬や、他の公爵との昔話を聞くのも好きだった。
ジョシュアを恨む者に殺されかけた事もある。
護衛がすぐに対応したのでイザベルは無事だったが、犯人は自分が捕まるだけでは済まなかった。誰がやったとも知れぬ突然の事故。
夫が報復したのだろうと思った時、イザベルの胸に湧いたのは恐怖ではなく歓喜だ。
薄々、気付いていた。
自分はとっくにジョシュアを愛していると。
『ありがとうございます、イザベル。貴女の働きには感謝しています』
『勿体ないお言葉ですわ』
心から喜んでいたはずの言葉に、ちくりと傷つくようになった。
欲しいのは感謝じゃない。
ジョシュアからの愛が欲しい。
喉につかえるような重い何かを飲み下す日々が続いた。
高望みだ。強欲な。契約違反だ。充分幸せなのに。望むな。手に入らないのに。
『結婚したのが貴女でよかった。中々、あの条件を飲む人はいないだろうと言われていたのです。』
『ふふ。そうでしょうね』
求めるな。
希望なんてないのに。
『イザベル』
名を呼ばないでほしい。
希望があると勘違いしそうになるから。
名を呼んでほしい。
どこにも希望がないとわかっていても。
『おめでとうございます。お腹にお子がいるようですね……それも、双子ですよ。』
医師の言葉に、イザベルは笑って「嬉しい」と言った。
内心ではとても笑ってなどいられない。重苦しい感情が、まるで荒れ狂う濁流のように幸福を潰していった。
無事に生まれてくれるだろうか。健康に?優秀に?男児が?
期待に応えなければ。弱っていたら?覚えが悪かったら?女児だったら、彼はどんな顔をするのだろう。
震える手で改めて確認した契約書に、「一人目は健康な男児を産め」とは書かれていなかった。
生まれる前に死なせてしまったらどうしようか。
生まれてもすぐ弱ってしまったら、ニクソン公爵家に相応しくない子供だったら?
契約書には、「出産に失敗した妻の処遇」は書かれていない。
イザベルは最悪を想定し、そうならないよう必死で努力した。
吐き気がしても栄養のあるものを飲み込み、お腹の子に悪いとされるものは徹底して避けた。
昼には「無事に生まれますように」と太陽の女神へ祈りを捧げ、夜には「強く生まれますように」と月の女神へ祈りを捧げ、星が見えれば「賢く気品ある子を」と歴代の王家へ祈りを捧げる。
予定日より早い出産となり、休めない仕事があったジョシュアはやむなく登城する事となった。
『貴女を信じています。無理をさせますが……どうか、無事で。』
痛みで意識が朦朧としながらもその声は聞こえた。
愛する夫の美しい水色の瞳が見える。緊張から解放されると安堵する心と、傍に居て欲しい寂しさで嘆く心が混ざり合う。
涙を流すイザベルの頭を撫で、彼は行ってしまった。
――信じていると、言ってくださった。私は、応えなければ。
自らを叱咤し、長い苦しみを乗り越えてイザベルは双子を産んだ。
どこか遠く聞こえるような赤子の泣き声に安堵したのも、僅かな時間。
『はぁ、はぁ……、ど…どう、して?』
もつれる舌で問いかける。
なぜ、産声が一人分しか聞こえないのか。
なぜ、部屋の空気が張りつめているのか。
焦ったようにごちゃごちゃと指示を飛ばす声が、聞き取れない。
誰がなんと言っているのか。
赤子が一人で泣いている。
一人で。
『奥様。片方の子が…』
仰向けに持たれたその赤子は、泣いているもう一人より小さかった。
ぐったりして血色も悪く、手足はピクリとも動かない。
イザベルの頭を巡ったのは《失敗》の二文字だった。
医師だか助産師だかが「稀にあること」だの「気道は確保した」だのと話を続けているが、まるで入ってこない。
ニクソン公爵家に相応しくない子を産んでしまった。
『棄てて』
『はい?』
『私はそんなモノ産んでないわ』
『な、何を言うのです!?落ち着いてください、この子は生きて』
――生きているからなんだというの?旦那様に言えるわけがないでしょう、見せられるわけがないでしょう。こんな醜く弱った子を!!
『早くっ…早く始末して!』
――あの人に相応しくなければ、私があの人の隣に居られない。
炎が弾けた。
魔力の暴走を悟った使用人と医師達は悲鳴を上げて対処に駆け回る。
黒水晶を取りに行く者、喚くイザベルを宥める者、泣き続ける赤子を避難させる者。
そして――…
『閣下、ご自宅から伝令が!』
城にいるジョシュアの元へ、報せは届く。
健康な男児が一人生まれたという、事実が。
『生まれたか。めでたいな、ジョシュア』
微笑むギルバートに、ジョシュアは「双子の予定でした」とは、「一人は死産だったようです」とは、言わなかった。敢えて伝えて場を暗くする必要もない。
そこには五公爵家を初めとする有力貴族が揃っていた。
『皆、ニクソン公爵家の長男誕生に祝いを。』
祝福の言葉と拍手を送られ、ジョシュアは深く礼をする。
ニクソン家の長男は一人で生まれたと、公式な記録に残る事となった。
彼が屋敷に帰り着いた時、死産した子は既に埋葬されていた。
明らかに泣いた跡のある疲れきった顔のイザベルが、生き残った子を抱いて微笑んでいる。
それを見て、「なぜ私が帰る前に埋めた」と詰る事はできなかった。
己の腹で大切に育ててきた彼女が、死んだ子を見てどんな思いでそれを命じたかなど、ジョシュアに察する事はできなかったから。
彼はただ「よく頑張ってくれました」と妻に感謝し、墓を掘り返す事も勿論ない。
墓の中身が空っぽだと、この時の夫妻は知らなかった。
公的な記録上、その日に産まれた子だけがジョシュア・ニクソンの血を引いている。
名はサディアス。
ジョシュアと同じ紺色の髪と水色の瞳を持つ男児だ。
彼は一人で産まれた。




