472.大きくなったね
「どういう意味だろうか?」
ウィルフレッドが聞き返すと、浅い呼吸を繰り返していたフェルがハッとして一瞬止まる。
ソファに座り直し、笑顔を浮かべた彼は人差し指をピンと立てた。
「……コツの話です~、お坊ちゃま。」
「治癒のコツ。話してみてくれないか。」
「えぇ、まぁ要するにー……あれです。もしかして、《痛そうだな》…と思いながら治癒されていませんか?」
「……ふむ。」
ウィルフレッドは思案顔で顎に指をかけた。
確かに、「痛そうだから」治してやらなければと考えていたかもしれない。
「今しがた被害――いえ、魔法を受けた身として、なんとなァ~く思ったのですが。お坊ちゃまはきっと感覚型!そう。痛そうだな~と思うより、治す!とにかく、治す!!それを念頭に置いてみてはどうでしょうか?」
「一理あるな。」
「えぇ、とはいえ勿論、必ず成功するでしょうとは言えないのですが。はは…」
「今試してもいいだろうか?」
「えっ。」
フェルの笑顔が固まり、数秒の沈黙が流れた。
多少ピリつく程度ならまだしも、ウィルフレッドがもたらす痛みは通常の比ではない。見かねたエリが首を横に振って進み出た。
「人を実験台にするでない。わらわが治そう」
「――これはどうも、ありがとうございます。お嬢さん」
にこりと笑ったフェルの手を取って、エリは傷口に手をかざす。
痛々しい傷が狭まっていくのをウィルフレッドは大人しく見学していたが、フェルが苦しむ様子はなかった。イアンに聞いていた通り、エリは治癒の魔法が得意らしい。
青い瞳が向く先はフェルへと移る。
「ところで、貴方は『魔法がからっきし』ではなかったかな。」
「自分では使えませんが、以前いた所で色々と見せてもらいましたァ。皆さん日常的に魔法を使っておられるので。」
センツベリー伯爵家に居た頃の事だろう。エリは黙って治癒を続けている。
サングラスの奥、フェルの黒い瞳とウィルフレッドの目が合った。
「お坊ちゃま。思わぬ事が起きる、なんてよく言いますけど……魔法が人の思いを形にする以上、無意識の思いが作用する場合もあるのでしょう。」
使えない私が言うのもなんですがと、黒髪の商人は笑う。
「人の思いは、たった一つで成り立つものではありませんから。」
「――…、なるほど。覚えておくよ」
廊下から足音が聞こえ、片付けに行っていた騎士とイアンが戻って来た。
エリは傷口に手をかざすのをやめ、「後は自然治癒に任せるべきじゃろう」とウィルフレッド達を振り返る。
「わらわはこの者に話を聞く。おぬしら外へ出ていてくれるか。」
「ヴェン、君は残るんだよね?」
一応は成人している他国の姫だ。
ユーリヤ商会の所属で身元は確かとはいえ、男と二人きりにはさせられない。イアンは「当然残るだろう」と思って聞いたのだが、否定したのはエリだった。
「いや。ヴェン、おぬしも廊下へ出ておれ。」
「エリ嬢。それはさすがに…」
「おぬしらの事は信じておるが、聞き耳を立てる者がいなかったと証明する為じゃ。よかろう?ウィルフレッド。」
エリの瞳に宿る強い意思を見て取り、ウィルフレッドはゆるりと瞬く。
警戒の方向性がおかしい。
此度の面会は、「なぜフェル・インスが懐刀を持っていたか」、それを聞くという名目であるはずなのに。
――…やはり、エリ姫は彼と既知のようだな。元々君影国と関わりがあったのか、あるいは彼こそが…
「わかった。イアン、俺達は店内まで出ていよう」
「…承知致しました。」
イアンは心配そうな顔でエリを、警戒の目でフェルを見てから廊下へ出た。ウィルフレッドと騎士も後に続く。
一行の足音が遠ざかると、エリとヴェンは同時に床へ跪いた。
「ご無沙汰しております、兄様。」
「ご無事で何よりです。アロイス様」
「うん――よく来たね、二人とも。本当によく辿り着いた」
サングラスを外してテーブルへ置く。
魔法で黒く色を変えた瞳で妹と親友を見下ろし、アロイシウス・フェルディナント・バストル――《謎の男》アロイスは、くすりと軽く笑った。
「畏まらずに座っておくれ、エリ。君も敬語は無しだ、ヴェン。それと見張りを頼む前に…アベル殿下やレイクス伯爵は来ていないかい?瑠璃色の短髪に緑の瞳をした男だ。」
「…いや。見かけてないな。」
「わかった、それでは廊下に。私達が出ていくまで、誰にも覗かせてはいけないよ。」
「ああ。」
ヴェンが部屋を出ていく。
アロイスの向かいへ座ったエリは、しっかりと背筋を伸ばして兄を見据えた。緊張しているのか、膝に置いた手はワンピースの裾を握っている。
故郷では殆ど常に猫面をつけていた兄。
エリに物心がついてからアロイスが国を出るまでの数年、素顔を見る機会は少なかった。
秘匿の本質である瞳の色は今も黒く塗られているけれど、隠れていた目元が見えているだけでも、ひどく畏れ多いように感じる。
「エリ。誰まで聞かれたくない?」
「っ……わ、わからぬ。」
「では、一応隠れていようか。」
商会の制服の袖に手を入れ、アロイスは鈴を鳴らした。
ちりん。
その音色は妙に響いて、エリは部屋の入口を見やる。
閉まった扉のその向こうにはきっと、ヴェンがいない。視線を戻し、兄を見上げた。
「…去年の末に、小兄様が倒れたのじゃ。おばば様たちのお陰で元気にはなったが……数年内にまた倒れ、今度はもう起きられぬと神託が下っておる。」
長の仕事を続けられる身体では無くなる。
息子はまだ五つにも満たない幼さであり、たった数年後ではまだ何もわからぬ子供だろう。
誰かが代わりに立たなければ。
「《化け物》の私が長では皆恐れてしまう。君が《凶星》のいるツイーディアへ出る事自体、反対した者も多かったのではないかな。」
「押し切った。小兄様だって、本当は兄様が継ぐべきだとずっと前から…」
「長の証である金の簪……探し人の張り紙を見た時点で、そういう話だとわかっていたよ。だから君が授かる物だと書いた。あの手紙は届かなかった?」
「…読んだ。でも、わらわでは無理じゃ。」
「どうして?」
「見ての通りじゃ!こんな……」
エリはどこから見ても子供である自分を手で示したが、アロイスは少しも揺らがない。
後に続ける言葉が何かわからなくなって、力なく手を下ろした。
「……お、大きく…なれなかったのじゃ、わらわは。なんにも、成長できなくて」
アロイスは黙って聞いている。
その瞳を見つめ、エリは「成長できなかった」という自分の言葉が信じられていないと察した。喉が勝手に鳴り、焦りがつのる。
「あ…兄様がいないと……だから、父様の命令など忘れて…っ勿論、あんな鎖付けずともよい!仮面だって……目を隠す術もいらぬ。本当はずっと、帰って来てほしかったのじゃ。兄、様がっ…いてくれねば。わらわは、あの時のまま。あの夜のまま!」
君影を出た方が兄は幸せかもしれない、そんな事はずっと昔からわかっていた。
それでも、アロイスに会う事を我慢していたエリにとって、此度の件は再会の口実であり、連れ戻す理由にもなり、次兄の願いであり、国の助けにもなる事だ。
――あの頃と違って、少なくとも今の君影なら…兄様を縛る父様はいない。
帰って来てほしかった、しかしアロイスの顔を見ればわかる。「帰らない」と。
唇を震わせたエリの頬を涙が伝う。
「私の《目》の事は知っているね」
「ぐすっ……」
「君に何ができるかわかっているよ。ウィルフレッド殿下と違って意識的だろう?術を解いてくれないか。」
「………。」
エリは緩慢な動作で立ち上がり、胸下に手をあてて服の裏地にある金具をパチリと外した。
イアンが作らせたあったか素材のワンピースは、内側で布をたくし上げたり余りを絞った形状になっていて、幾つかの金具を外すと着たままサイズアップする事ができる。
ほんの十秒もなくエリの身長と髪が伸び、胸は膨らみウエストはくびれて、輪郭や顔立ちも幼いものから大人びたそれへと変化した。
百六十センチは越えているだろう背丈に成長した妹を見ても、アロイスは驚いた様子がない。
「八年は経ったか…大きくなったね。」
「身体、だけじゃ。中身はなんにも……」
ぽすりとソファに腰を下ろし、エリは唇を尖らせて俯いた。
見慣れない大きな自分の手を見つめ、センツベリー伯爵邸での夜を思い出す。
『……もし、兄様が戻らぬなら……このままとは、いくまいな。』
『…なにがしかのお覚悟は必要かと。』
アロイスが戻らないまま、次兄が再び倒れるのなら――エリが長の地位を継ぐしかなかった。金の簪を髪に挿し、ヴェン以外の夫を得て。
なぜなら彼は赤目持ちで、結婚も子を成す事も禁じられている。
優しく穏やかに、兄は微笑んでいる。
「エリシュカ。君ならできるよ」
――兄様も、ヴェンを諦めろというのか。
胸がひどく痛み、エリは膝に置いた手を固く握り締めた。
わかっている。もう、子供の我儘が許される歳ではない。長の家系に生まれた姫なのだから。世話役達に散々「身分が合わない」と言われた恋など、諦めねばならない。
アロイスが遊びでツイーディアに残るわけではない事もわかっている。
自由で居たいと逃げる人であれば、あんな鎖など断ち切ってもっと早く国を離れていたのだから。
兄はきっと、役目を果たそうとしている。
それでも。
「…ヴェン……っぐ、うう」
「エリ?」
一滴の涙がぽたりと膝に落ち、エリは顔を俯けてぼろぼろと泣き出した。
慌てて立ち上がったアロイスは妹の隣へ移り、肩に手を添える。
「どうして泣くの?」
「じゃ、じゃって……わらわ、長になっちゃら…ヴェンと結婚でぎぬっ…」
「うん?」
「兄様の気持ちはっ…そ、尊重したいのじゃ。でも…でもっ!……我儘でも…わらわだって、ヴェンを諦めたくなっ…うぅう…」
しゃくり上げながら話す聞きづらい声に耳を傾け、アロイスは困ったように眉を下げた。
大きな手でエリの背を擦りながら、優しく聞き返す。
「なぜ結婚できないと?私は『紅玉もいるなら問題ない』と書いたはずだけど」
「んえっ?な、なぜって…昔から、駄目と決められて……ぐずっ。」
エリが瞬きをする度に涙が零れ落ちていく。
長い黒髪をさらりと揺らし、首を傾げたアロイスは至極不思議そうに言った。
「だからこそ、長になってそれを変えれば良いだろう?」
「ずびっ……………、あっ。」




