469.踊りたいのは
南東校舎一階の小会議室、一仕事終えたチェスターはぐっと両腕を伸ばした。
窓辺に寄って見上げた空は高く、深い青が夕陽の橙をほぼ浸食している。広げた書類を片付けて寮へ帰る頃合いだろう。教室内を振り返れば、アベルは立ち上がってなお資料を読み返している。
「準備はできたってわかってても、つい見返しちゃいますよねぇ。不安は拭えないというか。」
「…傾向は把握していても、それぞれよく知った相手とまでは言えないからね。特にジークは気まぐれな所がある。」
「ですよね。ロイさん達が上手く止めてくれればいいけど。」
「ライルも居るから、ある程度扱いはわかっているだろうが……付き人の方はどうかな。まさか先代の遺児を連れてくるとは思わなかった。」
ジークハルトと共に海路で向かっている外交官、ジャック・ライルから既に連絡が届いていた。
帝国の皇子が連れてきたのは、当代に殺された先代皇帝の息子ルトガー・シェーレンベルクであると。
【要注意事項】リス、ネズミ等の齧歯類を見ると悲鳴を上げ、「ジーク、フロレンツィア」と皇子殿下の愛称、皇女殿下の名を呼ぶ悪癖あり
そんなふざけた注意書きも添えられていた為、ジークハルトの滞在予定先では改めて徹底したネズミ駆除が行われた。
孤島リラへやって来る来賓達は、それぞれ異なる場所に宿泊する。
君影国のエリとヴェンは街中にある貴族向けのホテルへ。ロベリア王国の王弟ヴァルターは、東の高台にあるドレーク公爵邸へ。
そしてアクレイギア帝国の皇子ジークハルトは西の古城。
代々のドレーク公爵が引退後に住まう場所であり、すぐ使えるよう日頃から管理だけはされていて、当代の両親は既に亡くなっているので住人はいない。
しかし皇子の滞在先と決まってから住み込みで手入れする人員も手配した為か、駆除作業では数匹のネズミが捕獲される結果となった。
「城についてはシャロンちゃんの報告書も見ましたけど…ネズミが絶対出ないかは流石にわかんないですね。祈るしかないかな、ずっと防音かけるわけにもいかないし……。」
ジークハルトが滞在する古城の警備体制については、次期ドレーク公爵と騎士団、アベル達の協議で決められている。
しかし本来屋敷の女主人が対応するべき事――内装や調度品の仕様をどうするか、どの部屋に案内するか、対応する使用人と提供する食事はどうするか等――については、次期ドレーク公爵夫人とシャロンが相談して決め、公爵に許可を得た上で対応していた。
シャロンは彼を呼ぶと言った張本人であり、また数少ない「ジークハルト皇子と直接交流のある女性」だからだ。
「あれ……噂をすれば。」
チェスターの一言にアベルは視線を上げた。
窓の向こう、外通路をシャロンとダンが歩いている。学園の西側にある寮へ帰る所だろう。ダンは普段通りシャロンの斜め後ろを歩き、二人とも視線は前へ向けたまま、何か話しているようだ。
シャロンが目を細めてくすりと笑う。
薄紫色の柔らかな長髪が後ろへなびき、アレキサンドライトの緑を中心にしたブローチは、八芒星を模した花が三日月に重なっている。
ウィルフレッドが贈った物だ。
アベルがシャツの袖につけているカフリンクスの片方も、同じアレキサンドライトで飾られている。室内灯の火に照らされた今は赤い。
「気付くかな?おーい。」
チェスターが窓ガラスをコツコツ叩いて手を振ると、二人はこちらに気付いたようだった。
きょとりと瞬いたシャロンがチェスターを見て笑顔になり、唇が名を呼ぶ動きをする。薄紫の瞳は他にも誰かいるのかと視線を走らせ、アベルと目が合った。
「――…。」
花が綻ぶように微笑んだ彼女は唇を閉じているのに、アベルは名を呼ばれたような気になる。
上げ下げ窓を開けたチェスターが、気安い仕草で窓の額縁に腕をついた。
「やっほー、シャロンちゃん。俺ちょうどダン君に用あったんだよね☆」
「そうなの?」
「おー、例の件だろ。」
「アベル様も。タイミング良かったですね、シャロンちゃんが来て」
振り返ったチェスターがそんな事を言うので、アベルは瞬いた。今、シャロンに用はない。
強いて言えばジークハルトが泊まる西の古城の話題で名が出ていたが、確認事項があるわけではなかった。
しかしチェスターがアベルに「真っ直ぐ窓へどうぞ」と言うような手振りをしたものだから、シャロンは話があるものと思ってアベルの正面、チェスター達とは三つほど離れた窓へ近付いていく。
彼女を困らせるわけにもいかず、アベルは資料を置いてシャロンのもとへ歩み寄り、窓を開けた。
「こんにちは、アベル。」
「…あぁ。」
心なしか嬉しそうなシャロンは腹の前で手を揃え、アベルを見上げている。
余計な秋風が吹き込んで、柔らかな甘い香りがした。
「子爵の所に寄った帰りか?」
「えぇ、そちらは打ち合わせが終わったところかしら。私にご用というのは?」
「それなんだが、特にない。」
「…まぁ……」
目を丸くして呟いたシャロンは瞬き、くすりと笑う。
「では、チェスター達が内緒話したかっただけね。」
「そうだろうな。」
「ふふ」
王子殿下のご用命を聞こうとするのをやめ、シャロンは壁まで半歩の距離を詰めて、軽く組んだ手を窓の縁に乗せた。楽しげな笑みを浮かべたまま小首を傾げてみせる。
「それで貴方は、放っておかれる私に付き合ってくれるの?」
アベルは瞬き、ふと笑みを漏らして肩の力を抜いた。
姿勢を崩して窓の額縁に腕をつき、挑発的な目でシャロンを見下ろしてみせる。
「そちらこそ。俺の相手をしてくれるんだろう?」
「喜んで。ふふふ」
「…くく」
シャロンが可笑しそうにするものだから、アベルもつい笑ってしまった。
さして意味のないお遊びを終えて、眼差しを和らげたアベルは自然と浮かんだ事を口にする。
「この所忙しいが、ウィルとは話せてるか?お前に無理をさせていないかと心配していた。」
「昼食は一緒だったけれど、同じ事を聞かれたわ。貴方も心配してるからと。」
「俺が?そんな話をした覚えはないな。」
チェスターにはシャロンの状況を気にしておくよう言いつけていた。
もし一時的にでも護衛が離れるような事がありそうなら誰かつけるようにと。ただそれは表彰式で起きた魔法の件があったからで、無理をしているかどうかの話ではない。
ジークハルト達の対応で確かにシャロンにも色々と仕事を振ったが、彼女は全て問題なくこなしてきた。
「ただ…今こうして近くで、お前が笑っているのを見て……どこか安心した。懸念ぐらいはしていたのかもしれないな。」
「……私も安心したわ。」
アベルの金色の瞳を見つめて、シャロンは少しだけ眉尻を下げて言う。
共通する授業で会う事があっても、挨拶を交わせても、アベルは常に何か別の事を考えているようだった。シャロンが「ゲームと少しでも違う未来に」とジークハルトを呼ばなければ、そこまで多忙にさせる事はなかっただろう。
無意識に自分の手を軽く握る。
「とても忙しいとわかっていたから…貴方が笑ってくれて、嬉しい。」
「…俺が笑うくらい、なんて事ないだろう。」
「あら。それはチェスターくらいいつも笑ってから言って?もちろん本心で。」
「……難しいな。」
「でしょう?」
シャロンがふわりと微笑み、アベルは素直に小さく頷いた。
十一月も終わりとなれば夜も近付いた風はやや冷たく、軽く握られたシャロンの手を寒そうだと思う。
「睡眠時間はきちんと取れている?」
「問題ない。」
毎日寝てはいるので、アベルはそう答えた。
ジークハルトの到着に備え、今夜からは睡眠時間を戻す予定でもある。問題ない。シャロンの眼差しが僅かに疑う様子を見せたので、アベルは先に話題を変えた。
「それより、子爵から無理を言われたり、困らされたりしてないだろうな。師弟とはいえ、勝手を言われるようなら…」
「大丈夫よ。先生はお優しい方だと言ったでしょう?」
「お前はそう言うが、あれは一般的に見て優しくはない。」
「今日だって、夜会のダンスに誘われただけだもの。」
「は?」
眉間に皺を寄せたアベルが低い声で聞き返す。
それを単に怪訝そうな声だと捉えたシャロンは、頷きながら「参加される事がまず意外よね」と付け足した。
「身長の問題があるからソディー先生をパートナーに勧めたのだけれど、不参加だとかで。」
「だからと言ってなぜ君が?身長ならエンジェル子爵夫人あたりで良いでしょ。」
「そちらも勧めたけれど、ホワイト先生と合わせて踊れるかと言うと……少し微妙でしょう?険悪に踊られるくらいなら、同じ五公爵家で先生の弟子でもある私が一曲、と。」
「………。」
アベルは指先でこつりと額縁を叩く。
言っている事はわかる。剣闘大会でも、司会進行を務めたエンジェルからのフリをホワイトは完全に無視していた。あの二人は合わない。踊らせたら確実にエンジェル側が怒る。
「恐らく、学園にいる中で一番ホワイト先生の感覚がわかるのも私でしょう。先生は数年振りだと言うし……それに、私は沢山の方と踊るでしょうから。他の方に頼むより噂にもならないと思うの。」
「…一応聞くけど、一曲目はウィルとだよね。」
「ウィルが私を選んだら、他の方は遠慮するでしょうね。」
一曲目は手本として、学園に通う全生徒の中で位の高い貴族子息が踊るものだ。
開会時彼らは一番最後に入場し、ダンスホールにいる女子生徒の中から一曲目のパートナーを選ぶ。
婚約者や恋する相手がいれば当然その令嬢を。決して結ばれないだろう平民を誘い、「今は選ぶ気がない」という意思表示代わりにする者もいれば、高位の貴族令嬢に敬意を払って誘う者もいる。
故に、シャロンが「一曲目に誰からも選ばれない」という結果はあってはならない。
「君を選ぶに決まってるでしょ。」
「そうかしら?」
シャロンがさして気にした風もなくそんな事を言うので、アベルは訝しげに彼女を見やった。
公表していないとはいえ、婚約者に選ばれないというのは望まぬ結果ではないのだろうか。その程度で揺らぐ信頼ではないという事か。
「ロズリーヌ殿下もいらっしゃるし、カレンもいるし。」
「…王女殿下はともかく、カレンは無いだろう。」
「ふふ、それは当日のウィルに聞いてみなければね。なにも、踊っただけで結婚が決まるわけではないもの。私は皆と踊れるのを楽しみにして……」
そこまで言って、シャロンはふと言葉を途切れさせた。
躊躇うように目を伏せ、窓に置いていた両手の指先をそっと合わせる。唇を薄く開き、なぜかいじらしくアベルを見上げた彼女の頬は少し赤かった。
「貴方は…誘ってくれる?」
喉が狭まったのか小さな、吐息混じりの声。
アベルはひとまずシャロンの後ろを見た。通行人はおらず、先程より空が暗い。すなわち気温も下がっている。自分はむしろなぜか少し暑いくらいだが、シャロンは肌が赤くなり喉が締まるほど寒いようだ。早く寮に帰らせた方がいい。
一瞬で思考を終え、視線を戻した。
「もちろん。」
「今ちょっと考えなかった?…嫌?」
「嫌ではない。立場的にも、俺達が一度も踊らないわけにはいかないだろう。」
「そう――…そうよね。」
「それに、お前が一番俺の感覚をわかっているし」
シャロンが瞬く。
緩んだその手にアベルが指先を絡めると、やはり冷えていた。軽く擦りながら目を合わせる。
「踊りたい相手と言ったら、お前しかいない。」
少し目を見開いたシャロンから手を離し、アベルはまだダンと話しているらしいチェスターに「帰らせろ」と手振りする。
チェスターが頷いたのを見て、胸元で手を握っているシャロンに視線を戻した。心なしかさらに顔が赤い。
「寒いか?早く帰って温かくしろ。」
「…はい……そうします。あの、アベル」
「うん?」
窓を閉めようと手をかけたアベルは、何かを口ごもるシャロンを見て「ああ」と呟いた。
また明日と言うのはいつもの事だ。
今は日も暮れているから、
「おやすみ。シャロン」
「っ――…」
「また明日。」
「…おやすみなさい、アベル。また明日ね。」
赤い顔で嬉しそうにはにかんだシャロンに軽く笑みを返し、アベルは窓を閉めた。
なぜかダンが追い付く前にシャロンが全力で駆け出して行ったが、それほどまでに寒かったのだろう。
「…護衛を置いていくな。」
届かない事を承知で、呆れ顔のアベルはぽつりと呟いた。




