467.見てはいけない物を見た
午後の授業を終えた放課後、私は予定通りホワイト先生の研究室を訪れた。
ノックをして、返事の後にダンが扉を開けてくれる。
「失礼します。」
「ああ」
先生は普段通り、作業机の前にある大きな椅子に腰掛けていた。
右の前と左の後ろだけまばらに白い黒の短髪、黒の上下に、前を留めていない白衣。ゴーグルを首元へ下げていらっしゃる今は、綺麗な赤い瞳がよく見える。
少し眉間に皺が寄っていて圧があるけれど、どうされたのだろう。
「……おまえ。」
「はい。」
ひとまず入室は許されているので、ダンと共に中へ入った。後ろで扉が閉まる。
椅子が軋む音がして、ホワイト先生は立ち上がった。ごつりと靴を鳴らして、たった一歩だけこちらへ近付く。先生は背が高いから、距離が近過ぎてもお互い首が疲れるのだ。
「女神祭の最終日に夜会がある事は知っているな。」
「勿論です。」
在学中の公爵令嬢としては、絶対に参加しなければならないパーティーだ。
ゲームで最終日に着ていたのと同じドレス――それも、着ないという選択肢がないもの――まで届いた事だし、私が夜会に出ないわけには
「おれと踊る気はあるか。」
えっ?
「――…先生は、不参加だと思っておりましたが。」
驚いて目を丸くしている事を自覚しながら聞けば、ホワイト先生はこくりと頷いた。
そうよね?好まれないわよね、夜会に出るなんて。
確かゲームでも、選択肢で先生を選んだカレンが会うのは夜会の会場ではなかったはず。
「参加意欲は皆無だ。いつも出ていない」
「…学園長先生ですね?」
「そうだ。居るだけでなく、誰かしらと踊るよう言われた。」
「まぁ……。」
ホワイト先生は面倒そうだけれど……いらっしゃるのであれば確かに、一曲くらい踊った方が賢明でしょうね。
どうあってもこの方は、マリガン公爵家の令息なのだから。
先生に憧れるご令嬢達はこれ幸いと押し寄せてくる事でしょう。一曲の義務を果たしたいのはわかるけれど…
「ですが先生。身長差を考えると、ソディー先生にお願いするべきではないでしょうか?あるいはエンジェル先生に。」
どちらも夫婦仲が良い既婚者で、目測だけれど素でも百六十五センチはあるはずだ。
なにせホワイト先生は百八十九センチもある……ソディー先生がヒールを履いた状態でようやく、十数センチ差といったところではないかしら。
弟子とはいえ、未婚の令嬢であり三十センチ近い身長差のある私より良い相手だろう。
「ソディー侯爵夫人は来れないと聞いている。エンジェル子爵夫人とおれが合うと思うか。」
「思いませんけれども…。」
つい即答しつつ、眉尻を下げて片頬に手をあてた。
ソディー先生が不参加とは聞いていないわね。急に決まったのかしら……いえ、今はそれよりホワイト先生だ。
「おまえは去年エリオット様と踊ったんだろう。」
「父も先生よりは低いと存じますが。」
「おまえも今より低かったはずだが。」
「――…、そうですね。」
ちらりと目を横へ流して考え、そう答えた。否定はできない。
一年ほど前なら私は五、六センチ背が低かったはずだ。お父様は先生と四、五センチ差くらいかしら。
「えぇ…確かに。当日は踵のある靴を履きますから、父と踊った時と身長差はさほど変わりません。ただ、踊りにくいですよ?」
「構わん。」
「このくらいになりますが」
足元を確認し、五センチ程度踵を上げてみせる。王妃殿下がセットで贈ってくださった靴の高さだ。
ホワイト先生は首にかけたゴーグルを背中側へずらし、私の前に立った。背伸びしているというのに、頭の先が先生の首元くらいね。
「低いな」
先生がぼそりと呟いた。そうでしょうとも。
私はすとんと踵を下ろす。
「本来はせいぜい二十センチ差までかと。去年は父の調整が上手かったので踊れましたが…」
ドレーク王立学園の卒業後ロベリアへ留学し、帰国後はすぐ教師になったホワイト先生が、例年は女神祭の夜会にも参加しない先生が、ダンス経験豊富なお方だとは思えない。
先生の身体能力なら、筋力や柔軟性には問題なさそうではあるけれど。
「どうしたらいい。」
先生は普段通りの真顔で両腕を軽く広げた。やってみようという事ね。
私は再び少し踵を上げつつ、窓のカーテンが閉まっている事を横目で確認する。お父様とどうしていたか思い出しながら、先生の手のひらに右手を重ねた。
「ホールドの高さはどちらに合わせるでもなく、中間を取りましょう。真っ直ぐ組むのではなく斜めを意識して頂いて…身体全体です。足腰を緩め、猫背にはならないように。」
「これでいいか。」
「はい。やりづらいだろうものはこちらで省きますので、恐縮ですがステップは私に合わせてください。脚の長さが違いますから歩幅は考慮して頂き、後は…」
身体の動きで促し、一度だけ軽くターンしてみる。読み取ってもらうのは大丈夫そうね。
そっとホールドを解いて足元を指した。
「今のターンでは、踏み出す際の右足はこちらではなく、外側に出して頂いた方がやりやすかったかと。もう一度いきますね」
改めて動いてみると、先程より明らかにスムーズにできた。
ホワイト先生にとって何年振りのダンスかわからないけれど、一応は問題なくできそうでよかった。踵を床に下ろして身体を離し、私は一歩下がって白衣姿の先生を見つめてみる。嫌な予感がした。
「……当日の衣装は、注文されましたか?」
「してない。」
「それは――」
「兄上と姉上から一式送られてきた。それでいいと思っている」
後方でズルッと脱力したような衣擦れが聞こえた。振り返ると、ダンが小さく咳払いして「失礼」と呟く。
――…「兄上」というと、先生のルートでアベルの暗殺に失敗した方ね。
何も、顔に出ないよう気を付けた。
ホワイト先生はすっかり「解決した」という雰囲気で椅子に腰掛けていらっしゃる。背中側へ流していたゴーグルを前へ引き戻し、反対の手で私を促した。
先生の隣の椅子に座る。いつものように。
「それで、相談とは何の話だ。」
「王妃殿下から、贈り物と一緒に手紙を頂きました。これは」
赤い瞳が私を見る。
意図を汲み取って口を閉じると、先生は入口の傍に立って控えているダンを見やった。
「おまえは外に出ていろ。」
こちらに視線を向けるダンと目を合わせ、小さく頷く。
ダンは「承知致しました」と一礼し、廊下側へ出て部屋の扉にストッパーをかませた。私はホワイト先生と向き合い、少し声を落として聞く。
「――贈り物は、いずれする依頼の前金だと思ってほしいと。詳細はホワイト先生が知っているとの事でしたが」
「贈り物というのはドレスか。」
「…ご存知だったのですね。手紙には、ウィルフレッド殿下達にも言っていないと書いてあったのですが。」
「おれにも手紙が来ていた。………、これだ。」
先生は作業机の引き出しを開け、無かったらしく白衣のポケットに手を突っ込み、机に積まれていた本の上から手帳を取って、ようやく開封済みの封筒を見つけた。
中に入っていた便箋を机に置いてこちらへ寄せられたので、読んでいいと判断して「失礼します」と手に取る。
― ― ―
可愛いルーク
寒さが強まってきましたが、きちんと暖かくしていますか?適当な場所で寝てはいないでしょうね。新しいコートとマフラーと帽子と手袋を送っておきますから、外出時は使うように。王妃命令です。
先日ドレーク公爵から、貴方が久方振りに夜会へ出ると聞きました。ダンスにも参加するとか?なぜもっと早く報せないのです。お陰でじっくりデザインに悩む時間がありませんでした。
わたくし達で一通り用意しておきましたから、送ります。着なさい。
本当ならシャロンちゃんに贈るドレスと兄妹コーディネートのようにしたかったのですが、エリオットがうるさいので、デザイン案は後々に取っておくことにします。
内密に絵師を派遣しますから、夜会には最後まで出るように。息子達と貴方とシャロンちゃん、全員分きちんと依頼をしてあります。これについて、エリオットから何か聞かれる事があっても黙っていなさい。陛下もご承知の事です。ディアドラの許可は得ています。
それと以前聞いた薬の件、是非頼みたいと思います。貴方が見たものなら確かでしょう。楽しみにしていますよ。
貴方の姉より
金は出したが大体姉上の仕業だ。
あとたまには顔を見せるように。
兄より
― ― ―
「………先生」
「何だ。」
「私は…これを拝読してよかったのでしょうか。」
「構わんと思うが。」
そうだろうか??
見てはいけない物を見てしまった気持ちでいっぱいなのだけれど。仮にダンが見ていたら、宛名の時点でホワイト先生を二度見していたでしょう……。
それにしても、「シャロンちゃん」?
私が王妃殿下にお会いしたのはたったの二度だけだ。
女神祭の時は公的な場という事もあって碌にお話しできていないし、初めてお会いした時は…
『公爵が隠すものだから、どんな娘かと思っていましたが……これではね。無理もありません』
艶のある長い黒髪に、ウィルと同じ青色の瞳。
口元を扇子で隠した王妃殿下は冷ややかな目で私を見据えていた。アベルにだけ見えるよう、声を出さずに何事かを囁いて。
その時どうしてか、怖くはなかった。
殿下はウィルに「出て行きなさい」と、「見るに堪えないわ」と、仰っていたのに。ゲームでは「愛情深い王妃」と書かれていたからだろうか?
ゲームの王妃殿下は愛ゆえに息子の死に耐え切れず、病に臥せ憔悴して、私達が卒業するまでの数年すらもたずに亡くなってしまうのだ。
この手紙一つをもってすれば確かに、異母弟のホワイト先生や実の息子であるウィル達、そしてなぜか私まで可愛がってくださっているように見える。
「えぇと……学園長先生は、先生が拒めないよう先んじて王妃殿下にお伝えしたのですね。」
「そういう事だ。どこの誰を寄越すか知らないが、欠席すれば報告されるだろう。姉上達を気落ちさせるのは本意ではない。」
「…仲がよろしいのですね。」
つい頬を緩ませてそう言うと、先生はなぜか予想外の事を言われた顔で瞬いた。
手紙を机に戻し、先生の方へ少し滑らせる。
「先程お伝えしたように、私への手紙には『依頼の前金』とありましたが……正直なところ頂いたドレスは、とても短期間で作られたとは思えない出来でして。」
「おまえが夜会に出るのは当然なんだろう。無論、おれより先に手配されていたはずだ。」
「ですが、それだと依頼しようと決めた時期とズレてしまうはずです。」
「つまり前金というのは後付けの理由、それだけの話だろう。何か問題があるのか」
「…あ、後付け……」
元からドレスは作っていて、ちょうどよく理由ができたからそういう事にした、と……?
先生が仰っている理屈はわかるけれど、でも、さっぱりわからない。
『いずれまた会いましょう。アーチャー家の娘。』
少しも笑わずにそう仰っていたあのお方が、私を「シャロンちゃん」と呼んでいて、ウィル達やホワイト先生と一緒に描かせるおつもりで、私にぴったりのドレスを作っておられたのは……なぜ?
いつの間にそれほど親しみを持ってくださっていたのだろう。
思い当たる節がまったくないのだけれど。
「…問題は、ないのですが。ただ不思議なのです。その……私的な場でも、特別目をかけて頂くような事はなかったものですから。」
「いずれ説明するが、姉上はこういう方だ。」
手紙を指先でトントンと叩き、ホワイト先生は私を見やる。
見つめ返すと自然、「兄妹コーデ」という単語が頭に蘇ってきた。……家名が違って兄妹コーデは流石に無理があるのではないでしょうか、王妃殿下……!
「薬と書いてある通り、依頼はおまえのスキルに関係する。解明が進み上達すれば、姉上が望む物を献上できるかもしれない……とは伝えていた。」
「可能性の話ですよね?確定するより早く前金が届いてしまっているのですが…」
「一年、遅くとも二年以内に達成した方がいいだろうな。」
「…ちなみに、どのような薬をお望みかお聞きしても?」
「今のおまえに言っても作れない物である事は確かだ。」
先生はそこまでで口を閉じた。
言っても意味がないし、下手に挑戦されても困るという意思表示だろう。
王妃殿下からの依頼……流石に毒薬だとは思わないけれど、スキルに頼るなら「現時点で存在しない薬」である事は確かでしょう。
まさかゲームの私が持っていた秘薬?それとも別の薬?
いつか、できるようになるのかしら……。
少し気が遠くなって、私はそっと部屋の壁に視線を移した。




