463.まずは腹ごしらえ
神殿都市サトモス――とあるレストランの個室。
明らかに貴族御用達とわかる美しい調度品には目もくれず、まだ十歳前後の歳に見える少女はせっせと食事を頬に詰め込んでいた。
――…これで一国の姫、とは……。
嬉しそうに頬を緩めてむぐむぐ咀嚼する姿を遠い目をして眺め、円卓の向かいに座っている青年――イアン・マグレガーは、気を取り直して口を開く。
「ドレーク公爵に会いたいという件は、どうにかお約束を頂けたよ。」
「ほむは!みょむんっももう!」
「…飲み込んでから喋ろうか。」
イアンは渋面で小言を言った。
次期侯爵である彼は艶やかな金の短髪に黄土色の瞳をしており、整った顔立ちは優しげで麗しい。
しかし目の前の少女は強面好きであるので、イアンの魅力にはてんで興味がなかった。
「んむっ……ごくん。その学園長がアンジェの…君影の血を引いているのじゃろ?」
フォークの先で空中を掻き、黒髪の少女――エリが問いかける。
彼女は内巻がかった横髪を頬の高さに切り、後ろは低い位置でツインテールにしていた。神秘の国《君影国》からやってきた姫だが、目立った凹凸の無い平坦な身体は百四十五センチと小柄で、顔立ちも十六歳にしてはかなり幼い。
「その通りだ。アンジェリカ・ドレーク様の直系で、確かお歳は四十七歳かな。頼むから会う時は行儀よくしてくれよ。」
「わかっておる。ついでに少し話してみたいと思うただけじゃ、悪いようにはせぬ。」
エリが口元をナプキンで拭いながら言うと、イアンは納得した様子で頷いた。怒ったり拗ねたりジタバタしている時と今では説得力が違う。
黄土色の瞳を空中へ向け、イアンはどこか嬉しそうに「それにしても」と呟いた。
「君影国でも、アンジェリカ様の名は強く残っているんだね。建国に関わる伝説の人だ、ツイーディアで残るのは当然だけれど。」
「民は知らんじゃろうがな。…忘れるでないぞ、わらわは長の家系なのじゃ。古くから保管される多くの書物に目を通しておる。」
「ああ、そうか。うん、流石にこちらほどの知名度ではないよな。」
「…話を戻して恐縮ですが、ドレーク公爵は気難しいお方なのでしょうか?」
それまで黙っていた男――ヴェンが口を挟んだ。
彼はエリの護衛で百九十センチ近い大男であり、黒の短髪に額の高さで手ぬぐいを巻きつけ、頭の左側で縛っている。真面目とも仏頂面とも見える強面で、血のように赤い瞳が彼の迫力をさらに増していた。
睨んだかと錯覚するような鋭い視線を受けても、彼に慣れたイアンは気にしない。
「教育者だからね。厳しい所はあるけれど……まぁ、茶目っ気も忘れないお方だよ。短気ではない――…とはいえ、本当に気を付けてほしい。」
エリに向けて念押ししたが、笑顔で食事を再開した彼女の耳には届いていないようだ。
ドレーク公爵との面談は、イアンが父であるマグレガー侯爵に相談の上で手配したもの。エリが何かとんでもない無礼でも働こうものなら、一国の姫とはいえ、「なぜ連れてきた」と白い目で見られるのは侯爵家なのだ。
「…ともかく、行程を整理しようか。」
イアンが軽く手を振ると、エリはむぐむぐと咀嚼しつつもちゃんと視線をそちらへ向けた。
ヴェンは既にカトラリーを置き、しっかり聞く姿勢を取っている。
「当日リラに着いたら、まず向かうのは宿だ。騎士団の詰所も近いから場所を覚えておくこと。泊まる部屋を確認した後にユーリヤ商会の店へ向かう。先走って迷子にならないようにね。」
「ならぬわ!おぬし、わらわを幼児か何かと勘違いしておらぬか?」
「真面目に言ってるんだ、エリ嬢。リラでは絶対に僕達から離れないこと。別行動は無しだ。いいね?」
王都ではヴェンが少し離れた隙に、エリがならず者に騙されてあっさり連れ出されたと聞いている。
普段より幾分低い声で語気を強めたイアンに、エリも勢いを無くして目を泳がせた。
「わ、わかったから、そう怖い顔をするでない…。」
「兄君が心配なのはわかるが、商人が居場所そのままを知っていたとしても待ってくれよ?殿下ともドレーク公爵とも約束があるんだ、予定を蹴られては困る。」
「それは安心せい。リラに行くなら兄様とは別でアベルの様子も見るつもりじゃったし、アンジェの子孫と話してみたいのも確かじゃ。放り出して帰る事はせぬ。」
「そもそもイアン様の助けがなければ、我らは《ゲート》を使えません。」
「まぁ、それはそうなんだが。」
イアンは少し眉尻を下げて顎を擦る。
二人はツイーディア王国の《ゲート》を使うのは初めてだ。予約手続きなどは一切イアンに任せきりだし、現地で管理者相手にどう手順を踏めば恙なく済むかも知らない。
「じゃあもし急ぐ必要があっても、今すぐ出港する船が『先着二名様、無料です』なんて言ってても乗らないね?」
「乗ら…乗らぬ」
「僕の目を見て言おうか。」
「とっ、ところで、その《げーと》とやらはどうなっておるのじゃ~?」
笑顔を作ったエリが明るい声で聞く。
イアンは一瞬渋面をしたが、ヴェンが「建国時代からあると聞きますが」と続けると、追求を諦めて説明を始めた。
「六騎士が数人がかりで成し遂げた、超長距離を一瞬で移動する魔法だよ。普通の《ゲート》と違って半永久的に使う事ができ、万一破壊されたら…再び構築するのは相当に難しいだろう。」
「ふむ?半永久的とは大きく出たのう。」
「初代騎士団長グレゴリー・ニクソン様は、《干渉》と呼ばれるスキルの持ち主でね。これは他人が発動した魔法に文字通り干渉し、いじる事ができたそうだ。」
ツイーディア王国の長い歴史の中でも、彼と同じ《干渉》持ちは殆ど確認されていない。
あるいはその重要さゆえ王家が存在を隠したかもしれないともイアンは考えているが、他国の人間相手にそこまでは語らなかった。
「彼は天に届くほどの魔法を使った言い伝えもあって、莫大な魔力を持っていた事がわかる。今を生きる僕達は、彼のお陰で楽に移動ができているんだよ。本来はしばらく船に乗らなくちゃいけないからね。」
「最初から孤島などに学園を作らなければ良かったのではないか?」
「ふふ、それを言われると元も子もないけれど――…建国して即座に国民全員が従ったわけもないし、当時はまだ落ち着いて子供が学べる状況になかったんだろう。それに帝国との戦争の歴史を振り返っても、学園がリラにあるのは合理的なんだよ。」
イアンは国の歴史を軽く辿る。
アクレイギア帝国はツイーディア王国より後に作られた国だ。無法地帯をまとめ上げた初代皇帝の亡き後、停戦協定が結ばれるまで何百年も戦争を繰り返していた。
ツイーディアは六騎士の子孫である王家と五公爵家を初めとし、魔力を有する戦士が多くいる国だ。それでも中枢まで攻め込まれる時もあったが、魔力のある子供達は海を隔てた孤島リラで守られてきた。
「最悪の場合はこの神殿都市サトモスにて《ゲート》を封鎖する。ツイーディア北東のアクレイギアが王都ロタールを襲いながら、同時に南の孤島リラを大勢で襲撃するのは不可能だからね。」
「…本土を明け渡すのですか?」
「どうだろう、僕が知る歴史上ではそんな事起きてないし――ああ、西のロベリアと南西のソレイユを含めた三国の挟撃にあった時は、流石に大変だったみたいだけど――…話がだいぶ逸れてしまったね。」
小さく咳払いし、イアンは乾いた喉に食後のコーヒーを流し込む。
君影国は国境を覆う深い霧に隠され、国家間の戦争とはまるで無縁な国なのだ。これ以上話して不安がらせる必要もないだろう。
「ともかく《ゲート》は大昔に設置されたもので、人でも荷物でも一瞬で海の向こうへ渡してくれる。物資の輸送にも使うから、よっぽど国の一大事でもない限り、割り込んで今すぐ使わせてくれ――なんて話は通じない。」
「うむ、心得た。こちらに戻る時はそなたと一緒じゃと覚えておればよいな。」
「そうだね。」
一番単純で確実な覚え方だ。
深く頷いたイアンをちらりと見て、エリはデザートの果物をフォークでつつく。
「学園に妹がいると言っておったな。会わんのか」
「いや、会うよ。僕の誘拐監禁について詳しく知らないから、無事と聞いてはいても気を揉んでいるだろう。元気な姿を見せて安心させてやりたい」
「…そうじゃな。それがよい」
元気ではあっても、イアンの左腕には傷跡が残ってしまった。
あの時エリが呑気に寝こけていなければ、すぐ治療してやっていれば、少しは変わったかもしれない。視線をテーブルに落とし、エリは果物をかぷりと口に含んだ。柑橘系の酸味とほのかな苦みが広がる。
イアンはそんなエリを見つめ、困ったように苦笑してから明るい声を出した。
「食事でもと思っているんだけど、エリ嬢。君達も同席してくれないか?恩人だと紹介させてほしい」
「む…よいのか?兄妹水入らずでなくて…」
「いいさ。僕の妹に、君影の姫君と食卓を共にする栄誉をくれないか。」
「ふ、ふむ。まぁ、そなたの頼みであるし?聞いてやらん事もないな。うむ」
「…自分は廊下などで待機させて頂ければ。」
調子を取り戻したエリの隣でヴェンが言う。
イアンがそれはなぜかと問えば、怯えさせてしまうからだと彼は答えた。
「僕の妹はそそっかしいうっかり屋だけれど、君が少しばかり迫力ある男性だからと言って、恩人と紹介された相手を怖がる事はないよ。」
「……このような目でもですか。」
「ヴェン」
エリが鋭い声で名を呼ぶが、ヴェンは小さな主人を振り返らずイアンの答えを待っている。
確かに最初見た時は驚いたと思いながら、イアンは首を傾げた。
「赤い瞳の事かい?珍しいけれど、妹は気にしないと思うよ。同級生にいるからね」
「は……」
「なんじゃと?」
蜂蜜色の瞳を丸くし、エリまでもがイアンを凝視する。
その反応こそわからないとばかりに肩をすくめ、イアンは軽い調子で話した。
「手紙で教えてくれたんだ。珍しくも白髪に赤い瞳を持つ子がいると」
「…白髪なのか」
エリが呆然と呟いたが、その声は微かでイアンには届かない。
「それに確か、ホワイト先生の瞳も赤じゃなかったかな?もっともあの方は普段色のついたゴーグルをしてるから、これはうろ覚えだけど……二人共、何をそんなに驚くんだ。」
「い、いえ……自分の他に、赤目を知りませんでしたので。」
「そこら中にはいないだろうけど、まぁでも、そりゃあいるだろう?たかが目の色じゃないか。」
「――…はい。」
ぎこちなく頷くヴェンの隣で、エリは黙っていた。
思考が上手く整理できない。
たかが目の色。
そう――そうなのだ。
遥か昔の悪人と同じだからと言って、瞳が赤ければ皆《忌み子》だ、などと。
不気味がり、遠ざけて、結婚を禁じて、一人で死んでいけと。
そんな事はおかしい。
イアンの反応が正しい。
たかが目の色ではないかと笑い飛ばしたのは、幼い頃のエリも同じだ。それでも今この場で「その通りじゃ」と言う事が、彼女にはできなかった。
――兄様だけでなく……ヴェンまで、ツイーディアに残ってしまうのじゃろうか。
珍しいと奇異の目で見られても、時として怖がられる事があったとしても。
少なくともツイーディアでならヴェンが結婚しても許されるのだ。
かつて、アンジェがそうしたように。
君影を捨てれば、ヴェンは自由になれる。
神殿都市サトモス――西門。
人目を避けるようにして、数人の旅人が集まっている。
一人はたった今合流したばかりのようで、中でも一番若い青年に向き合うと、背筋を伸ばし胸に片手をあてた。
「この度はよろしくお願い致します。」
「ああ。そのような格好を頼んでしまい、苦労をかける面もあると思うが…」
青年の声に滲むのは申し訳なさではなく気遣いだ。
フードの下にはやや外跳ねした青い髪と青い瞳、眉目秀麗な顔立ちが見える。目の下に疲労感たっぷりのクマがなければ、更に良い男であった事だろう。
首元には薄青いガラスの嵌ったゴーグルを下げている。
「お気になさらず。むしろ少々楽しんでおります」
「そう言ってもらえると、こちらも気が楽だな。……共に来てもらうのに、堅すぎても疲れるだろう。旅の間はある程度無礼講で構わないよ、パーセル伯。」
穏やかな声で言われ、相手はぱちりと瞬いた。
赤紫の瞳を輝かせて頷けば茶色のポニーテールが揺れる。
「そうか!ではよろしく頼む、ヴァルター様っ!まずは腹ごしらえに行こうか!」
男性用の旅装に身を包み、セシリア・パーセルは満面の笑みでそう言った。




