461.人の心と秋の空
孤島リラ――危険生物対策ギルド、ギルド長室。
歳の頃は六十近いだろうか、ピシリと背筋を伸ばした紳士が窓辺に立っていた。
ホワイトブロンドの短髪は後頭部の下半分を刈り上げ、顎には清潔に整えた髭がある。
夕暮れ時の賑やかな街並みから目を離し、彼は部屋の中を振り返った。片手に持っていたコーヒーカップから立ちのぼる湯気が、空中にゆらりと白を描く。
「久しいな、アンソニー。」
そう声をかけた先には一人の少年がいた。
少し癖のある短い黒髪に、鋭い光を放つ金色の瞳。ツイーディア王国第二王子、アベル・クラーク・レヴァインその人だ。
気の強い猫のように目を細め、アベルは口角を上げる。
「ご健勝そうで何よりだ、養父上。」
「はっははは、閣下より先には死なんと決めているよ。」
目尻の笑い皺を深め、彼は茶目っ気を感じるほどわざとらしい優雅な手つきで、アベルに革張りのソファを勧めた。
尊大に脚を組んで座る王子殿下に対し、不敬にもコーヒーカップ片手に騎士の礼をしてから向かいへ腰掛ける。
この男はジェフリー・ノーサム。
王都ロタールと孤島リラの街に店を構える喫茶店《都忘れ》のオーナーである。一部には十数人もの孤児を引き取り育てる人の良い子爵として知られ――かつて、城を抜け出した幼いアベルに偽名を授けたのも彼だった。
「テオ達にはもう会ったの?」
「ええ、昨日パット達も呼んで食事を。」
「そう。」
「ノーラ嬢が店の者と二人で迎えにいらっしゃいましたが、彼女もお元気そうでしたね。」
表情を少し引き締め、ジェフリーは落ち着いた低音で返した。
今相手にしているのはアンソニー・ノーサムではなく、第二王子アベル・クラーク・レヴァイン殿下だからだ。
ジェフリーは気難しい事で有名な宰相マリガン公爵の腹心であり、外交官として二十年以上務めていた男。切り替え時くらい弁えている。
「大会でのご活躍も聞きましたよ。決勝戦で障壁の天井に至る、まして着地した者など史上初では?」
「兄の魔法が凄かっただけだね。僕がそこまで跳んだわけじゃない」
「だとしても。魔法無しに生還するだけでなく反撃までなさるのは殿下くらいのものでしょう。障壁を解除しなかったドレーク公の判断も流石ですね。」
「…そんな事より、ここの準備は間に合ってるのかな。」
「一応は、辛うじて。」
ジェフリーがにこりと笑う。
二人が話す間にギルドの事務職員が静かに入室し、緊張した様子でアベルの前にコーヒーやシュガーポットを置いて出ていった。
主だった街に危険生物対策ギルドを設置するにあたり、それを統括するギルド長の人手不足も問題だった。
これまでその街をまとめていた領主や領軍、商会ギルド、領民、派遣された騎士あるいは自警組織などと上手く交渉する必要があり、時として従わせるだけの実力や立場も必要となる。
しかし城の文官や騎士団に、そう都合よく手の空いた人材が余っているはずもなく。
既に一線から退いた者にも声がかけられ、中でもジェフリー・ノーサムは宰相マリガン公爵をはじめ、特務大臣アーチャー公爵の推薦も得て孤島リラのギルド長に就任した。
今のリラには王子達がいる。
代々の特務大臣であるアーチャー家は元より、王妃セリーナの実父であるマリガン公爵もまた、王子達を害する理由がなかった。
外交官時代に各国や辺境領主達ともパイプができているジェフリーなら適任だろうと、国王ギルバートも承認している。
忙殺されたここ数日を振り返り、ジェフリーは片眉を上げて顎髭を擦った。
「しかし、魔獣の変質は少々予想外でしたね。体毛に変化が見られたと聞いた時に妙とは思っていましたが、ここまでとは。」
「そうだね。逃走している研究者が捕まれば、もう少しわかるかもしれないけど。」
アベルは表情を変える事なく些細な嘘をついた。
魔獣が変質する可能性については予想外ではない。致命傷でも死なない魔獣については、チェスターとシャロンの知り合いである《先読み》持ちが既に情報をもたらしていた。
ファイアウルフの体毛が灰色ではなく黒に変化し、より脂っぽくベトベトとして、体内にあるはずの魔石が体表に少しばかり顔を出している個体。
心臓を貫いてもしばらく動いた、頭部を切断してもまだ体が向かってきた。
そんな報告が上がっている。
今は生け捕りした個体の研究や、目撃情報からの生息マップ作成が始まったばかりだ。
「そちらの対応策も盛り込み、明日の午前と午後で学園の教師陣は試験を終えます。よほどがない限りは全員合格され、討伐資格を得られるかと。」
ジェフリーは確信を持って言う。
魔獣討伐資格試験は、要は敵の特徴や法に定められた手順、処理方法などを理解していれば良いのだ。王立学園の教師がその程度できないはずはない。
「流石にリラまでは魔獣単体では来れないでしょうが…油断はできませんね。」
「うん。《ゲート》持ちが逃げている以上は余計にね。」
「そうですね。王都襲撃の時にあちらが見せた移動距離なら、ここが孤島と言えどやりようはある。」
二月に王都が襲われた際、魔獣は《ゲート》から現れた。
そして視認できる範囲にはその《ゲート》の入り口が見当たらなかったのだ。本来は術者の視界の範囲内に入口と出口を生成するスキルであるはずなのに。
当時、同じく《ゲート》持ちである騎士団長ティム・クロムウェルは、副団長レナルド・ベインズの《遠見》と十番隊副隊長ロナガンの《念写》を合わせ、騎士団本部から王都の各門へ騎士を送り込んだ。
簡単に揃う人材ではないが敵方も同様の手順を踏んだか、あるいは単にスキルとしての質が高いのか、もしくは別の手を使ったか。
海を渡らねばリラには来れないが、敵に超長距離の《ゲート》接続が可能なら襲撃は可能だろう。
湯気の立つカップに指をかけ、アベルは長い睫毛を伏せてコーヒーに唇をつけた。
シュガーポットは放置されたままでいる。
「女神祭に誰が来るかはもう聞いているよね。」
「ええ、毒持ちと愚者の国からお忍びで二名。」
「口が悪いな」
「これは失礼。」
まったく悪びれていない顔でジェフリーが笑う。
どちらも経由地には着いている頃だろうかと、アベルは視線を窓へ投げながらカップをソーサーへ戻した。
「後はあの可愛らしい姫君がいらっしゃるとか。」
「今来てほしくはなかったけどね。君は王都で会っていたんだっけ。」
「閣下が幾度か面談された際、私も同席しましたからね。なにせ、あのしかめっ面で子供…失礼、姫君の相手は難しいものがありますので。」
宰相の気難しさは有名だ。
アベルは両者の顔をちらりと思い浮かべ、まあ合わないだろうと軽く頷いた。薬学教師のホワイト――ルーク・マリガンに、「優しい笑顔で穏やかに話せ」と命じるような無理難題である。
「今のところ彼女をギルドに寄らせる気はないけど、ヴァルター殿下は興味を示すかもしれない。魔石の活用法について案をくれた一人だしね。」
「こちらは構いませんよ。祭の期間なら訪れる人も少ないでしょうし……デートスポットにしては、少々お堅いですがね。」
軽口を叩いたジェフリーをアベルがじろりと見やった。
かつて先代アーチャー公爵の部下としても勤めたこの男は当然、今のアーチャー公爵の周りにも知り合いが多いのだ。ヴァルターがシャロンに懸想している事も知っている。
「魔法大国ツイーディアの特務大臣の娘、女嫌いのヴァルター殿下が唯一惚れた公爵令嬢、おまけにルーク坊ちゃんの弟子。向こうにとっては極上の相手ですよ、殿下。」
「わかってる。」
「陛下はロベリアと上手くやっていますから、外交のカードとして重要でも必須ではないとはいえ……帝国の皇子も。意外にも現皇帝と違って停戦派と聞きました。婚姻は和平の証に丁度良いのでは。」
「あちらにその気はないよ。」
「左様ですか?」
「それに」
アベルは動揺もなく、ただ当たり前のように言った。
「彼女が他に目を向ける事はない。」
なぜなら、シャロン・アーチャーはウィルフレッド・バーナビー・レヴァインと相思相愛であるから。
二人はとうに将来を誓い合った仲であるから。
シャロンは移り気な人ではないから。
アベルは無意識に、シャツの袖口につけたアレキサンドライトのカフリンクに触れていた。
ウィルフレッドは「何年先も三人で」と言ったが、いずれ…
「殿下。男としての矜持があるのは大変素晴らしい事ですが」
何かズレた返しが来て、アベルはテーブルに投げていた視線をジェフリーに戻した。経験豊富な大人として子供に教えを説く顔をしている。
「いいですか?女心と秋の空――」
「それは男心じゃ…」
「一旦置いてください、殿下。まさかアーチャー公爵令嬢から愛の告白をされたわけではないでしょう。」
「は?」
アベルは思いきり眉を顰めてジェフリーを睨んだ。
ジェフリーが驚いたように目を見開く。
「おや、まさかあるんですか?」
「無いに決まってるでしょ。ふざけるな」
「まだなんですね、であれば――」
「まだとかいう話じゃない。ジェフリー、何の話をしてるのかな。」
「何と言われましても。殿下が、『彼女が僕以外に惚れるわけがない』と仰るので。」
「誰がいつそんな事を言った?」
「…おかしいですね……では今のはなかった事に。」
じわりと漏れ出た怒気に早々と白旗を上げ、ジェフリーは「ともかく、決めつけは危険です」と安牌な言葉を吐く。
――けど殿下。無自覚で今のが漏れたんだったら、結構どうかと思うよ~?
人脈が広い分、ジェフリーは国内外の浮気、仮面夫婦、離婚事情など多く耳にしているのだ。
男だろうと女だろうと、相手の気持ちが自分にあると過信して傲慢に振舞うのはよくない。信頼や愛情を持続させるには、互いにそれなりの誠意が必要だろう。
「ロベリアといえばテオの故郷だけど。彼はヴァルター殿下とは特に知り合いではないよね。」
「私が出張中に彼を拾ったのは、もう二十年近く前ですからね。王弟殿下はまだお生まれにもなってません。」
「拾ったのは王都の方だっけ?」
「いえ、あれは確か南東の外れだったかと。」
アベルと話しながら、そういえば街の者から相談が来ていたなとジェフリーは考える。
例年通り一年生の剣闘大会優勝者に声をかけたいが、何せ今年は王子――それも、武勇と共に悪名も名高き第二王子殿下であるから、依頼を出しづらい。出していいのか悩むと。
まだ少し機嫌を損ねたままらしい第二王子を見つめ、ジェフリーは少し冷めたコーヒーをごくりと飲み下した。
年内の更新はここまでになります。
よいお年を!




