460.貴方がいる限り
豪奢な部屋の中央に置かれたティーテーブルで女が一人、紅茶を楽しんでいる。
薄化粧で整えた肌は白く、腰まで伸ばした髪は闇を一滴溶かしたような深い青色をしている。長袖のドレスから覗く細い手首は、華奢と言えば聞こえは良いが少し不健康な印象があった。
群青色の瞳はどこともない空中を見つめている。
普段必ず彼女の傍らに置かれている子供は、今はあらかじめ命令を受けた執事と共に別の部屋で待機していた。
ノックの後、許可を待たずに開かれた扉から複数の足音が侵入する。
「お迎えに上がりました。イザベル・ニクソン公爵夫人」
まるでとても困っているかのように眉尻を下げ、騎士団長ティム・クロムウェルはそう声をかけた。
彼は肩に触れる長さの水色の髪を右側で二つに結っており、唇は微笑みの形をしているのに、眼差しには僅かの情けも感じられない。
イザベルはゆっくりカップを傾け、ソーサーの窪みに紅い泉を作った。
「ティータイムの最中に恐縮ですが、我々とご同行願えますか。」
「ふふ」
クロスに染みがつくのも構わずにカップをテーブルへ置き、イザベルはようやっと騎士達に目を向ける。夫であるジョシュアに近しい水色の瞳と目が合った。
「そう。あの方は、お前が入る事を許可したの。」
角砂糖を一つ泉の中央に落とし、紅茶を吸ったそれをティースプーンでぐしゃりと押し潰す。
そのまま円を描くように動かせばざりざりと音がした。イザベルは削れて溶けていく砂糖を、見ている。愉悦とも嘲りともつかぬ笑みを浮かべて。
「そんなに嫌だったのね。」
「貴女には第一級危険薬物の取締法違反を始め、十一の嫌疑がかけられており…」
「お前達、《ジョーカー》はこの館のどこにあると思って?」
核心を突くその名を告げられ、騎士達に僅かな動揺が走る。彼女自ら言い出すとは思わなかったからだ。クロムウェルだけは一切顔色を変えずにイザベルを見据えている。
彼女は笑って自分の唇を指し、指先は喉を通り腹部へと流れた。
まるで、飲み下したとでも言うように。
「ハッタリですね。貴女が飲んで何の意味が?」
「意味。ふ……ふふ、ふ」
口元に片手をかざし、イザベルはいかにも可笑しそうに背を曲げて笑う。肩を揺らして、ちらりと歯を見せて、笑う。
今にも折れそうに儚い手をテーブルにつき、彼女は立ち上がった。群青色の瞳はどこを見ているのか、いまいち焦点が定まっていないようにも見える。
「私がどこに意味を、何に価値を見出しているか、お前達にわかるとでも?可笑しいわ」
――あの方にすら、わからないのに。
イザベルはこの屋敷で、この部屋で過ごすのはもう終わりだと理解していた。二度と戻る事はないだろう。近い内に自分は命を落とす。
誰かの声が聞こえたように振り返り、彼女はカーテンの閉まった窓を見た。
「まぁ……お帰りなさいませ、閣下。ふふ、私を見届けにいらしたのですか。」
主人を迎える貞淑な妻のように、礼の姿勢を取る。冬に備えた厚手のカーテンは揺らぐ事なく、窓ガラスの向こうにはきっと、誰もいない。
クロムウェルは手振りで指示を出した。浅葱色の髪の少女――否、八番隊副隊長ピューが黙って頷く。
イザベルが姿勢を戻すと、紺色の長髪に水色の瞳をした夫の姿が目に浮かんだ。耳にはかつて聞いた声が蘇る。
『…やってくれましたね。イザベル』
どういうつもりだと詰る声が聞こえた。
イザベルは認めない。自分はそんな事していないと言った。ジョシュアは聞き入れない。一切触れてくれなくなった。顔を合わせる事も言葉を交わす事もろくにない。
そうしてあのこどもがやってきた。
イザベルは認めない。
ジョシュアはもう彼女には何も聞かなかった。会話が無意味と判じられた。孤独を埋めるように酒に手を伸ばした日もあった。受け入れられない過ちを犯し、頼るもののないイザベルは可愛い大事なサディアスをひたすらにひたすらに愛した。
そうして。
ニクソン公爵夫人は振り返り、歪な目をして美しく微笑んだ。
一言の宣言もなく、部屋の随所に火球が現れる。
ちょうど人の頭ほどの大きさがあるそれは一瞬の収縮を見せた直後に破裂し、飛び散る炎と衝撃波がビリビリと屋敷を揺らした。
部屋の壁床や家具、それにイザベルと騎士達も、それぞれがいつの間にか水で作られた壁――否、盾に囲まれている。
ピューが《硬性付与》した頑丈な水の盾を別の騎士が光の魔法で目くらまししていたのだ。騎士達が入室した時には既に、水の盾は彼らの上に浮かせて待機していた。
「あはは…あはははははは!!」
術者の精神を表すように強弱入り乱れ、炎は立て続けに現れては破裂する。喉をそらし、天を仰いでイザベルは笑っていた。自身が騎士の作った盾に囲まれている事さえ気にした様子はない。
――盾の内側に魔法を発動させられない…あの男が何かしているのね。最初から逃げる気もないのだから、もう、何だっていいけれど。
全てを放棄する高揚感に頬は色付き、艶やかな髪が熱を帯びてハラリと広がる。
一人で踊るようなその姿から目を離さないまま、クロムウェルは淡々と問いかけた。
「ピュー。まだいけるね」
「おうともさ!こんくらいの暴走じゃあたしの盾は壊せな」
一メートルはあろうかという火球が二つ同時に現れ、ドガンと爆音を立てて屋敷を揺らす。小柄なピューはバランスを崩しつつも持ちこたえて叫んだ。
「――前言撤回、二十秒内!急ぎな、ラムリー!!」
「っはい、充分で~す。」
後方で一人の女性騎士が声を上げる。
胡桃色の巻き毛をリボンで結って体の前へ流した彼女は《粘性付与》の使い手だ。正確な位置に魔法を発動するため、イザベルの暴走が始まってからずっと集中を続けていた。額に滲んだ汗が顎へと伝う。ラムリーが人差し指を振った。
「…今、発動~っ!」
笑うイザベルをぶよぶよとした質感の水が拘束し、全身を取り込んで空中へ持ち上げた。それでも炎の出現は止まらない。イザベルは焦った様子もなく優雅に水中で扇子を開き、鼻と口元を隠した。
水の向こう、盾の向こう、クロムウェルや騎士達のさらに向こう。
開いた扉の奥、廊下に立つ人物を見て微笑んだ。
――貴方がいる限り、私の勝ちは変わらない。
こぽり、最後の空気が唇から漏れる。
許容量を超えた魔力の行使はイザベルの頭に焼き付くような痛みをもたらしていた。魔力が枯渇してなおも強引に発動すれば、身体が悲鳴を上げるのは当然の事だ。
窒息の苦しみが重なり頭が重くなる。
本能は「助けて」ともがきたがっているが、イザベルはそれを許さなかった。
イザベル・ニクソンは鼻や口から空気を漏らす様を他人に見せる事なく、醜く足掻くでもなく、意図を悟られる事なく、華々しく強烈な炎を魅せて捕われるのだ。
泥のような水中を気泡がゆっくりゆっくりと浮上していく。
すべき事を終えたイザベルは目を閉じ、扇子の裏で皮肉げに笑って意識を手放した。
「イザベル・ニクソン、確保完了したそうだ。」
窓辺に飛来した水の鳥から受け取った文書を読み、特務大臣エリオット・アーチャーが言う。
短く整えた銀髪に銀色の瞳。
凛々しい眉を顰めた彼が見やった先では、国王ギルバート・イーノック・レヴァインが執務机に向かっている。
「そうか。」
ギルバートは短く、ただそれだけ返した。
少し癖のある金の長髪はいつも通り左だけ耳にかけて背中へ流し、煌めく金の瞳は穏やかなのにどこか冷淡な光も宿している。彫刻のように完璧に整った顔立ちは勿論、ペンを置く指先ひとつに至るまで全てが美しい。
「《ジョーカー》は騎士が来る前に自ら飲んだと証言した。暴走を起こした姿を俺の部下も確認している。」
「…妙な話だな。」
長い睫毛を重ね合わせ、ギルバートは思案する。
イザベルは今日騎士が突入する事をいつ、誰から聞いたのか。情報を入手したにせよ、子供を隔離した際に気付いたにせよ。時間と金をかけて手に入れた薬を本人が飲んで何になると言うのか。
あるいは、誰かに依頼されて用意した物だったのか。
しかしそれらしい薬が屋敷から持ち出された形跡はなく、監視していた騎士によれば怪しい人物の出入りもなかった。
ギルバートはエリオットと目を合わせて続ける。
「そもそも、余程ロベリアから内情が漏れていない限りは、《ジョーカー》の効果が出るタイミングなど知らないはずだな。突入直後に暴走とは、偶然にしては些かちょうど良すぎる。」
「ああ、クロムウェル達も信じてはいないようだ。しかし宣言を唱えずに威力の高い魔法を連発した事などから、魔力暴走を起こしたのは確実だと。薬については捜索を続けているが、まだ……特に隠し部屋などは、ジョシュアが立ち会わねば難しいだろう。」
妻が逮捕される時に夫が何をしているかと言えば、急遽組み直す事となった魔獣討伐資格試験の内容について、各ギルドへの指示書を作成していた。
初回試験が今週末に迫っているというのに、これまでとは変質した魔獣が発見されたのだ。討伐にあたっての基礎知識に入れておくべき内容である。
ギルバートも国民や各領主にどのような触書を出すかという議案書に目を通していたところだ。机の上で軽く手を組み、重く息を吐き出す。
「……いっそ、本当に使ったのであれば懸念も少しは晴れるんだが。《催眠剤》の行方もわかっていない。」
「そうだな…パーキンズが情報を持っていれば良かったが。」
眉間に皺を寄せてエリオットが頷いた。
かつて学園で二人に《薬学》《植物学》を教えていた元教師の薬師、ジョディ・パーキンズ。
夜教の依頼を受けた彼女はヘデラ王国原産の花シノレネを使い、ツイーディアでは禁止されている《催眠剤》の元となる原液を調合した。しかしその先はさほど腕のない薬師でも扱える範疇の長期保管作業。年明けまではかかるだろう作業は他でやると別の場所へ運ばれ、行方は知らなかったのである。
パーキンズを確保したのは夜教の支部だが、彼女に依頼を持ちかけたという魔塔の元職員であり《ゲート》のスキルを持つ男もまた、見つかっていない。
自白剤を使われたパーキンズは、《催眠剤》の単語に反応して自分の過去の罪をも暴露した。
王立学園にいた頃、男爵令嬢ヴェラ・シートンにその薬を使ってギルバートと恋仲であると思い込ませたこと。それによって公爵令嬢セリーナ・マリガンを害するよう誘導したこと。
修道院送りになったヴェラの催眠が解ける前に毒殺しようとしたが、彼女が失踪していてできなかったこと。
王立学園の教師が生徒を害したなどとんだ醜聞である。
しかし三十年近く昔のこと、当時の学園長である先代ドレーク公爵はとうに亡くなり、被害者ヴェラ・シートンも、約一年前に起きた王妃暗殺未遂に関与した罪でもういない。
パーキンズの今回の罪を明確にした上で、今の王立学園に批判が飛ばぬよう気を付けて処理するしかないだろう。
――当時俺達は皆、ヴェラ・シートンを妄想癖だと決めつけていた。……読み切れないものだな。
ギルバートは小さくため息をついた。
周囲には「完璧な王」と讃える者も多いが、自分は完璧な人間ではない。全ての犯罪が防がれ、何もかもが平穏に栄える国もまたありえない。
今考えるべきは過去ではなく、現状であり未来だ。
気を切り替えねばと椅子に座り直し、「そういえば」と金の瞳を親友へ向ける。
「その目の下のクマはどうしたんだ、エリオット。」
「何でもない。」
「シャロン嬢の婚約者候補リストなら、十名消して二名にしておいたぞ」
「どうしてお前が持ってる!?」
ぺらり、平然と差し出された書類をエリオットが慌てて奪い取った。
ギルバートの言った通りリストの殆どには打ち消し線が引かれ、王妃セリーナの承認印が添えられている。これは妻ディアドラ経由で渡ったに違いなかった。
「五公爵家から三人、帝国の皇子にロベリアの王弟、学生はアシュクロフトとワーズワースの息子に、成人は近衛のクィンラン、お前の部下のライル、一人年下が魔塔の天才児――…本人が親しい相手も公爵家の利も交えた、実にお前らしい候補だ。」
「まだシャロンに見せる気はない!あくまで参考として挙げただけだ。」
「わかっているさ。そのリストになら俺の承認印も押してやるが、どうだ?」
にこりと美しく微笑まれ、エリオットは思わず一歩後ずさる。
リストにはツイーディアの王子二人だけが残っていた。




