459.会うべき相手
「んへっ…ぬへへへへ……」
「殿下。顔がやばいです」
「ふひ…」
「殿下」
今日だけでも幾度目かの注意を受け、ロズリーヌはだらしなく緩んでいた頬を両手でパムッと押さえた。頬肉がむにりとしただけで、にやついた口元や陶酔した眼差しはまったく抑えられていない。
剣闘大会から数日経ってなおこの状態な王女は完全に不審者であるため、従者ラウルは彼女をせっせと人が少ない裏庭に設置された東屋の一つに連れ出したところだ。
食堂で用意してもらったティーセットをトレイからテーブルへ移していく。
「だぁってラウル、みっ、見ましたか表彰式のキャー!」
「どれの事かわかりませんが、見ました。」
「シャロン様のお手を取ってエスコートする、紳士然としたアベル殿下…わたくし一瞬、あの舞台が教会を出た後の花道のように見えましたわ……」
「幻覚ですね。卒倒された際に記憶が混濁したのでしょう」
「んふふふ…ラウル、あの時は起こしてくれてありがとう。」
ポットからティーカップへ注がれる黄蘗色の液体から湯気が立った。
今日も今日とて、精神を落ち着かせる作用のあるハーブティーである。効いているかは不明だ。
「はぁあ~そしてあの、舞台上で…向かい合って誓いのキ」
「祝福の口付け」
「それですわ、学園長先生ったらもう!もうっ!わたくしの期待値を百億パーセンテージMAXハートにしておきながら!」
「何ですって?」
「とっても、という意味ですわ。」
「わかりました。飲んでください」
ラウルに勧められ、ロズリーヌは大人しくハーブティーを啜った。普段なら少しばかり「あちち」と言いそうな勢いの飲み方だったが、気にならないのかほっと息を吐いてうっとりと空中を見上げている。
「頬を赤らめたシャロン様の微笑み…あれにはさすがの殿下も胸を撃ち抜かれたのではなくて……?」
「あの方は顔色一つ変えてなかったように見えましたが。」
「ラウル、心の目ですわ!心眼!」
「シンガン?」
白けた目で聞き返すラウルに大きく頷き、ロズリーヌは背筋を伸ばして胸に手をあててみせる。
「わたくしの王女アイズをもってすれば…ほら、見えますわ聞こえますわお二人の声が……よいですかラウル、きっとこう言っていたのです。」
『優勝おめでとう、アベル。剣技だけじゃない、貴方の心の強さもすべて尊敬しているわ。…こうして隣に立てたこと、本当に嬉しく思います。』
『お前が見ていると思うと力が湧いた。尊敬しているのはこちらも同じだ。……これからも、俺の隣にいてほしい。』
「なんてなんてッキィヤァアーーー!」
「殿下。耳が壊れそうです」
ロズリーヌはついテーブルをペペペペンと叩いてカップを騒がせた。
シャロンの「~だけじゃない、貴女の心の強さも尊敬しているわ」とは、ゲームでカレンとの別れ際に告げられるセリフだ。
また、アベルの「これからも俺の傍にいてほしい」は正規エンドのセリフである。
「ふにっ、ふのほほほ…!」
「どういう笑い方ですか……ん?」
誰かが走ってくる足音が聞こえ、ラウルはそちらに目を移した。
つられてロズリーヌもぱちりと瞬き視線をやれば、僅かに髪を乱したサディアスが二人を見て足を止める。
一緒にいたのだろう、すぐ後ろから現れたネイト・エンジェルはロズリーヌに気付くや否や頭を下げて控えた。彼はまだ左目にガーゼをつけている。
「さ、サディたん様!?間違えました、サディアス様!」
「……?王女殿下におかれましては…ご機嫌麗しく。」
「はい!ご機嫌ようございますわっ!とっても!」
元気よく返事した王女殿下から目を離し、水色の瞳が周囲を見渡した。東屋で呑気に着席するロズリーヌとラウル以外、人の気配はないようだ。
サディアスはやや呆れ気味に眉を顰める。
「悲鳴が聞こえたようですが、いつもの発作ですか?」
「はい。」
「あ!すみませんサディアス様、わたくしつい!つい興奮して『きぃやぁ』と!」
「何事もないなら構いません。邪魔してしまったようですね。失礼しま」
「せんっ、先日の剣闘大会!」
踵を返そうとしたサディアスに、ロズリーヌは反射的に立ち上がった。
王女に引き止められて無視はしない。サディアスが続きを待つようにロズリーヌを見る。
「わたくし見ていました、お見事でしたわ!サディアス様は流れるような、こう、美しい体捌きで!うへっ、おっと失礼、じゅるり…」
「………。」
「殿下。ドン引かれてます。」
「とにかく素敵でしたわーっ!それだけですっ!はい!さようなら!!」
お仕事の邪魔はしませんとばかりブンブン手を振る王女殿下に、サディアスは困惑しきりの顔ながら「ありがとうございます」と返し、一礼して立ち去った。
「……サディアス様、そのうち食いつかれそうですね。」
「やめてください、ネイト。」
夕食も入浴も済ませた夜のこと、ウィルフレッドは思案顔で自室の机に向かっていた。
温かい室内とあって上着もなくシャツのボタンを一つ開けたラフな格好で、まだ少し水気を含む金髪は結わずに背中へ流している。長い睫毛が青い瞳に影を落とし、形のよい薄い唇が微笑む事はない。
ウィルフレッドは黙々と積み上げた本や資料に目を通していたが、部屋の扉がノックされるとようやく視線を上げた。廊下から聞き慣れた声がする。
「ウィルフレッド様、サディアスです。只今参りました」
「ああ…入ってくれ。」
もうそんな時間かと壁に掛けられた時計を見やると、ウィルフレッドが指定した時刻から秒針が少し動いた程度。いつも通り時間ちょうどにノックしたのだろう、彼らしい几帳面な訪問だ。
「失礼します。」
部屋に入ったサディアスはウィルフレッドから少し離れた位置で止まり、胸に片手をあてて礼をする。紺色の短髪がさらりと揺れた。
黒縁眼鏡の奥、水色の瞳は静かだった。心が凪いで落ち着いているというより、覚悟して待つような。何の話で呼ばれたか、おおよその見当はついているのだろう。
ウィルフレッドは薄く微笑んで口を開いた。
「明日、イザベル・ニクソンを捕えるよ。その後どうなるかは未定だけど」
サディアスの母親の名だ。
ウィルフレッドは動揺した様子のない従者から目を離し、「公爵はきちんと伝えていたんだな」と続ける。
互いに、相手がいつそれを知ったのか知らなかった。
公爵家から、城から。報せを受けたのはつい先程か、昨日の事なのか。
魔力増強剤《ジョーカー》はニクソン公爵夫人の手に渡った。
薬師ジョディ・パーキンズが完成させた物が王都へ運ばれ、夫人の侍女が受け取った所まで確認されている。五公爵家の一角に嫁いだ身でありながら、彼女はそんな物に手を出した。まだ公になっていないとはいえ、ニクソン家の名を貶める行いだ。公爵が許す事はないだろう。
机の上で軽く手を組んだ第一王子の横顔を見つめ、サディアスは感情を込めず平坦な声で返した。
「――恐らく、死刑かと。」
「そうかもしれないね。」
ウィルフレッドには戸惑う様子もサディアスを心配する様子もなく、その声に躊躇いや気まずさも感じられなかった。
まるで、イザベル・ニクソンが死ぬ事について何とも思っていないかのようだ。
――以前の私なら、貴方がそう返す事を訝しんだでしょう。
「君の母親なのに」とでも言いそうだと。
しかし第一王子は、世間で思われるような「お優しい」だけの方ではない。
そんな事、今のサディアスはとっくに知っていた。
純真で全てに優しいようでいてその実、敵と定めた者には容赦しない。
これまでは直接手を下すから、機会があったから、噂も敢えて流したから、アベルの方が冷酷だと言われていただけで。
ジャッキー・クレヴァリーもダリア・スペンサーも、シャロンが許したから見逃されただけだ。
「もしそれまでに王都へ行きたいなら、許可を出すけど……どうする?」
サディアスの顔を見ることなく、どちらでもよいとでも言いたげにウィルフレッドが聞く。
すぐには返事ができなかった。
喜んでと言うような話ではないし、えぇ是非と厭味ったらしく口角を上げるような話でもない。サディアスは少しの間目を伏せ、床に敷かれた絨毯を見つめた。
――私があの女に会う、最後の機会になるだろう。
会いたいと思えるような母ではなかった。
言葉を交わしたい相手ではなかった。
視界に入れたい人ではなかった。
対面せずにいられるなら、どれだけ良いだろう。
しかし。
「……きっと、会うべきなのでしょうね。」
静かな声で呟いて、サディアスは姿勢を正す。
ウィルフレッドは少しだけ笑みを深め、肯定も否定もしなかった。これは本人が決める事だから。
「刑が下る前に一度だけ、話す機会を頂きたく思います。監視は秘匿に問題ない人物で。」
「わかった。俺からも依頼しておこう」
「ありがとうございます。」
改めて丁寧に頭を下げたサディアスに、ウィルフレッドは相手が見ていないと知りながら小さく頷きを返す。
「明日で薬が回収できるといいな。」
「……はい。」
それが叶えば《先読み》された未来――サディアスが魔力暴走を起こす未来は、回避できるかもしれない。
ジョーカーは遅効性で無味無臭。ほぼ確実に魔力の暴走を起こし、錯乱および幻覚症状をもたらす薬だ。禁止薬物のため事例が少なく情報が限られていたが、ホワイトが書き綴ってよこしたノートによって、ツイーディア王家はロベリア王国が秘匿していた実験記録を手に入れていた。
効果が出るのは服用して一時間から二時間。
暴走する瞬間には頭部への熱感と強力な幻覚が発現するらしい。見えるものは漠然とした心象風景から実在する個人まで多様だと。
――君の目には、何が見えるんだろうね。
たとえ先に「幻覚を見る可能性がある」とわかっていても、作用に「錯乱」まであっては冷静で居続ける事は難しいだろう。
病になる前は溺愛されていたはずの母イザベルから、母子とは思えない扱いを受けていたサディアス。
画家ガブリエル・ウェイバリーの問いかけで魔力暴走を起こしたサディアス。
『ボクは彼が誰なのか聞いただけだよ。フラヴィオはサディアス・ニクソンと間違えていたけど。』
精神を揺らがせる原因があるのなら、事件より早く潰しておいてほしい。
ウィルフレッドは優秀な人間を手放したくないけれど、それ以上にアベルを喪う気などないのだ。目の前の従者を見つめながら、脳裏には彼と初めて会った日が思い起こされる。
『お初にお目にかかります、第一王子殿下、第二王子殿下。ニクソン公爵家長男、サディアスと申します。』
ジョシュア・ニクソン公爵と同じ紺色の髪、水色の瞳。
当代のニクソン家にはサディアスしか嫡男がいない。幾つか下の異父弟が一人いるらしいが、ウィルフレッドは会った事がなく、書面でしか知らなかった。
まだ、サディアスは己の事情を明かさない。
このまま黙って事件が予想された時期を迎えるくらいなら、その前に問い質す必要もあるだろう。懸念点は調べて然るべきだ。
できれば、イザベルとの関係に決着をつけて自ら話してほしい所だが。
そう思案しながら、ウィルフレッドは柔らかな笑みを浮かべている。
「そちらの片が付くのはまだ先だろう。まずは来週と、再来週の女神祭を上手く乗り切らなければね。」
ウィルフレッドとアベルを「俺の義弟になるか」と誘った帝国の皇子。
シャロンの絵姿に一目惚れしたというロベリアの王子――否、王弟。
改心した様子だが彼のトラウマであるヘデラの王女。
兄を探してやってくる君影国の姫。
ツイーディアを囲う六つの隣国のうち四つの王族が集まる。何も起きずに終われというのは少々無理がありそうな面子だ。
水色の瞳と目を合わせ、ウィルフレッドは微笑んだ。
「頼りにしているよ。サディアス」
活動報告に、年明けに参加するイベントについて載せております。
書き下ろしを加えた「剣聖王妃」を新刊として持っていきますので、よしなに!




