45.リビー・エッカートの幸せな一日:昼
アベルが出掛けるまでに一時間を要した。
リビーがゴネたからだ。
「うっ…うぅっ……」
「早く行くぞ。」
足取りの重いリビーを置き去りに、アベルはすたすたと歩いている。
下級貴族の子息らしい、庶民の衣服よりは少し質の良いシャツとベストを着て、細身のズボンに革靴を合わせている。剣は鍔の意匠を柄ごと薄い布で巻いて隠し、鞘ごと覆える革袋に入れた上で帯剣用のベルトに固定していた。
どうやら貴族の子息の中には、第二王子の噂を聞いて剣や短剣を――質や本人の腕はどうあれ――外で持ち歩く者が出始めたらしい。
アベルにとっては出歩きやすくて助かる話であった。
「お、お待ちを…こんな格好ではとても……」
主君に出発されては後を追わざるを得ない。リビーは泣き言を言いながらその後に続き、彼のすぐ斜め後ろについて歩き始めた。
その格好は袖と襟にフリルのついた白いブラウスに、紺色のシフォンスカート。足首までの編み上げブーツに、長い黒髪は侍女達の手でゆるい三つ編みを施されていた。普段つけている口元の布がないため、不安そうにハンカチを口の前にかざしている。
さすがにこの服装で剣を持つと目立つので、リビーの剣は紐のついた細長い布袋に入れ、外目からわからないように詰め物もして肩から下げていた。
同じ黒髪で、貴族の子息らしき少年(十二歳)と、気弱そうな女性(十九歳)。
見るからに「深窓の令嬢を連れ回す弟」の図だった。
「背筋を伸ばして歩け。」
「し、しかし…」
「何も恥じる事はないだろう、姉上?」
「ぐぁあッ!」
ロイがいたら止めてくれたのだろうか、まともに被弾したリビーが数歩後退した。
かろうじて片方の足で踏ん張り、気絶も転倒も回避したようである。姉弟設定で行くと話された時にすでに一度失神したお陰かもしれない。
幸いにもまだ城からの抜け道であり、辺りには誰もいない。
立ち止まったアベルは数秒だけ回復を待ってくれた。リビーがよろよろと体勢を立て直す。
「僕はアンソニー・ノーサム、お前はリリアン・ノーサム、子爵家。覚えているな?」
「は、はい。」
「僕を呼ぶ時は?」
「…アンソニー様です。」
「様をつけるな。」
「うぅっ……」
せめてもの情けで「誰に対しても敬語を使う」という設定にされていたが、リビーにとってアベルを、たとえ偽名でも呼び捨てにする事は抵抗がある。
――だが、任務だ!命令だ!遂行しなくては……か、仮にとはいえアベル様と姉弟…ふっ、ふふふ…駄目だ幸せが過ぎる!!や、やはり侍女という設定に…
「…リビー、この程度をできないとは言わせない。お前は俺の騎士だ」
「――っ!」
金色の瞳に真っ直ぐ見つめられ、心臓を射抜くような言葉にリビーは目を見開いた。
期待であり、信頼。
「できるな?」
そんな言い方をされて、やっぱりできません、などと答える騎士はいない。即座にその場で跪き、リビーは真剣な目でアベルを見上げた。
「御心のままに。我が君」
「その格好で跪くな。」
「あっ」
スカートについた土を払い、リビーはアベルと共に馬車に乗って街へ到着した。
既に日は高く上り、昼食のために飲食店が開き始めた頃合いである。着慣れない服で歩くリビーは、所在なさげにおろおろと――しなかった。
人が多い。何せ人が多い。
それも全員が見知らぬ他人であり、パーティーにやってくる貴族とは違い身元も不明の者ばかりで、自分達をじろじろと盗み見てくる。
こんな状況でもアベルは普段から一人歩きしているわけだが、本当は必ず自分かロイを連れていってほしいとリビーは思っている。
今日はせっかく護衛できる日なので、当然、ハンカチを口元にかざすなどという愚かな行為で自らの片手を塞ぎはしなかった。
いつ何時誰が襲い掛かってこようと敵を下し、アベルを守る。それこそがリビーの最優先事項である。
「姉上、周りを睨むのはどうかと思うよ」
「はいっ!?」
再びの姉上呼びの衝撃で、滲みだしていた「近付くなオーラ」が霧散した。
通行人達が歩みを止めずともどこかほっとした様子なのは、どこぞのご令嬢がなぜかものすごく怒った顔で睨みつけてきたからに他ならない。
今の自分は騎士である事を隠しているのだから、安易に警戒心を露わにしてはならない。
リビーは慌てて通行人に向けてぎこちない会釈をした。ちなみに普段する必要がないため、作り笑いは下手である。
「申しわ…ごめんなさい、アンソニー…」
――さま。
リビーは心の中で敬称を付け足した。
流石のアベルもそこまで気付く事はなく、「それでいい」とばかりに頷いた。
「いいよ、行こう。」
煉瓦道を歩き、アベルはとある店へ入る。
予想外の行先にリビーは僅かに首を傾げたものの、市街地の視察の一環であろうと深く考えずに後から続いた。
「いらっしゃいませ。」
女性の店員がにこやかに二人を出迎える。
棚に並ぶのは宝石を加工して作られたアクセサリーの数々。指輪にネックレス、ブレスレット、ピアス、イヤリング、髪留めなどなど、かなりの数が並んでいた。
貴族向けの店らしく高級感のある広い店内で、よく見ると値段はピンキリだ。富裕層の平民や下級貴族達も来やすいようにしているのだろう。
「姉上、何がいい?」
「はい…?」
唐突な言葉の意味を理解できずアベルを見ると、彼はじっとリビーを見上げていた。
「今回の祝いは何がいい?たまには僕から贈るよ」
「……な、そ、そのようなこと…」
さすがにこの状況で意識を飛ばすわけにはいかなかった。
リビーはあんぐりと開けてしまった口の前に手をかざし、困惑して視線を彷徨わせる。アベルが何を言っているかはわかった。「買ってやるから何か選べ」という事だ。
既に、「一日一緒にいたい」などという我儘を叶えてくれているというのに。
「年上の兄上にもだ。使うか知らないけど」
「私は、その…既に贈り物を頂いていますから。」
「欲がなさ過ぎるでしょ。いいから選びなよ。他の店でもいいけど」
「う…」
アベルの発言で店員がソワソワしている。
しかし「ロイにも買う」という事は、僅かながらリビーの心を軽くした。まだ彼が願いを伝えていない今、自分ばかりが貰ってしまうのは気が引けるからだ。
「で、出来合いの物以外にも、石からもお作りできますよ!」
店員が営業をかけてきた。
アベルの態度から、この店の価格帯を見た上で「ある程度金を落とす気がある客」と見たらしい。有無を言わさずこちらへこちらへとリビーを店の中央にあるカウンターへ案内する。
彼女が出してきた薄いケースの中には、取り扱っている宝石一粒ずつの横に石言葉を書いたカードを並べてあった。
リビーがそれをじっと眺めている間に、アベルは店内を歩く。選ぶ気にさえなってくれれば、価格は関係ない。彼女が集中しやすいように、あえてその視界に入る場所でだけ商品を見ていると、結婚指輪や婚約指輪が並んでいた。アベルにとっては用のないコーナーである。
『俺と、結婚してくれる?』
『いいわよ?』
「――…。」
何年も昔の事だが、未だ記憶に残る声。
その懐かしさに数秒目を細めてから、そろそろ終わったかとリビーを振り返った。カウンターの上で落ち着きなく指先を合わせてこちらを見ている。
何か言いたげな雰囲気を察して戻ってやると、店員がにっこり笑ってリビーに見せていた一覧を差し出し、石言葉を指差した。
「お姉様はこちらを選ばれましたよ。」
それはピンクがかった朱色をしていて、けれどサファイアの一種だった。
石言葉は「一途な愛」「信頼」「運命的な出会い」。
円形のプレートに三日月を彫り、欠けた部分にその石をはめこんだペンダントを、二つ。
「いい、でしょうか…。」
「もちろん。」
月のデザインはリビーが選ぶものとしては意外だったが、騎士としては珍しくない。騎士団の教えが気に入ったかと、そう思いながらアベルは頷いた。
本人は無意識だが、こちらを見守るような柔らかい微笑みを浮かべていて、リビーは咄嗟に胸を押さえた。心臓が止まったら困るからだ。
支払いを終え、受取日を確認して二人は店を出た。
貴族向けのレストランに入って昼食をとる。周りに人がいるとはいえ、アベルと二人だけで食事をする事など人生で初めてだったリビーはガチガチに緊張して味がまったくわからなかった。
味わうよりも食事中のアベルの観察で忙しい。普段は同じ部屋にいても後方控えなので、見る事ができない姿なのだ。
――食事中は生物が無防備になると言われているが、このお方においては今そこのウェイターにナイフを持って襲い掛かられたとしても容易く制してしまうのだろう。いやもちろんその前に私がウェイターを仕留める、なぜならアベル様は護衛騎士を信じてくださっている、自分が手を下さずともよい部分はお任せくださるのだ。私もその期待に必ず応えなくてはならない。それにしてもこうして見るとやはりまだ十二歳であらせられるから、手指は細く口も小さく、中に見える歯も舌も小さくなんと可愛らし…不敬だぞリビー・エッカート、お姿を拝見する許可を頂けているだけで身に余る幸福だというのに。だというのに私はお守りする役目まで与えられている!ううう絶対に守る、この身に代えてもなんとしてもお守り致しますアベル様、あぁ我が君…今日もこの世の至宝の如く輝いておられる……
「………。」
尋常ならざるほど見つめられている事に気付きながら、あえて指摘せずそのままにしてやるアベルだった。いちいち気にしていたらリビーの主は務まらない。
可哀想な事に、一瞬だけ殺気を向けられたウェイターはぶるっと身体を震わせて周囲を見回していたが。
食事を終えて店を出た二人は、ちらりと顔を見合わせてから予定外の方向へ歩き出した。
道に迷ったかのように行ったり来たりし、店などなさそうな入り組んだ路地へと入ってしまう。メインストリートから離れ、下町にたどり着くほどではないにしろ、人通りの少ない場所へ向かう。
井戸のある小さめの広場に出たところで、「やっぱり引き返しましょうか」と立ち止まった。
「こんにちは、お嬢さん。」
踵を返した二人の前に、にこにこと笑みを浮かべた男が現れた。
アベル達が通って来た小道から、後に続くように五人が、広場から伸びた複数の道からもそれぞれ二人がぞろぞろと出てきて逃げ場を失わせる。十二名、全員が見せつけるように短剣やナイフ、棍棒などを手にしていた。
「道に迷ったのかな?」
「引き返すところです。案内なら結構。」
弟を庇う姉を見て、男はにんまりと笑みを深めた。
姉が荷物から護身用らしき剣を二本出したが、普通の物より細身だし、まさかの鞘に納めたまま両手に剣を握る阿呆っぷりだった。それではただの棒だ。
「ちょぉ~っと金目の物を置いてってくれないかな?財布も荷物も服も…体も全部。」
「抵抗しないでね~こっち魔力持ちいるから。」
男達にとって、相手が子供を連れている時点で有利であるし、数人いれば済むところを慎重すぎるほどの人数でやっているのだ。それは騒がれる前に口を塞ぐためであり、また通行人が現れた場合に一部は自分達も通りすがりだと言って誤魔化す役に回る。
「さ、こっちへ来てもらおブッ!!」
最初に話しかけてきた男の顎にリビーの靴底がヒットした。
ぽかん、とそれを見つめる男達のうち、立て続けに二人を鞘に納めたままの剣で殴りつける。狙うのは頭だ。脳を揺らして立て直しを遅らせる。
「なっ…」
「宣言!風よ吹け、あの女の動きをとボゴァッ!!」
唱え始めた時点で方向転換して地面を蹴り、魔力持ちの腹に鞘を突きこむ。宣言の途中で倒してしまえば何も問題はない。後方にあった壁まで飛んだ男は後頭部を打ち付けて黙り込んだ。
リビーはその間にも流れるような動きで一人に回し蹴りを食らわせ、その隙を突こうとした一人の剣を薙ぎ払って鞘で殴りつける。
「が、ガキを狙えぇ!」
そう言われる前から残りは武器を振りかざしてアベルに飛び掛かっていたのだが、
「ぎゃぁあ!」
「ぐぁあ!」
近場にいた二人は腕を切りつけられた事でそれぞれの武器を取り落とし、痛みに思わず地団駄を踏む。その隙に一人がリビーの飛び蹴りを食らい、一人が地面を蹴ったアベルを見失い、直後後頭部に踵落としを食らって倒れた。
「ふざけやがって!」
アベルが着地するまでの間に、リビーが投げたナイフが二人の腕に突き刺さる。
悲鳴が響く中、着地した瞬間に方向転換したアベルが残りの二人に突っ込み、相手の剣を受け流して鳩尾に柄を叩きこんでいった。当然、リビーはその間に悲鳴を上げていた二人を地面に沈めている。
「申し訳ありません、お手数を。」
「構わない。」
這いずって逃げようとしている者の意識を奪いながら、形式的なやり取りをした。
リビーとしては本心でもあるが、アベルはあの状況での傍観を好まないし、だいぶ自分に任せてくれた方だともわかっていた。アベルとしても、焼き尽くすか殺し尽くした方が早いのに、ちゃんと生け捕りに留めた騎士を叱るつもりはない。
リビーはポケットから手のひらに収まるほどの笛を取り出し、息を吸い込んだ。
吹く長さと回数で、街のどこかで見回り中だろう騎士へ状況を報せる。
《制圧完了》《十二名》《応援求む》《馬車使用不可》
ちなみに、笛の音色は何種類かある。
隊長副隊長だけが使用する物や、騎士団長、副団長。そして第二王子の護衛騎士たるリビーの音色は当然、王族警護専門の近衛騎士が使う物となる。
かくして周囲にいた騎士達は、見回りを続ける人員を残して全力疾走したのだった。




