457.仲良くなれて嬉しいよ ◆
週末の午後、ウィルフレッドはアベルと共に書類仕事と向き合っていた。
供は温かい紅茶と、シャロンが差し入れてくれた――ウィルフレッドご依頼の品である――手作りクッキー。
機械的に書類を捌きながら、アベルは相変わらずクッキーに対する感動が少ないようだ。あのシャロンが手ずから作った品だというのに。しかも今回はココア生地とバニラ生地を組み合わせた模様入りだ。
「俺が絵師なら描き残していたのに……」
「口より手を動かしてくれる。」
弟が厳しい。
きちんと手も動かしていたのだが、ウィルフレッドは大人しく口を閉じた。自分宛に届いた書類を確認し、指示を書き込んだり返信をしたためていく。
アーチャー公爵から届いた手紙では、表彰式の様子を遠回しに入念に聞かれた。
アベルにも便箋五枚ほどみっちり届いたようなので、恐らく似た内容が書かれていたはずだ。弟はさらっと一言書いただけで返信を終えたため、あれでは公爵がかえって詳細が気になるだろう事は想像に難くない。
ウィルフレッドは「大変息の合った二人であり、微笑み合う姿も見られとても良い式でした」というような事を丁寧に書いておいた。
謎の魔法が発動した珍事はあったものの、堂々としたアベルの姿が兄として大変誇らしかった事も、ヴェールをかぶったシャロンが普段にも増して綺麗だった事も。
書いている内に筆が乗り、「恐らく弟も内心では見とれていた事でしょう」と締めくくる。
「ふふ…シャロンは可愛いからな……!」
「ウィル」
端的に注意され、ウィルフレッドは「もちろんちゃんと仕事をしている」という顔で次の書類に目を落とした。
十番隊長アイザック・ブラックリーが指揮を取り、夜教の東支部に突入。
戦闘の末、軟禁状態にあった薬師ジョディ・パーキンズを保護した。《ゲート》のスキル持ち本人の発見には至らなかったが、その研究室を押さえる事に成功。筆跡鑑定の結果、予想通り三十年前に魔塔で研究資格を剥奪された男――ヒラリー・ワイマンだと判明した。
パーキンズは積極的に夜教に協力していた可能性が高く、自白剤の使用が許可された。
別の場所で《催眠剤》を制作中だと言う。《ジョーカー》は先に完成しており、運ばれた先は…
◇ ◇ ◇
見事な式だった。
アベルの優勝を祝福する盛大な魔法が打ち上げられ、伝承さながらに空は晴れ渡る。
割れんばかりの歓声と鳴りやまない拍手の中、遠い舞台上にアベルとシャロンが並び立っていた。ウィルフレッドは微笑みを張り付けて穏やかに手を叩く。
似合いの二人で、まるで完成されたようで、そこに自分が必要だとは思えなかった。
幼い頃から自分を支えてくれたシャロン。
大事な友達は遠く離れた場所で弟の隣にいて、花のような微笑みを浮かべている。昔は、それを向けられるのはウィルフレッドだったのに。
『……あれだけの魔法が演出、ですか。』
サディアスが呟いた。
ウィルフレッドも妙だとは感じていたが、彼の独り言を放置する。仮に演出じゃなければただの奇跡だ。
まるで世界がアベルを王だと認めているようではないか。
兄王子は出来損ないだと烙印を押されるようではないか。
重く暗い心をどこかに抱えたまま、生徒が減るのを待って会場を後にした。
少し一人になりたいが、サディアスからは「できません」と淡々とした声が返される。ウィルフレッドは「そうか」とだけ呟き、寮ではなく温室に向けて歩き出した。
『あの、第一王子殿下!』
ぼんやりと考え事をしながら歩くうち、聞き慣れた声に呼び止められる。
振り返ると、目立つ白髪の三つ編みを揺らしたカレン・フルードが息を切らして駆けてきた。サディアスは露骨に眉を顰めたが、ウィルフレッドは優しく声をかけて顔を上げさせる。
胸に手をあてて息を整え、カレンは赤い瞳で周囲に人気がない事を確認すると、改めて「ウィルフレッド様」と呼んだ。
『試合、とってもすごかったです!サディアス様も、皆強くてびっくりしちゃった…』
『ありがとう、カレン。』
素直な賛辞の言葉を聞きながら、ウィルフレッドは程よく相槌を打つ。
下町で初めて出会った時も、王子として知り合った今でも、カレンの言葉は真っ直ぐだった。彼女は自分を学園へ誘ったバーナビー少年が目の前の第一王子だとは、気付いていないようだけれど。
そう長く話したわけでもない刹那の出会いだ。それは仕方がない。
世にも珍しい真っ赤な瞳を見つめ、ウィルフレッドはどこか疲れた顔で微笑んだ。
『――君もそろそろ、俺をウィルと呼んでくれないか?』
『えっ?』
カレンが驚いたように目を見開く。それはサディアスも同じだった。
『ウィルフレッド様、何を――』
『俺が良いと言ってるんだ。親しい者の前でだけ…駄目か?』
『えと、その…』
平民であるカレンが第一王子に「否」と言えるわけがない。王侯貴族の事情だって最低限をシャロンに聞きかじった程度なのだから、良いか悪いかの判断基準も深くは理解していない。
助けを求めるように視線を送られ、サディアスはため息混じりに眼鏡を押し上げた。
『おやめください。シャロン様はまだしも、平民は許されない。』
『公的な場の話だろう。カレンは俺の大切な友人なんだ。』
『――…。』
子供の我儘だ、そう吐き捨てたい心を抑えてサディアスは口を閉じる。
忠告された上でなおも主張するなら、勝手にすればいい。しかめっ面のままふいと目をそらした。サディアスが納得していないために、カレンは困り顔になっている。
『い、いいのかな……』
『良いよ。俺が君にそう呼んでほしいんだ』
ウィルフレッドの青い瞳は穏やかで優しく、けれど寂しさが滲んでいた。
この場にシャロンが居てくれたら意見を聞けたのにと思いながら、カレンはおずおずと口を開く。
『じゃあ…ウィル、様?』
『様も付けなくていい。』
『えと……、ウィル。』
『うん。』
眩しい笑顔は心から嬉しそうで、カレンはきっとこれで良かったんだと思った。
後で忘れずにシャロンに相談すれば、もし本当に駄目な事なら、彼女からウィルフレッドに言ってくれるはずだ。彼女が何も言わないならきっと、友達なら、こっそり呼んでいいのだろう。
去っていくウィルフレッドとサディアスの背中を見送って、そう考えた。
『あのさ』
『ひぃっ!』
すぐ後ろから声がしてビョンと跳び上がる。
慌てて振り返るとそこにはやはり、不機嫌そうに片眉を上げるアベルがいた。
『叫ばないでくれる。』
『ご、ごめんなさい』
『…こっち。』
温室の方を軽く顎でしゃくり、彼は問答無用で歩き出した。後に続かないという選択肢は無い。
びくびくしながらついていくと、建物の中に入るのではなく壁際で急に引っぱられる。驚いて声を上げる間もなく、カレンは壁に追い詰められていた。すぐ目の前にアベルがいて反射的に俯く。
『顔を上げなよ。』
『あのっ、あの……ち、近くないかな?』
『さっきウィルと何を話してたの。』
『それは…えっと……』
『人に言えないような話でも?』
『っ!?ま、まままさか!ない、ないよっそんな…!』
カレンは慌てて否定したが、こちらを冷たく見下ろすアベルと至近距離で目が合ってつい目をそらした。微かに良い香りがする理由を考えたら負けだ。顔がじわじわと熱を持つ。
獲物を追い詰めるように、アベルはカレンの顔の横に片手をついた。さらに距離が縮まり、緊張のあまりカレンはこくりと喉を鳴らす。吐息がかかりそうな近さだ。
『じゃあ、言えるよね?』
『…っその……親しい人の前では、ウィルって…様もつけないでほしいって…』
恥じらいに目を伏せ、しどろもどろに話すカレンはアベルが目を見開いた事に気付かなかった。
敬称すらつけずに第一王子を愛称で呼ぶ。これまで家族以外でそれが許されていたのはシャロンだけだ。
――…何を考えてるんだ、ウィル。
無意識に力が入り、爪の先が僅かに壁を掻く。
アベルが言って強引にやめさせたら、ウィルフレッドはそれこそ頑なになるかもしれない。
まだマシな方へ軌道修正すべく、アベルはわざとらしいほど美しく微笑んだ。
『なら僕のことも、アベルと。』
無理です。
そう言いたいが言えないカレンは青くなって小刻みに首を横に振る。
『呼べるよね。ほら、言ってみなよ。』
『あ、ああ、アベル様、あのっ』
アベルが軽く腕を曲げ、さらに距離が縮まった。
同時に顎へ指を掛けられてカレンの息が止まる。顎を持ち上げるためにしては位置が深く、指の関節が喉にまで触れていて――軽く押し付けられたそれは、どう考えても脅しだった。
金色の瞳は優しさの欠片もなくカレンを見据えている。
『アベルだ。』
『っあ…アベル……』
心臓が早鐘のように鳴るのは恐怖か羞恥か。
喘ぐように呼んだカレンに、アベルは軽く頷いて一歩離れた。カレンは横歩きで移動しつつどきどきする胸を押さえ、呼吸を整える。
第二王子殿下は優しそうに微笑んでいた。
『…君と仲良くなれて嬉しいよ。カレン』
『私も…嬉しい、よ。アベル』
『それでいい』
一瞬で笑みを消し、命令のように言い捨てたアベルはカレンを置いて歩き出す。
ふとコロシアムとの境に植わった木立を見やれば、いつの間にかシャロンが佇んでいた。コロシアム側から遠目に二人を見かけ、揉めていると思って駆け付けようとしたのだろうか。
戸惑ってはいるが怒ってないと見て、アベルは視線を前へ戻す。誰に呼び止められる事もなくその場を後にした。
『あぁ、びっくりした…』
木立にシャロンがいるとは気付かず、カレンは大きく深呼吸をしてから服の背中やお尻を軽くはたく。壁が見るからに汚れていたわけではないが、王子殿下に壁まで追い詰められた動揺を落ち着かせるためだ。
ウィルフレッドにアベルと、立て続けにやってきた二人の顔を思い浮かべて首を傾げる。
『どうして、呼び捨てにしてほしいなんて……?』
呟いても答えはわからない。
とっくに脱げていたローブのフードをぽすんとかぶり、カレンは気を取り直して寮へと歩き出した。
『………。』
カレンから見えないよう木の後ろに隠れ、シャロンはシャツの下につけたネックレスを無意識に手のひらで確かめる。
アベルがあのように女性に迫っている姿を見るのは初めてだった。カレンは震えあがっていたようにも真っ赤になって恥じていたようにも見えたが、アベルは間違いなく自分から彼女に触れて顔を上げさせ、至近距離で目を合わせていた。
少しだけ胸が痛む事に、気付かないフリをする。
気付けばもっと、自覚すればもっと、苦しむような気がしたから。
『シャロン、どこだー?』
後方からレオの声がする。いるはずの場所にいなかったせいだ。
シャロンはゆっくりと瞬き、いつも通りの微笑みを作って踵を返した。




