450.手にしたグラスの中身を問う
空にはすっかり雲が広がっている。
階段を上がる二人分の足音が聞こえ、シャロン達は顔を見合わせて立ち上がった。決勝を終えた王子達の帰還だ。砂埃や血で汚れた服は着替えてきたらしく、どちらも身綺麗になっている。
品よく拍手しながら笑顔を浮かべたシャロンは、ウィルフレッドが作り笑いをしている事に気付いて瞬いた。顔に僅かな焦りが見える。
「…お帰りなさい。二人とも素晴らしかったわ!」
「ありがとう、シャロン。君にそう言って貰えて嬉しいよ。」
「お見事でした。侮っていた者はよくよく理解できた事でしょう」
「驕らないよう気を付けなければね。サディアス、これからも俺の見張りを頼む。」
「驚きましたよ、ウィルフレッド様の初手。ダン君以上じゃないですか?」
「実は俺も驚いていたんだ。あんな速度が出るとは…」
皆と言葉をかわしながらも、ウィルフレッドの目はどこか笑えていない。
悔しさや怒りとは違う気がして、シャロンは黙ったままのアベルに視線を移した。ぱちりと目が合う。こちらはこちらで、苛立ちとは違う苦さを含んだ顔をしている。
――…不本意そうだわ。何があったのかしら…。
「ところでサディアス、シャロン。」
名指しで呼ばれてそちらを見ると、ウィルフレッドがにこりと笑った。
「俺ってもしかして……治癒が下手なのか?」
沈黙が流れる。
わかっていない顔をしたのはチェスターとダンだけだ。
サディアスがそっと目をそらし、シャロンは完璧な令嬢の微笑を浮かべ、「えぇと」と声を漏らす。他の観客席から見て不自然のないよう、ウィルフレッドは自然に歩みを進めて着席した。皆も同様だ。
「へ…下手なんだな、やっぱり……」
微笑んではいるがウィルフレッドの声が震えている。
先程までアベルの胸倉を掴む勢いで「じゃあ何度かお前を治した時は!あんな痛みがあったのか!?俺は毎回お前にそんな事を!?おいアベル!返事!!」と詰め寄ったが黙秘されていた。
サディアスが眼鏡を指で押し上げ、気を遣って「いえ」と呟く。
「ウィルフレッド様。下手というより、ただ時間がかかり副作用が強いだけです。」
「下手なんじゃないか!何の拷問かと思ったぞ俺は!!」
「痛いってこと?意外ですね、全然そんなイメージ無かったけど。」
経験のないチェスターが目を丸くし、サディアスに小声で「そんなに?」と聞いた。サディアスが曇りなき目で「今日貴方に切られた傷の方がマシです」と言いきる。
「怪我を自分で治そうとしたのね?」
シャロンは扇で口元を隠し、フィールドで繰り広げられる試合を見ながら聞いた。
絞り出すような声で「ああ」と返したウィルフレッドの手は膝の上でわなわなと震えている。
「練習だと思って…だがあれがいつも通りならシャロン!俺は一度だけ君に…幼い君に治癒を……!」
「気にしないで。貴方が治そうとしてくれただけで、私は――」
「あんな苦痛を味わわせたのか…ま、まさかあの時君は俺のせいで気絶を?」
「それは……そうかもしれないけれど」
違うと嘘を吐く事もできず、シャロンが目を伏せた。
二人して公爵領のカンデラ山で迷子になった時の事だ。当時既に魔法を使う事ができたウィルフレッドは、シャロンの腕にできた小さな傷を治してやりたかった。途端に意識を飛ばした彼女を、眠ってしまったのだろうなどと考えていたのだが。
幼い身では到底耐えきれない、激痛による失神だったという事である。
辛うじて落ち着いた笑みを張り付けたまま、ウィルフレッドは血の気が引く思いだ。
「はぁ、はぁ…ぐ……罪悪感でどうにかなりそうだ……!」
「「今は耐えて」」
両脇からアベルとシャロンの声が重なる。
見た目だけは落ち着いたままのウィルフレッドをよそに、コロシアムにはエンジェルの声が響いた。
《二年生優勝者、シミオン・ホーキンズ!》
決勝戦も順調に進み、四年生まで全ての優勝者が決定した。
休憩時間の今、表彰式に向けて各学年一名の女子生徒が別室に集められているはずだ。
くるりとウェーブした淡い緑髪が揺れている。
つんと尖った鼻に気の強そうな吊り目をした一年生――オリアーナ・ペイス伯爵令嬢は、微かな微笑みを浮かべてコロシアムの通路を歩いていた。
青みがかった緑の瞳はどこか暗く、片手に持った小ぶりのグラスには紫色の液体が入っている。
あまり人気の無い通路を進むと、前方には騎士が二人立っていた。
彼らはすぐオリアーナに気付いて一人が手元の紙を見やり、少し怪訝そうに顔を見合わせる。オリアーナはグラスの中身が零れないよう注意して、片手ながらも愛想良く淑女の礼をした。
「ご機嫌よう。アーチャー公爵令嬢がこちらにいらっしゃると伺いましたが、飲み物を渡す間だけ入ってもよろしくて?」
「届け物があるとは聞いておりません。貴女は?」
「わたくしはペイス伯爵家のオリアーナです。差し入れをお渡ししたいだけなので、すぐ終わりますわ」
「…差し入れですか。」
騎士達が怪しむように目を細めてグラスを見る。
オリアーナは心の中で笑った。毒でも疑っているのだろうが、これはただの葡萄ジュースだ。
会えたら、あの白い騎士服にシミでもつけてやればいい。
会えなくともオリアーナの訪問は知らされ、シャロンは「一体何を目的に」と疑心を抱くだろう。液体を調べさせてただのジュースだと恥をかこうが、差し入れを捨てる姿を人に見られようが、見られまいが、どうでもいい。
失敗できない大一番。
表彰式における優勝者への褒賞授与――それも、王子殿下が相手。
少しでも不安に、少しでも嫌な気持ちで、少しでも失敗への布石を。
無意味だったとしても、ペイス伯爵家がさらに追い込まれようと、無礼な令嬢だと罵られようと、もう、どうでもよかった。
オリアーナは微笑んでいる。騎士は不気味そうに眉を顰めてグラスを指した。
「それは何が?」
「葡萄ジュース、シャロン様はお好きなのです。ご存知ありませんか?」
嘘だが、会うのも初めてだろう騎士達にはわからないはずだ。
騎士の一人が「だとしても」と言いかけた時、後ろから別の声がした。
「何かありましたか。」
「っ!」
オリアーナがびくりと肩を揺らして目を見開く。
その様子にさらに不信感を募らせながら、騎士達はやってきた少年に目を向けた。短い黒髪に黒の瞳、冗談の通じなさそうな真顔の男前――シミオン・ホーキンズ伯爵令息。二年生の優勝者だ。
「こちらのご令嬢が、アーチャー公爵令嬢に差し入れだと言うのですが…」
意味深に途切れた言葉、向けられた視線。
そうは見えないので怪しんでいたところです、と続くだろう事は明白だった。シミオンは三人のもとまで歩いてくると、オリアーナが持つグラスを手に取る。拒否する理由もない彼女はされるがままだ。
シミオンはグラスを軽く揺らして香りを確かめ、一気に飲み干した。騎士もオリアーナも目を瞠る。
「…さしたる用では、この先に入れない決まりだ。俺への差し入れだったと思ってくれ」
「………は、い…」
空のグラスを差し出され、オリアーナは愕然としたまま受け取った。
騎士が毒ではと疑ったものを、シミオンは飲み干したのだ。怪しまれたオリアーナを救い、差し入れを無駄にせず、穏便に戻れるようにしてくれた。目に涙が滲む。
――何か、何か言わなければ…
オリアーナがはくりと唇を動かした時、遮るようにヒールの音が鳴った。
シミオンの瞳がオリアーナではなくそちらを見る。
「まあ、シミオン様。お早いお着きでしたのね」
美しい微笑を湛えて現れたのは、薄氷のような薄い水色の髪と瞳を持つ二年生――フェリシア・ラファティ侯爵令嬢だ。
シャロン・アーチャー公爵令嬢一派の筆頭であり親友。堂々やって来たという事は、二年生の投票一位は彼女なのだろう。
フェリシアは当然、オリアーナを冷ややかな目で見てきた。いるべきではない者がなぜいるのかしらと。彼女はシャロンが直接オリアーナに忠告した一件についても知っているはずだ。
「…シミオン様、ありがとうございました。失礼致します」
「ああ」
深く頭を下げ、オリアーナは足早にその場を立ち去った。
フェリシアは騎士達から通行許可を受け、にこやかに微笑んだままシミオンと共に通路を進み――…角を曲がった途端、鋭い眼差しで扇の先端を彼の喉元へ突きつけた。
「なんて馬鹿な真似を!毒ではない確証がどこにあったというの!」
「あれは数分前にユーリヤ商会のフェル・インスから買った物だ。道中で毒物を混入する様子もなかった。」
「何ですって?」
フェリシアが苦々しく眉を顰める。
ユーリヤ商会はノーラの父、コールリッジ男爵が運営する商会だ。
――毒と疑われた場合は購入元も調べられる。人目につけば嫌な噂も立つ。あの娘、わざとね……。
「…ちょうど見ていたなら、行先に気付いた時点で止めてもよかったでしょう。」
「どうせ騎士が止めると思った。」
貴族令嬢としては騎士に疑われる事自体がだいぶ不名誉なのだが、それを回避してやろうという気は更々なかったようだ。不用意に入ろうとしたなら、その事実が騎士に記録されるのは当然の事だ。
「中にいる誰かが手配を頼んでないとも限らなかったしな。」
「まったく…」
フェリシアがため息混じりに扇を下げる。
シミオンはオリアーナ・ペイスがどんな令嬢なのか知らないのだ。何年もチクチクとノーラをいびっている事も、シャロンの友人カレン・フルードに行ってきた事も。後者はまだしも、前者はそうと知ればこの男は何をするかわかったものではないため、意図的に聞かせていないところもある。
とはいえ、毒と疑われた物を次期伯爵が飲み干すなど。
「軽率よ、シミオン。何も貴方が飲まずとも、騎士に預ければよかったでしょう。」
そうなればユーリヤ商会は軽く調査が入ってしまっただろうが、万一にもシミオンが毒を飲んでしまうより余程マシだ。
シミオンは反省したのかしていないのかわからない顔で答える。
「毒はないと確信していた分、騎士に手間をかける程ではないと判断した。お前が言うなら次はそうする。」
「はぁ……、行きましょう。気を引き締めてね」
「無論だ」
表彰は一年生から順にと決まっている。
式が行われる間、生徒の中では二人が最もアベルとシャロンに近いのだ。万一の時は教師陣と共に守らねばならない。
歩き出したフェリシアから、普段彼女が使わない中性的な香りが微かに漂う。
シミオンは怪訝に目を細めたが、何も言わず後に続いた。
空っぽのグラスを見つめ、オリアーナは陰鬱な気持ちで通路を歩いている。
二年生の決勝戦はもちろん応援していた。周りを気にして声を張り上げこそしなかったし、シミオンが頭の悪そうな平民相手に負けるはずもなかったが。
双子の王子殿下によるあまりに速過ぎる試合の直後というプレッシャーも物ともせず、シミオンは見事に勝利した。
そして相手との挨拶を終えると、貴賓席へ一礼したのだ。
王子殿下に向けてだろう。
第一王子は微笑み、第二王子も訝しむ事なくシミオンの礼を受けて頷きを返していた。
けれどオリアーナはどうしても、シャロン・アーチャーまでもが――まるで、それが当然のように――笑顔で小さく頷いた事が、許せなかった。
――何で、なんで。
オリアーナはもうきっと、シミオンと結ばれる事はない。
実家からは以前「この人は嫌」と言った相手の釣り書きばかり届いていた。合っているのは年齢ばかりで、性格も容姿もあまりに劣る。
どうでもいいと自棄になった彼女を、それでもシミオンは救ってくれた。
偶然だったとしても、深い意味など無かったとしても。
現状が嫌だと強く思うのは、今の自分が惨めで卑しくてしょうがないからだとわかっていた。
這い上がるしかない、しかし這い上がるためにする努力も、飲まなければならない現実も、見たくはなくて。文句ばかり言って逃げているだけだと、本当はわかっている。
オリアーナの頬を涙が伝った。
人に見せないようさらに俯いて、客席ではなく人の少ない方へ行こうかと考えた時。
前方に見えた誰かの足がどいてくれない事に気付いて、立ち止まる。
「こんにちは、ペイス伯爵令嬢。」
聞き覚えのない声だった。
今自分に声をかけるなんてきっとろくな相手ではない。ハンカチで軽く目元を押さえてから、オリアーナは顔を上げて前を睨んだ。途端に目を見開いて後ずさる。
「少しいいかな?」
朗らかに微笑んで、セドリック・ロウルは一歩踏み出した。




