440.貴方の目が曇ってる ◆
コロシアムの貴賓席には五つの椅子が用意され、今はたった二人だけが座っている。
『シャロン』
『なぁに、ウィル。』
凛々しい騎士服に身を包んだ第一王子ウィルフレッドと、普段通りに制服姿のシャロン・アーチャー公爵令嬢。
たまたま従者が出番で空席という事は皆承知の上だが、貴賓席に二人並んで座る姿こそ未来の王太子夫妻であろうと考える者も多かった。
完璧な微笑を張り付けたまま、ウィルフレッドの青い瞳はただ試合を映している。
『アベルの試合は、どうだったろうか。』
準々決勝の最初は、第二王子アベルとネイト・エンジェル、そしてウィルフレッドとバージル・ピューの四人が同時試合を行った。
だからどうしても、ウィルフレッドはアベルの試合を観る事ができなかったのだ。
当の本人は試合が終わったというのに戻らない。
広い観客席のどこかにはいるのだろうけれど。護衛騎士であるリビー・エッカートが追っているはずだと、ウィルフレッドは弟の居場所について深く考える事はやめていた。
シャロンがゆったりと瞬いて「そうね」と呟く。
『全て見ていたわけではないのだけれど……たとえ空中でネイト様が風を使おうと、アベルには一撃も通じていなかったと思うわ。』
『…そんな事が?』
『ネイト様が近付いたタイミングで反撃を。』
『……近付かなければいい、というのは安易かな。』
『攻撃魔法が禁止である以上、アベルを空中へ押し出すのはネイト様自身だから……彼が離れる前に拘束して、下敷きにするようにしていたわね。』
『――…、』
随分簡単に言うねと返しそうになり、ウィルフレッドは意識的に唇を固く閉じた。
シャロンは見たものを伝えてくれているだけだ。彼女は決して簡単そうだと思って言っているわけではなく、それを実際にこなしてみせた弟が規格外なのだ。
『……ネイトは、どうしてた?』
『わからない。貴方の試合を見てたから』
『……』
『でも、次に見た時はネイト様が一人立ち上がって、アベルは離れた位置からそれを見ていたわ』
『そうか』
明確に実力差があったとわかる。
だが試合は長引いていた。アベルなら、もっと早く終わらせる事ができたはずなのに。
表情を変えずに、ウィルフレッドは膝の上で組んだ手を少し擦った。
『あいつ、わざと時間をかけただろう。』
シャロンは答えない。
否、どう返すべきか迷ったようだが、それを表情には出さなかった。
『ここへ戻って来るまでにいくらか聞こえてきたよ。どう見ても勝負はついたのに降参させず、弄んでいたとか。血を流す相手を見て笑っていたとか、噂通りに残虐な王子だと』
『ウィル。落ち着いて』
『そんな事を言わせたくないのに、言わせてるのはアベルなんだ。』
微笑みの形が崩れてしまいそうで、ウィルフレッドは自分の手を強く握る。
この怒りをぶつけたくとも、なぜだと問い質したくても、アベルはここにいない。
『前期試験だって……君も気付いただろう。』
『……アベルにしては、低かったわね。』
もちろん、王家の威信に傷がつくほどあからさまに低いわけではない。
特に武術方面の科目は満点一位が目立っていたが、座学はぎりぎり九十点に届く程度だった。アベルとろくに話した事のない生徒にとってはイメージ通りだろうが、違う。
ウィルフレッドは意識的に手を解き、音の無いため息を吐いた。
アベルは九十点という結果で「彼にしては低い」と言われるような男なのだ。
それも、シャロンから。
『彼なりに意図があるのでしょう。』
『俺は』
『貴方が納得しないと、わかっていても。』
『――…君は、どう思ってる?正しいと思うのか』
人目がなければ今すぐにでも表情を崩し、顔を伏せてしまいたい。
しかしウィルフレッドは王子として冷静に、穏やかに、そう見えるような顔をしていなければならなかった。本当はこんな場所で話したくはないが、この試合が終わればサディアス達が戻ってくる。シャロンと二人で話す機会はなくなってしまうだろう。
試合を眺めながら、彼女は口を開く。
『してほしくはないけれど、やらないでと禁じる事はできないわ。』
それが結論だった。
シャロンの言葉ではあるが、ウィルフレッドにもあてはまる。立場やアベル自身に言うか否かの違いはあれど、二人とも同じだ。アベルが「こう」と決めたことを、禁じる事などできはしない。
ウィルフレッドは返す言葉もなくフィールドに目を戻した。
どうしても、アベルを理解しようとする事に疲れてしまった自分がいる。
問いかけても問いかけても答えはなく、突き放される悲しみや寂しさは怒りと意地に変わり、二人揃って歩いた日は遠い昔で、ただシャロンだけが変わらずウィルフレッドの傍にいた。
――俺を見ないアベルが嫌いだ。自分の心の矮小さが嫌いだ。変わってしまったあいつが嫌いだ。劣るばかりの自分が嫌いだ。同じ星のもとに生まれながら俺達はどうして、こんなにも違うのだろう。
アベルから見たウィルフレッドはきっと、ひどく頼りない。
何一つ自分に勝る部分がなく、すぐ冷静さを欠いて声を荒げるのだから。
ウィルフレッドがアベルにしてやれる事など――必要とされる事など、ないのだろう。
無力感に覆われ、ウィルフレッドの微笑みに自嘲が滲む。
試合を見なければと考えながら、ぽろりと本音が零れ落ちた。
『俺は……情けない兄だと、思われているだろうか。』
『ありえないわ』
シャロンが即座に否定する。
それが意外で、ウィルフレッドはつい試合から目を離して彼女を見た。シャロンもまた試合ではなくウィルフレッドへ目を向けている。
動揺した青い瞳には見るからに疑念が浮かんでいたのだろう、真剣な表情をしたシャロンは落ち着いた声で続けた。
『ウィル。私の言葉さえ少しも信じられないのなら、貴方の目が曇っています。』
王子に対して「目が曇っている」など、たとえアーチャー家の娘でも言い過ぎだ。
貴賓席の入り口に護衛として立っている騎士、ヴィクター・ヘイウッドは無表情を保ちつつも内心冷や汗をかいた。仕事中のため二人がどんな顔で話しているかまでは覗かなかったが、不思議と場の空気が張りつめる事はない。
瞬いて、眉を下げたウィルフレッドは困ったように笑う。シャロンも淡く微笑みを返し、二人してフィールドへ視線を戻した。
『信じるよ、シャロン。君ほど俺を知る人はいないんだから』
肩の力を抜き、ウィルフレッドはゆるりと微笑む。
幼い頃から自分を知るシャロンが、「貴方が情けない兄と思われる事などありえない」と言ってくれたのだ。ウィルフレッドにとって、彼女のそんな言葉を全否定する方がありえない。
――目が曇っている…そうだな。今の俺は感情的になっていた。
『失礼。少し疲れていたかもしれない…嫌な気分にさせたな。』
『大丈夫よ。アベルが戻って来ない事は、ちょっぴり怒っておくわね。』
『君があいつを?ふふ……それは良いかもしれないね。反応を教えてほしいな』
『えぇ、後でね。』
『あぁ、後でだ。』
ウィルフレッドとシャロンが見守る中、チェスターはデューク・アルドリッジと、サディアスはダリア・スペンサーと戦っている。
どちらも《剣術》上級クラスだ。格上相手に粘っているが、じきに決着はつくだろう。
『二人共苛立っているな。』
『そうね……サディアスは元々、ダリア様とは合わないでしょうし。』
明らかにおちょくられて苛立っており、動きは精彩さを欠いている。冷静にならねばと己を叱咤しているが、余計に…といったところだろう。
チェスターがデュークに煽られる事はないが、こちらは防戦一方で余裕もない。
『…チェスターは意外と短気だと、俺は学園に入ってから気が付いたよ。知り合ったのはだいぶ前なのにな。』
『私も。話す機会がそんなに無かったものね。彼……妹のジェニー様が重いご病気でしょう?閣下達の事もあるし、そもそもの精神的余裕が無くなるのは仕方ない事だわ。』
『そうだな……とはいえ、休学して妹についていて良いとも、言ってやれないんだが。』
オークス公爵家のためには、チェスターがこのまま第二王子の従者として卒業し、側近の道を歩むのがもっとも盤石だ。
反対に、従者に選ばれてさえいなければ彼は今四年生のはずだった。一年だけ我慢すれば妹のもとに帰れたのだが――…そんな「無かった未来」は、考えても仕方がない。
ほぼ同時にチェスターとサディアスは敗れた。
勝者と敗者双方へ向けて、シャロンとウィルフレッドは惜しみない拍手を送る。
この後は上級生の試合に移り、四年が終われば昼休憩だ。午後はウィルフレッドとネイトも加えた四人での下位決定戦から再開となる。
二年生最初の二組が各々、フィールドへと飛び降りた。
『『………。』』
通路でばったり鉢合わせ、足を止めたチェスターとサディアスは黙って数秒、睨み合う。
軽く試合の汗を流して汚れた服を着替え、貴賓席へ向かおうとしたところだった。いつもならサディアスは無視し、チェスターはへらりと笑って「やっほ~」とでも言って歩き出していただろう。
今は二人とも負けたばかりで機嫌が悪かった。
出場者と警備の騎士ぐらいしか通らない場所で他に人気もなく、取り繕う必要もない。チェスターの顔に笑みはなく、サディアスもまた嫌悪を隠さない。
ほぼ同時に目を離し、やむを得ず同じ方向に歩き出した。二人分の靴音が響く。
『……お疲れー、サディアス君。ダリアちゃんの相手、大変だったでしょ。』
『そちらは孤児の平民相手に、だいぶ苦戦したようですね。』
『何、よそ見するなんて余裕だね。勝負捨ててた感じ?』
『試合時間から想像しただけです。』
『ふーん。ていうか、孤児とか平民とか言わない方が良いんじゃないの?お綺麗なイメージのウィルフレッド様の従者なんだからさ。』
『ろくにアベル様の役に立たない貴方に、従者としてどうという話をされたくないですね。』
二人は視線を前方に固定していたが、その言葉でチェスターはじろりとサディアスを見やった。口元には薄い笑みが浮かんでいる。
『君、喧嘩売ってる?』
『それは貴方でしょう。――流石、人殺しの従者は躾がなってない。』
冷たい視線を返してサディアスが吐き捨てた。
ひくりと目元を引きつらせたチェスターが彼の胸倉を掴んで壁に押し付け、顔の真横に拳を強く叩きつける。
『……よくわかんないんだよねぇ、俺。君の事がさ。アベル様の下につきたかったんじゃないわけ?第二王子派のニクソン公爵の息子である、君は。何なの?俺の前であの人を侮辱するなよ。気分悪い』
『これぐらいで激昂するような軟弱者が、従者の立場を得た程度であの方に仕えた気になるな。不愉快です』
『本当に意味わかんない。何様のつもり?大人しくお気楽な王子様と仲良くしてなよ』
『貴方こそ思い上がるな。大局も見れない視野狭窄の感情論者が』
『はあ?』
互いに怒りのこもった目で睨み合い、チェスターは舌打ちして乱暴に手を離した。
サディアスは軽く衣服を整え、二人はまた歩き出す。
貴賓席へつくまでには気を落ち着けなければならない。大勢から見える場所なのだから。
『君って、本当に俺の事嫌いだよね。』
『お互い様でしょう。』




