433.風よ意のままに
かつん、かつんと通路に足音が響く。
「正直、貴女とは当たりたくありませんでしたが…こうなっては仕方ないですね。」
穏やかな微笑みを浮かべ、ネイト・エンジェルは落ち着いた声でそう言った。
彼は子爵家の次男で、白茶色の長い髪を編み込んで後ろでまとめ上げ、中性的な柔らかい顔立ちにスカイグレーの瞳をしている。
寮の自室には実家が用意したらしい騎士服が届いていたが、若草色で裾にフリルのついたそれを見なかった事にし、普段の授業で使う運動着に帯剣ベルトを装着しただけの格好だ。
「胸を借りるつもりで、精一杯やらせて頂きますね。」
基本的な実力はネイトが上だとわかっているのだろう、シャロン・アーチャー公爵令嬢は微笑んでそう言った。
艶のある薄紫色の髪は邪魔にならないよう低い位置で団子にし、編み込んだ髪でくるりと囲んでいる。きめ細やかな白い肌に桃色の唇。睫毛は長く、髪と同じ薄紫色の瞳に影を作っていた。
まるで「剣など指先を触れた事すらありません」とばかりの、麗しい令嬢である。
ネイトは人が良さそうな顔で笑みを深めた。
――わたしもあまり人の事を言えないけど、シャロン様の顔で《体術》も《剣術》もバチバチにこなすってのは、流石に詐欺だよね。
五公爵家ともなれば、家格を示すためにも剣闘大会にただの運動着で出る事はありえない。
彼女が着ている詰襟は白地で、ボタンが二つ並びに配置された中心部分は光沢のある銀の布地に金のライン取りがされていた。遠くからでは気付けなかったが、近くで見ると同系色の糸で繊細な刺繍が施されている事がわかる。
ズボンも白でブーツは黒。背中を覆う長さのマントも白く、裾に銀の刺繍が施されている。
――王族や上級貴族は身の安全のため、普段の授業で全力を出す事はまずない。シャロン様が時折見せる、妙な力強さ…あれが重くなるか、持続するか。……切らずに勝ちたいよね。わたしは次で殿下達に当たるかもしれないし。
シャロン・アーチャーと言えば、双子の王子と揃いの宝飾品をつけて許される存在だ。
次期王妃にもっとも近い令嬢であり、授業中に度を超えて彼女を傷付けたダリア・スペンサーはウィルフレッドから直接警告を受けたという。
ネイトは心の中で「おお怖い」とおどけた。本当に、当たりたくはなかった。
通路の先、出口から差し込む外の光が強くなっていく。歓声が近付いてくる。二人はフィールドに姿を現した。
別の出口からも他の三組がそれぞれ登場している。
《それでは第二回戦です!東、ネイト・エンジェル対シャロン・アーチャー!》
エンジェルによる紹介を遠くに聞きながら、最初の立ち位置で向かい合わせになった。
ネイトは普段通りのゆるい笑みを浮かべて剣の柄に手をかける。シャロンは見たところ、帯剣ベルトに提げた剣一本しか持ち込んでいないようだ。アメジストの装飾がついたそれが引き抜かれる。
《――以上!一年生三組、二年生一組の同時試合です。位置につきましたね?では構えて、挨拶!('v'*)》
「「「よろしくお願いします!」」」
先に地面を蹴ったのはネイトだった。
公爵令嬢という肩書きを引いても、ウィルフレッドが見込んだ相手だ。自惚れたりお遊びで参加しているわけではない以上、シャロンは護身用の魔力を残して全力で来るだろう。
ネイトはこの試合に勝った後を考える必要があるが、彼女はそうではないのだから。
シャロンは挨拶の直後から何かを呟いていた。
しかしネイトが近付くとぎゅっと唇を閉じ、予想以上にしっかりとした力で剣を受け止める。彼女の外見からは予想できない力強さ。
「はっ!」
ネイトは声と同時に身を翻して連撃を叩き込む。
シャロンが得意とするのは相手の力技を正面から受け取め、時にさらりと受け流す緩急の極端さだ。見誤るとこちらのバランスを崩され体術に持ち込まれるため、全力で打ち込むのは躊躇われる相手だった。
だが、対処はそう難しくない。
流されてもこちらがバランスを崩さない程度に、受け止めてすぐ押し返されない程度に。
――適度な力で、ひたすら打てばいい。
ネイトはそう結論付けていた。
シャロン自身に余裕がなければ緩急はつけられない。こればかりは力を増そうと関係なく、脳の処理能力、経験則、咄嗟の判断力、それに身体がついてくるかどうかの問題だ。頭の良さともまた別種のもの。
野良試合や《格闘術》の授業で見るに、これの別格が第二王子アベルだとネイトは考えていた。
あっという間に防戦一方になったシャロンがじりじりと後退させられていく。
ネイトは早く決着をつけるべく時に蹴りや刺突も混ぜているが、早い動きで避けられあるいは防御され、中々決定的な一打にはならなかった。令嬢の身でこれだけネイトの動きについてくるのは凄い事だが、シャロンはろくに攻撃できていない。
――思ったよりもたせるな。仕方ない…
ほんの僅かに目を細め、試合を楽しんでいた心を抑える。
ネイトの雰囲気が変わった事をシャロンは察したが、身構えるには遅かった。
「そこだ!」
「うっ!」
シャロンの右腕が切り裂かれ、白い袖が赤く染まる。衣服の厚みがあったためそこまで深手ではないが、剣を握るには相当響くだろう。一部の観客席から悲鳴と怒号が上がった。
――わたしを怒るより、ここまで粘った彼女を褒めるとこでしょ。
そう考えながら追撃しようとしたネイトは、迂闊にも負傷した右手で剣をぶら下げたシャロンが強くこちらを睨むのを見る。
前傾姿勢、地面への踏み込み、突き出された左手、開いた唇――魔法を発動し、こちらへ特攻する気だ。
「宣言!風よ意のままに!」
シャロンが叫び、左手の細い指先がぱちんと鳴らされる。
彼女の最適は《水》であって《風》ではない。二人は《魔法学》のクラスこそ違うが、ネイトの属性も同じなのでよく覚えていた。
「意のままに」とは追加の宣言をせずに複雑なコントロールをする高度な技、つまり直線的な特攻ではない可能性が高い。堂々と言い放ったシャロンがその域に達している事に驚きつつ、ネイトは様子を見て迎え撃つために一度後方へ飛び退った。
バシャン!
「ん゛っ!?」
唐突に背中から大量の水が浴びせられ――否、背後にあった水の塊に自ら飛び込み、反射的に息を吸ってしまったネイトがゲホゲホと噎せる。
水はすぐ地面へ落ちたものの、目に水が入って視界が滲んでいた。前方にシャロンの姿はない。
――まずい!
右手は上手く力が入らないはずだが、左手でしっかり握れば片手分の強さは出る。それも謎の強化付きだ。瞬時に神経を研ぎ澄ませ、見当たらないならばとネイトは即座に上を見た。
空中からこちらへ飛び込むシャロンが、両手でしかと握った剣を真っ直ぐに振り下ろしている。
飛び退く事もできるが、今しがた受けた罠がチラついてそれは選べなかった。
ガキィン!
ネイトは見事に弾いたが、シャロンも予想していたらしい。
刃を滑らせて押し返される力と方向を調整し、彼女は低い姿勢でネイトの傍へ降り立ちながら切り上げる。それにも対応して受け止めながら、ネイトはぴくりと眉を顰めた。
彼女は明らかに右手でも問題なく剣を握っている。
――そこまで浅くはなかったはず…ああ、そうか。
瞬く間にシャロンの体勢を崩させて腹部への刺突を寸止めし、ネイトは納得して笑いかけた。白茶色の髪からぽたり、雫が滴る。
「貴女は、《治癒術》も得意でしたね。それにしたって…早業過ぎますけど。」
「はぁ、はぁ……ふふっ。」
頬は紅潮し息を切らしながら、シャロンは笑った。
袖に仕込んだ投げナイフにかけていた左手の指を放し、離れた位置で見守るレイクスに「降参します」と合図する。ネイトがようやっと剣を引いた。
「びしょ濡れに…してしまったわね。驚かすくらいでなければ、隙が……無いと思って。」
「えぇ、驚きました。濡れた事は、淑女の肌を切った事に比べれば些事でしょう。」
「まぁ……どうか、お気になさらず。出場を決めたのは私だわ」
呼吸を整えながら向かい合い、二人は抜き身の剣を胸の前へ掲げた。
ネイトの笑顔が最初の挨拶より親しげに見えるのは、きっと気のせいではないのだろう。
「「ありがとうございました!」」
《東エリア勝者、ネイト・エンジェル!》
母親の声が響いてすぐ、ネイトは剣を鞘に納めてポケットのハンカチで手を拭いた。
水をかぶったのはほんの僅かな時間だったため、濡れたのは表面ばかりで内側は無事なのだ。さっさとシャロンの方へ向かい、同じように剣を納めた彼女の左側から恭しく手を差し出した。
「ありがとう、ネイト様。」
「これくらいは当然です」
無事な左手がそっと乗せられ、ネイトは握る事まではせずに退場のエスコートをする。
観客席からブーイングが聞こえた気もしたが、彼女を放置してさっさと自分だけ退場する方が大問題だ。シャロンのような令嬢、それも王子殿下が信頼する相手に対してそんな真似はできない。
「風の魔法の宣言、フェイクですよね。」
「えぇ。」
ネイトの問いかけにシャロンはあっさりと肯定を返した。
意のままに、の一言で風を継続してコントロールする事など、彼女にはまだできないのだ。あれは宣言ではなくただのセリフだった。
「となれば、水の宣言を唱えたのは…試合開始直後。途中まであんな水はありませんでしたから、貴女はずっと発動遅延をかけていた事になる。」
「すぐにわかってしまうのね。その通りです」
後は集中して指を鳴らすだけ、という状態で維持していたのだ。聞こえるように風の魔法の宣言を叫んだのも、ネイトに勘違いさせるため。
水の魔法を相手にぶつけてはルール違反の「攻撃魔法」だが、相手が勝手に突っ込んだ場合はこの限りではない。
ただ相手が水中に居続けると窒息に繋がるため、即座に解除しなければならない。シャロンはその辺りをよく理解した上で、ネイトの不意を突くためだけに水を使った。
「すっかり騙されてしまいました。…良い試合でしたよ、シャロン様。」
「ありがとう。いつか、もう少しくらいは貴方を追い詰めてみたいものだわ。」
「お手柔らかにお願いします。わたしは本当なら、怪我をさせずに勝たせて頂きたかったんですから。」
「ふふ」
そんな会話をしたところで、通路の前方から足音が響いてくる。
どうやら誰か一人すごい勢いで走っているようだ。念のためにネイトがシャロンの前に出て剣の柄に手をかけると、角から現れた人物がダンッと床を踏みしめてこちらを指差した。
「シャロン!何してる、さっさとそいつから離れろ!」
「叔父様」
さらりと靡いたオリーブ色の長髪、黒に近い濃紺の瞳と右頬の傷跡。
ネクタイを締めたシャツの上から白衣を着て、眉を吊り上げたノア・ネルソンがツカツカと歩いてくる。彼は医務室に勤める上級医師で、シャロンの母ディアドラの弟だ。
瞳を丸くしたシャロンはやや呆れた様子でネルソンを見上げている。
「救護席に向かっておりましたのに、出てきてしまったのですか?」
「待てるか、肌に跡が残ったらどうする!?ネイト・エンジェル、貴様はとっとと着替えでもしてこい!」
「アハハ……じゃあシャロン様、わたしはここで。」
「えぇ、ここまでありがとう」
だから出場には反対だったんだと呟くネルソンに傷を確認されながら、シャロンはにこりと微笑んだ。同じように微笑み返して立ち去ろうとしたネイトは、「あ」と呟いて振り返る。
「できれば、デュークの試合をしっかり見てやってください。あいつは本当に強いですよ」




