432.せめて一撃
同時に始まった四試合のうち、早くも二組が入れ替わりとなった。
トーナメントの組み合わせは事前のくじ引きで決められるため、実力差のある相手にぶつかってしまう事は珍しくない。
北エリア――デイジー・ターラント対ダン・ラドフォード。
「はぁっ、はぁっ……」
濃いブラウンの前髪が汗で額に張り付くのも構わず、デイジーは剣を構え直した。
彼女は代々騎士家系の男爵家の娘だが、着ているのは騎士服ではなく普段授業でも使っている運動着だ。
貴族ではあるが特段大金持ちでもないのだ。ほぼ確実に汚すだろう上に、今後の成長を考えれば使いきりになるかもしれない今日のためだけに服を誂えたりはしなかった。衣服を整えて臨むのは四年生の大会と決めている。
出場にあたってデイジーが登録したのは《剣》と《盾》。
圧倒的に男の出場者が多い中、剣だけでかわしきれるだろうかと考えての選択だった。予選参加者のうち、三分の一くらいはそれで勝てるだろう相手だ。
しかし――…
「くっ!」
デイジーが渾身の風の魔法で取った距離を、ダンは魔法も無しに詰めてきた。
咄嗟に構えた盾を鋼鉄のガントレットが殴りつけ、たったそれだけで防御が崩れたところへ、まるで棍棒でも振り下ろすように剣が襲ってくる。
デイジーは必死に集中して刃を合わせ、相手の太刀筋をそらした。剣の技術だけならデイジーが上だ。それはわかっている。
ダンは灰色の短髪に目つきの悪い三白眼、黒い瞳。チェスターと同じく今年で十六の歳らしく、背丈は既に百八十センチ近かった。デイジーとは二十センチほど差がある。
アーチャー公爵家、それも長女シャロンの従者だからだろう、彼はきちんと仕立てられた騎士服を纏っていた。
上着は白地の詰襟だが、ボタンが二つ並びで配置された中心部分は艶のある銀色の布地で金のライン取りがされている。ズボンも白でブーツは黒。シャロンとほぼお揃いだが、装飾は控えめでマントはつけていない。
「はぁっ、はぁっ…く、う!」
猛攻を辛うじていなし、受けきれずによろけ、盾から腕へ響く衝撃に気圧されながら、デイジーはそれでも剣を握っていた。
純粋な力勝負では到底敵わず、《魔法学》初級クラスのデイジーにとって、レベッカやシャロンから聞いている彼の強力な魔法もまた、太刀打ちできないものだと理解している。
この後の試合に向けての温存だろう、デイジーにとってありがたい事に、ダンは魔法を使おうとしない。
――勝負がまだついていないのは、相手が急いでないから。私が降参しないから。全力を出されてないから。……でも、それでも!決定的に勝敗が分かれるまで、私は勝負を投げ出したくない!
押されているのは明らかにデイジーだが、最後まで何が起きるかわからない。制限時間も残っているため、審判のトレイナーが「もう勝負は見えたでしょう」などと止める事は無かった。
彼女は《体術》および《剣術》中級クラスの担当、デイジーがいつも教えを受けている相手だ。
薄紅色の髪をシニヨンに結ってバレッタで留め、フレームレスの眼鏡の奥にはキャメル色の瞳が光っている。今年で四十歳、かつては騎士団で小隊長を務めた実力者。ウエストラインから下がひだになったジャケットを着て、下は常にズボンとブーツで決めている。
トレイナーは少しだけ眉を顰め、厳しい表情で試合の行く末を見守っていた。
《西エリア勝者、シャロン・アーチャー!》
エンジェルの声が響く。
身体中の筋肉が悲鳴を上げるのを無視しながら、デイジーはダンがぴくりと眉を動かした事に気付いた。
デイジー・ターラントはダン・ラドフォードをよく知らない。
基本、彼は従者として黙ってシャロンの傍にいる。デイジーが直接話した事などろくにないが、たった今、彼が「そろそろ終わった方が良い」と判断した事だけは即座に理解できた。
――来る!せめて…せめて一撃だけでも!
エンジェルの声に反応した、それは勝負に集中していたダンが気を取られたという事でもある。
盾を殴りつけられた瞬間、デイジーはその力を受け流しながら手を離した。盾を捨てたのだ。急に抵抗が無くなり体勢を崩しかけたダンめがけて剣先を突き出す。
既にダンの腕より内側に刃があるため、剣もガントレットも防ぐのは間に合わないだろう。
その後デイジーがどうなろうと、この一撃だけは必ず通る。デイジーはぐっと眉間に力を込めた。
――肩を思い切り怪我させてしまう。シャロン様には申し訳ないけど、このまま!
ガヅン!
「い゛っ!」
悲鳴を上げたのはデイジーだった。
ダンは真っ向から防御するのではなく、避けながら剣を持つ彼女の腕を蹴り上げたのだ。剣の刃がダンの頬を掠って血が流れた。
手を離れた剣があらぬ方向へ飛んでエリアを区切る壁にぶつかり、ほぼ同時に盾が地面に転がる。無手となったデイジーは既に、首へ大きな手をかざされていた。触れる寸前。
痛む腕を押さえながらダンを見上げる。
少しは息が上がっているようだが、デイジーとは比べるべくもない。頬の傷は浅く、血はすぐに乾いてしまいそうだった。
「どうなさいますか。」
ダンは普段と変わらない口調で問いかけてくる。
黒い瞳がデイジーの判断を待っていた。まだ足掻くのか、終わらせるのか。
ここでまだ「嫌だ」ともがくほど愚かではない。悔しくないはずもないけれど。奥歯を食いしばり、デイジーは目を伏せて息を吐いた。
「……降参します。」
審判のトレイナーがエンジェルに合図を送る。
ダンと離れて向かい合い、デイジーは瞬いて「あっ」と声を漏らした。基本的に武器を構えての挨拶で終えるものだが、剣は弾き飛ばされて隅に転がっているのだ。今、職員が回収してくれている。
――そこの盾を拾って構える?…相手は剣なのに、なんだか滑稽では?恥だわ。剣を受け取りに行く?持ってきてくださるのをここで待つ?どちらも相手を、それも勝者を大勢の前で待たせてしまう!ど、どうすれば…
顔色を悪くして焦ったデイジーが視線を前へ戻すと、ダンはなぜか自分の剣を鞘に納めていた。目が合うと彼は左手の拳を握り、自分の胸にあててみせる。
片方の口角が上がった笑顔は普段のすまし顔より数段悪く見えたが、遠い観客席からはわからないだろう。
反射的に右腕を動かしかけ、痛みが走ってデイジーは理解した。
「…ふふ」
肩の力を抜いて笑い、ダンと同じように左手の拳を胸元に構える。
悔いはないとばかりに背筋を伸ばし、戦いきった誇りを胸に、互いの健闘を称えて。
「「ありがとうございました!」」
《北エリア勝者、ダン・ラドフォード!》
貴賓席には双子の王子が腰かけている。
屋根のついたボックス席の中でも特にフィールドが見やすく、並べられた肘掛け椅子は上質で、階段との間には護衛が待機する少し開けた場所もある。
剣闘大会の警備にはリラの騎士団が参加しているが、この貴賓席は特に王都の本部から来た騎士、リビーとケンジットの二名が間近に控えていた。
王子達は「一回戦など」と馬鹿にせず、きちんと試合を見ているようである。
時折、ウィルフレッドがフィールドを見たまま顔を少しアベルの方へ向けて何事か話し、聞きやすいよう兄の方へ首を傾げたアベルが言葉を返し、時に二人でくすりと笑っていた。
美麗な王子二人、それも凛々しい騎士服姿で、さらには普段近寄りがたい第二王子の笑顔。ついついオペラグラスをそちらへ向ける生徒がいるのは仕方が無い事だった。普段はそんなものを向けてご尊顔をまじまじ見る事など許されない。
「たっだいま~☆」
ぱちんとウインクを飛ばし、アベルの従者であるチェスターが試合から戻って来た。
お疲れ様と微笑むウィルフレッドに礼を返し、ちらと目線を寄越してきたアベルに小さく頷いてから自分の席に座る。背もたれに引っ掛けたマントがずり落ちてこないよう軽く調整しながら、フィールドを見下ろした。
《南エリア勝者、サディアス・ニクソン!》
エンジェルの声が響く。
チェスターは心の中で「ありゃ」と呟きつつ拍手し、まあしょうがないかと長い脚をゆったり組んだ。
「ダン君もサディアス君も終わっちゃったか。見たかったんですけどね」
「同時試合の歯痒いところだな。予選から一試合ずつやっては日が暮れるのはわかるが…」
青い瞳を憂いに揺らめかせ、ウィルフレッドがため息を吐く。
本当はアベルやシャロンの勇姿を全てじっくりと観て、稀代の天才画家ガブリエル・ウェイバリーに名場面を描いてほしいほどだ。叶わないけれど。
真正面にある教師陣の座席、その横の楽団席でロズリーヌがほぼ同じ事を考えながら合掌していたが、ウィルフレッドは気付かなかった。
「たぶん折ってねーとは思う。」
「そう…けれど怪我は付き物だし、診るのは叔父様かローリー先生だもの。大丈夫よ」
「わかってる。」
聞こえてきた話し声に三人がそちらを見ると、階段を上がりきったシャロンとダンがこちらへ歩いてくる。ウィルフレッドが「お疲れ様」と笑いかければ、シャロンは花咲くような微笑みを返してくれた。
背もたれに寄り掛かったチェスターが「お疲れ~」と振った手を、ダンに向けて下から差し出す。ダンは通りがてらパシッと叩いた。他の観客席から見えない位置での、ハイタッチならぬロータッチだ。目撃したウィルフレッドが瞬く。
――何だそれ、俺もやりたい。
表面上は第一王子として完璧な微笑を浮かべたまま、しかし心はそわそわしながらシャロンを見やる。
レオの試合を見守っていた彼女が視線に気付くと、ウィルフレッドは我慢のために軽く右手を挙げるに留めた。他の観客席から見た者がいれば、「なんでもないよ」のサインだと思っただろう。
手を振った際に少しぴくりと動いた指先を見て、シャロンは斜め後ろに座るダンを振り返った。
貴賓席は王族と五公爵家のためのものであり従者は立って控えるものだが、今日のダンは同じ出場者だ。休息に差があるべきではないと、肘掛けのない椅子を用意されている。
彼はシャロンが差し出した手へプログラムを渡した。今日のおおよそのタイムスケジュールが書かれたものだ。
「ウィル、どうぞ。」
「あ、あぁ」
シャロンはウィルフレッドが見やすいようプログラムを広げてくれた。こうなると、他の者は先程の手振りが「プログラムを見たい」という指示だったと認識しただろう。
自分で持とうと手を出しながら視線を落とすと、彼女はプログラムの影に隠れるようにして、片方の手のひらをこちらへ向けているではないか。
「……!」
僅かに見開かれたウィルフレッドの目がきらきらと輝く。
ぱち、と小さく手を合わせた。シャロンはやはり、ウィルフレッドをよく理解している。
ほくほくした笑顔で礼を伝えれば、シャロンも嬉しそうにはにかんで「こちらこそありがとう」と笑った。これは彼女の健闘を称えるハイタッチならぬちょこっとタッチなのだ。
ウィルフレッドは「お前も、ほら!」と言いたいのを堪えて自然な流れで弟を見やったが、アベルときたらまったくこちらを見ていなかった。解せない。
《東エリア勝者、レオ・モーリス!》
エンジェルが高らかに告げる。
これで一年生の第一回戦は全て終了し、今試合を行っているのは全て二年生となった。
「次が出揃ったね。」
ぽつりと呟いたアベルの声を拾い、シャロンは「そうね」と返しながらトーナメント表に目を移す。
試合結果が反映され、勝者の名前から伸びる線が太くなって次の相手を示していた。
ネイト・エンジェル対シャロン・アーチャー。
チェスター・オークス対ダン・ラドフォード。
レオ・モーリス対サディアス・ニクソン。
順当に勝ったら誰にあたるかなど、先に予想できた事だ。
シャロンは驚く事なく、ただ覚悟するように膝の上で手を握り締めた。




