422.絶対に守りたい人
神殿都市サトモス――騎士団詰所。
「おうおう、久し振りだなアイザック!」
椅子に腰掛けて笑う男の髪は薄く、頭の丸みがよく見える。
鷲鼻の下、口周りにはゴシャゴシャとした固そうな髭を生やし、皺の入り具合からして年齢は六十代前半だろう。ただ老い縮んだ様子はなく百八十センチ近い背丈があり、袖をまくった腕は太く血管が浮いていた。
先代辺境伯ブルーノ・ブラックリーが手を振った先。
今しがた会議室に入ってきたのは、未だ三十歳手前の若さにして王国騎士団の隊長を務める男だ。驚いた顔をしながらも彼は、ブルーノを見てぽつりと声を漏らす。
「…伯爵様…」
瞳孔の開いた黄金の瞳、左目の下には泣きボクロがあり、鍛え上げられた逞しい身体つきをしている。凛々しい眉を少し顰め、よほど急いだのか少しだけ息を切らし、竜胆色の短髪がふわりと乱れていた。
アイザックと呼ばれた彼はブルーノが養子にした男の息子、書類上の孫である。
ティム・クロムウェルが騎士団長になる際、十番隊長の後任として選んだ男でもあり、更には知る人ぞ知る、第二王子アベルの剣術の師匠だ。
ブルーノが自身の髭を撫でてニヤリと笑う。
「俺ぁ隠居爺だ、伯爵はおめぇの親父だろう?」
「…失礼しました。お祖父様」
アイザックは胸に片手をあてて礼をしたが、真顔のまま僅かに首を傾げる。仕草は幼い頃から変わっていない。
「商人に扮し、各地の魔獣被害を見て回るのではなかったのですか?父からはそう聞いていましたが。」
「途中でお嬢ちゃん達に会ってな。こりゃ俺もついてった方が良いって考えたわけよ。」
「左様で…」
「実際それで助かったろ?なぁ、ダルトン。」
「えぇまったく。姫の護衛だけであれば、魔獣に襲われた時点で侯爵家の馬車は見捨てられていたでしょうから。」
ブルーノに話を振られ、壁際に立っていた騎士はにこりと微笑んだ。
薄緑の髪は前髪も後ろへ流してハーフアップにし、細い目は常に閉じているかのように見える。百九十センチを優に越える背丈の彼はロイ・ダルトン。アイザックの三つ下の後輩だ。
彼は本来第二王子付きの護衛騎士として一番隊の所属だが、王子が学園にいる今は神殿都市サトモスに勤めていた。
そして周辺で発生していた失踪事件を調べるうち、容疑者の候補に挙がったのがベレスフォード伯爵。
イアン・マグレガー(と、くっついてきた小娘)を攫った時、ベレスフォード伯爵の手下は後を追ってくるヴェンを撒いた。
確かに撒いたのだ、谷間の急流を利用した舟による移動と、姿を消す魔法によって。しかしヴェンは一度見失い大きな遅れを取りつつも、エリが捕われた場所をなぜか正確に見つけ出した。
辿り着いた屋敷の様子を窺うヴェンに気付き、騎士の中で唯一知り合いであるロイが接触する。
情報を共有する中で貴族が乗っていた馬車の紋章やイアンの名前、外見を聞いてマグレガー侯爵の息子と断定。
『しかし小隊長、この男の証言だけで伯爵邸に踏み込むなど――』
『フフ、ともかく行きましょう。これが英断だったか愚断かは、団長や殿下が正しく判断してくださいます。貴方がたの責を問う事はありませんよ。』
敵の血が流れることすら厭う神殿都市の騎士達は戸惑っていたが、結局は押し切られて救出作戦を決行した。
ヴェンとロイでは対人戦の場数が違う。
伯爵の手下を軽くいなしあるいは受け流して、ロイはヴェンに敵を押し付けながら移動した。
これはあくまでツイーディア王国の騎士団が成功させる任務。
捕まった二人の状況を最初に目撃するのも、救出するのも騎士の役目である。どの道ヴェン一人では、戦っている間にエリを人質に取られていただろう。ロイはおおよその見当をつけて地下への階段を見つけ、魔法で飛びながら降りた先で扉を開ける。
ぽかんと口を開けるエリと、彼女を庇うイアンがそこにいた。
『おや、もう出てきたんですか?ンッフフ…お転婆ですねぇ。』
『騎士…?なぜこの屋敷に』
『ロイ?おぬしロイではないか!』
『えっ、知り合い?』
『ヴェンと共にわらわを助けに来たんじゃな!』
『勿論そうですが……フフ。こちらのご令息くらい警戒するのが、正しいと思いますよ?』
ベレスフォード伯爵は拉致監禁容疑で拘束。
屋敷内はまだ調べ始めたばかりだが、既に連続失踪事件の被害者に関わる品が見つかり、逃げ切れないと思ったのか伯爵本人も自供し始めていた。
女性の身で爵位を継いだベレスフォード伯爵は現在四十歳近く、夫とは政略結婚だった。
自分と夫の凡庸な見た目が何より嫌だと彼女は言う。
幼少期から今に至るまで、彼女がこよなく愛するのは美しい青年や少女であり、彼らを形成する滑らかな肌に舌を這わせる事ほど甘美なものは無かった。アイスクリームをスプーンですくい取るように少しずつ削って愛した。
ただ、どうしてもそのうち死んでしまう。
表向きは恙なく伯爵領を守っていた彼女は、一般的に見て異常な趣味だと理解していた。犯罪の自覚も当然あった。
ゆえにこれまでは慎重に獲物を見定め、時に騙して自ら足跡を消すよう仕向けて手に入れてきたのだ。
しかし夜会でイアン・マグレガーを見た瞬間――次期侯爵に手を出すのはまずい、そうわかっていても我慢ならなかった。
早くその肌を楽しみたい一心で、できるだけ早く連れて来いと言って攫わせた。彼の護衛が少なかったのも事前に負傷したのも、裏から手を回されてのこと。
ベレスフォード伯爵の夫は既に寝たきりで、長男は学園卒業からずっと屋敷に幽閉され母の事務仕事を手伝っていた。
全身が痣だらけで成人男性と思えぬほど痩せた彼は、騎士によって助けられてすぐ母親の処刑を望んだ。
「あのベレスフォード女伯が……。俺はろくに話した事もありませんが、大人しい印象でした。」
「ま、大層な事企みそうなツラはしてねぇわな。」
アイザックに同調し、ブルーノは自身の顎髭を擦る。
人は見かけによらないものだ。粗野な髭面商人が先代辺境伯であるように。ロイが鷹揚に頷く。
「望みを叶えるため、色々と後ろ暗い繋がりも作ってきたようですね。全て片付くにはまだかかりますし、君影のお二人も数週間は残って頂くことになるかと。」
「そりゃ嬢ちゃんが怒りそうだなぁ。早くリラに行きてぇって騒いでるだろう。」
ブルーノの予想通りだった。
ようやっと数か月前の「リラでアロイスが目撃された」という情報も届き、早く行きたい行きたいとエリが床を転げ回ったのは昨日のこと。ちなみに、「なぜもっと早く報せぬのじゃ!アベルの阿呆め!」とも叫んでいた。理不尽である。
「ご協力頂ければ《ゲート》の使用について助けられるかもしれないと言ったところ、一応は大人しくしてくださいましたよ。」
「なるほど、そんなら悪くねぇ……アイザック!おい、待ちな。」
「はい。」
ふらりと部屋を立ち去るところだった孫を引き留め、ブルーノはやれやれと首を振った。彼はちょっとでも放置すると「用は終わった」とばかりどこかへ行ってしまう。これも昔から変わりなかった。
父の恩人であり、師の一人であり、祖父でもある彼に声をかけられたアイザックは素直に戻って来る。家の話だと言えば、ロイは真意を探る様子もなくあっさりと退室した。
二人だけになった会議室で、ブルーノは深く眉間に皺を寄せる。
ブラックリー辺境伯として何十年もアクレイギアとの国境を守ってきた男だ。こうなると背筋はしゃんと伸び纏う気配は歴戦の将、鋭い視線がアイザックへと向けられた。
それは幼子が見たら泣き出しそうな恐ろしさだったが、ろくに表情を変えない事で有名なアイザックは身じろぎもしなかった。
――伯爵様のこの目…余程重要な話と見える。長期任務の行き先が帝国だったとは、知られていないはずだが……あるいは魔獣の件でブラックリー家が疑われていた間、どう探られたかという話か?ジョディ・パーキンズの足取りを掴んだ事…は知っているわけがないな。もしくは此度、君影国の姫から何か…
「お前、嫁さんはまだ決まらんのか。」
アイザック・ブラックリーは瞬いた。
婚約者はおろか、恋人がいた事すら無い男である。彼は僅かに首を傾げた。
「お祖父様。俺は貴方に、妻となる女性を探してみる等と言った事があったでしょうか。」
「ねぇから心配してんだよ!お前の親父が寄越した釣書はちゃんと目ぇ通してんのか?」
アイザックは記憶を辿った。
二か月ほど前、騎士団の寮から久々に王都の屋敷へ帰った時に目は通している。
開いて、一秒見て、閉じる。使用人が次の釣書を渡す。受け取って開く。確認するのは数か月ぶりだったのでかなりの量が溜まっていた。
父が寄越したと言っても申し込みが多過ぎて、多忙な父に選りすぐる余裕があるはずも無く――自分の息子がまるで結婚に興味が無い事も把握しており、不毛な事もわかっていたので――全て、ただ転送しているのみである。
ブラックリー伯爵家の領地は帝国との境、つまり危険地帯だ。
そんな所へ嫁に行きたくないのが普通かと思いきや、国境警備のために国から出る支援金目当てだったり、王都にも屋敷があるから自分はそちらに住めばいいと思っていたり、ブラックリー伯爵家は割と人気であった。
しかもアイザックは瞳孔の開いた目が少々怖いが、整った顔立ちの美丈夫である。
騎士隊長の座に就いたのはなんと二十三歳の頃で、現騎士団長ティム・クロムウェルの信頼も篤く、国王陛下が直接労いの言葉をかけた事もある。
女遊びが激しいとか酒や賭博で失敗したなんて噂は無く、目つき以外の欠点はややマイペースが過ぎる事と、笑いも怒りもしない真顔っぷりだろうか。
騎士隊長の一人として稀に王城の夜会に現れるが、ダンスが下手だとか女性を軽んじているという事もない。一線引いた態度が頑なで難攻不落ではあるが、接触した令嬢の殆どが「まぁ、あり」と判断する紳士だった。
父である平民上がりの辺境伯は妻を亡くしたきりなので、義母という存在もいない。それを良しとするか女主人としての師が不在ではと悪く感じるかは人それぞれだが、ともあれ、学園を卒業した十七歳以上の令嬢達からするとアイザックは中々の優良物件。
それは縁談も大量に舞い込むというものだが、しかし。
「何でそう結婚したがらねぇんだ……!」
「生きる上で、必須というわけでもないので。」
鼻白むでも苛立つでもなく、アイザックは淡々と答えた。
貴族社会において血筋は重要視されるものだが、ブラックリー伯爵家は違う。
『先代の血を引く奴がなるんじゃねぇ。ここを守れる力を持った奴こそが、ブラックリー伯を名乗るのさ。』
かつてブルーノが言った言葉だ。
父親が彼の養子となり爵位を継いだ時、アイザックはとうに十五の歳を数えていた。学園の三年生である。
平民アイザック・ミルズがブラックリー辺境伯の息子アイザックになり、それまで話した事もない貴族や大商人の子息子女から突然付き纏われたりもした。
普通、貴族というものは小さい頃から結婚の重要性を説かれて育つ。
アイザックにはそれがなかった上に、ブラックリー家は血筋で繋がずとも良い事をよく知っている。結婚は必須ではない、と結論付けてもおかしくはなかった。
「頑固野郎だてめぇは…ったく、あんだけ仲の良い両親の間に生まれたのになぁ…」
少しは憧れたりしないのかとため息を吐かれ、アイザックは「憧れという程では」と否定する。
両親が仲睦まじく幸せそうであったのは良いことだが、自分もそういうパートナーがいたら良い、とは特に感じなかった。恋人に満たされるまでもなく、今の人生に特段不満が無いのである。
「嫁でもガキでもよ、絶対に守りたいって思える人がいると、強くなれるもんだぜ?」
「今と変わらない気がします。」
「…ま、お前ぐらい良い男なら、そのうち運命の相手とばったり会うかもな。ああ、いつかわかるさ。」
「………。」
アイザックは不思議に思って首を傾げた。
今と変わるわけがないのだ。
絶対に守りたいと思える人は、もういるのだから。




