420.内緒じゃぞ
※ちょっと拷問めいた怪我があるので、苦手な方はイアンが左袖を捲ったらセリフまで飛ばしてください。
真夜中の地下室、石壁に頑丈な鉄格子を嵌めた牢屋にて。
「かぴ~……むにゃうにゃんにゃ…」
牢に不釣り合いなふかふかのシングルベッドに寝転がり、温かい毛布にくるまって眠る少女がいた。
内巻きがかった黒髪は耳の前側は頬の高さで切り、後ろは背中まで伸びている。にへらと笑った口の端からちょっぴりよだれを覗かせた彼女は、エリシュカ・バルボラ・バストル。
百四十五センチもない身長に幼い顔立ちをしているが、れっきとした君影国の姫である。
「むふふ…ヴェン……ようやくわらわの夫になるけちゅいを…ふひひ…」
何やら良い夢を見ているらしい彼女はだらしなく顔を緩め、誰かを抱きしめるように腕を広げて寝返りを打った。
手が空を掻き、小さな身体がベッドの端からころりと落ちる。
「んぎゅッ!!~~~っい、痛い…!」
毛布はベッドの上に残ってしまい、べちんと床にぶつかったエリは痛みにしばし転げた。薄いカーペットは石床の固さを全然誤魔化してくれていない。
そういえば捕まったのだったと思いながら身を起こし、冷えた空気に軽く腕を擦った。牢屋は通路を挟んで三つずつあるようだが、誰がいるかまでは正面の檻以外よく見えない。
通路の壁かけランプにぼんやり照らされた姿を見やって、エリは口元に手をかざして大欠伸した。
「ふわぁあ……なんじゃ、イアンとやら。寝ておらんのか?顔色が悪いぞ」
「はは……君はよく眠っていたね。」
金の短髪に黄土色の瞳をしている貴族の青年だ。まだ二十歳に届かないくらいだろう。女性受けの良さそうな整った優しい顔立ちだが、強面好きのエリは反応していない。
彼はベッドに腰掛け毛布を羽織り、何か考え事でもしていた様子だ。
ベイゲナ森林で二人いっぺんに攫われ、麻袋にすっぽり包まれて丸二日。昨日ようやっと目的地らしいこの牢屋へ放り込まれ、檻の中とはいえ意外とちゃんとした食事に舌鼓を打ち、湯につけたタオルで身体を拭いてエリはぐっすりと眠った。
イアンは食事から別の場所へ連れ出されていたので、会うのは何時間かぶりになる。
「思ったよりマトモな扱いじゃからのう。今のところは人質という事か。しかし、おぬしが付けられた首輪は魔法が使えなくなる物じゃな?なぜわらわは免れたのか。」
「君はまだ十歳かそこらだろう?魔法が使えるようになるまで数年――」
「十六じゃ。」
「……えっと」
「わらわは十六歳じゃ、阿呆め。まぁよい、黒石なぞ嵌められたらたまらんからのう」
目を丸くているイアンを放置して、エリは両腕を上に伸ばして「うーん」と呻いた。
軽く肩を回してその場でぴょんと跳び、準備体操終わりとばかりに鉄格子を掴む。黒っぽく見えるが、これは黒水晶製ではないようだ。
「おぬし、夕食はどこへ行っておった?わらわ達を攫ったのは誰じゃ。」
「屋敷の主とご一緒させられたよ。相手はベレスフォード女伯だ」
「知らんのう。」
「南北をアッシミーリ渓谷で分けたうち南西側を治め…えぇと、つまり此処は君達が向かっていた神殿都市サトモスの北東、王都ロタールの南東にある屋敷で。ここいらを治める女領主が犯人だ。」
「なぜおぬしを攫ったのじゃ?」
「…それは……」
目を伏せたイアンは無意識に自身の左腕に手を添えた。
白いシャツの袖口はボタンが外れていて、違和感を覚えたエリは彼をじっと見つめる。蜂蜜色の瞳が丸くなった。
「――左腕のそれは包帯か?」
イアンがハッとして袖を押さえたが、見えてしまったものは記憶から消せない。エリが眼差しを鋭くした。
「何があったのじゃ。何をされた?」
「…子供に言う事ではと思ったけど、十六ならもう成人か。」
「歳などどうでもよい、もっとこちらに寄って見せてみよ。」
イアンは立ち上がると、鉄格子の前まで歩いて左袖を捲った。手首の下から肘近くまで巻かれた白い包帯にはハッキリと血が滲んでいる。
留め具を取って包帯を解けば、十センチ近く切り取られた痛々しい傷があった。幅は一センチあるだろうか、包帯が張りつかないよう薬は塗られているが、治癒の魔法を受けたようにはとても見えない。
エリは顔を歪めたが目はそらさなかった。
「すまぬ。マトモな扱いというのは誤りじゃったな…」
「いいんだ。君を巻き込んで申し訳ない、エリ嬢。伯爵は僕の見た目が気に入って狙ったらしい。これからは…毎晩少しずつ楽しむと、そう言われた。どうやらこれまでも犠牲者がいたようだね。」
「……助けを待っている場合では無いのう。」
「いや、待った方が良い。君の事はもう数年育てると言っていたからまだ時間がある。」
「馬鹿め、その調子で削られてはおぬしがもたぬ。」
「どの道僕らだけでは……何をしてるんだ?」
訝しげな顔をしたイアンが見る先で、エリは椅子にひっかけていたポンチョを取って背を向けた。
「この身体ではちと足らんのじゃ。」
「足りない?一体何が…」
イアンの問いには答えず、エリはポンチョを腰に巻き付けてしっかり留め、合わせの隙間に手を突っ込んでズボンを太腿までずり下げた。そのままでは破れかねないからだ。
ポンチョの裾を床に引きずって振り返る。
「ヴェンにはまだ内緒じゃぞ、イアン。」
何が、と聞く前にイアンは言葉を失った。
じわりじわりと、しかし異常なスピードでエリが成長している。背丈と髪が伸びて胸は膨らみ、輪郭や顔立ちも幼いものから大人びたそれへと変化した。
ほんの十秒もない時間。
今のエリは先程より二十センチは背が高くなり、十六歳と聞いて誰も疑問を感じない女性へと変わっていた。あまりの衝撃にイアンは無意識のうちに一歩、二歩と後ずさる。
エリは満足気に口角を上げた。
「ふん。驚いたであろう?これがわらわの――」
「い、いいから腹を隠してくれ!」
イアンは慌てて顔を背け、あくまで小声で叫んだ。
元は平坦だったシャツの胸元はパツパツと張りつめ、丈が短くなった分おへそが見えている。腰に手をあて仁王立ちでふんぞり返っていたエリは腹回りを見下ろし、ポンチョをぐいと引き上げた。
「ヴェンが来ていればじきにブルーノも来るじゃろ。いなければ待たねばならんな」
「来ているかどうかなんて判断できるのか?ここは地下だし…」
「できる。内緒じゃぞ」
「わかった。わかったから…」
おそるおそる視線を戻し、エリの肌がしっかり隠れている事を確認してイアンはほっと胸を撫でおろす。
エリは右手を口元へ運ぶと親指の腹に犬歯を立て、険しい顔でぎちりと噛みちぎった。
「っ!?な、何を――」
焦るイアンの前でボタボタと赤い血がカーペットに染みていく。真っ赤になった親指を握り込み、エリは祈るように目を閉じて胸元で両手を重ねた。
「此方、聞き届けよ。この血を伴う唯一の誓約に則り、わらわは宣言する。黒き髪赤き瞳、我が愛の行き先たるヴェン――その居場所は常にこの心へ、届くことを。祈り願い宣おう、わらわは必ず其方と共に在る。」
イアンに聞かせるわけにはいかないフルネームは心の中で唱え、エリは練り上げた魔力を血に絡めて魔法へと昇華した。
背筋が一瞬ぞわりとして、ここより高い位置に気配を感じる。近い。屋敷がどれだけの大きさかわからないが、敷地内には入っていると推測できた。
牢屋への入り口は隠されている事もあるため、エリ達が脱出して合流を目指す方が良いだろう。
すぅと目を開ければ、唖然とするイアンと目があった。
「…初めて聞く形式の宣言だったが……君は一体、」
「ヴェンはここへ来ておる。わらわ達も上へ行くぞ、イアン。」
「待ってくれ!彼は騎士を連れているか?敵の数は?情報が少なすぎる!僕は魔法を封じられているし武器もない、どうやって檻から出るんだ。君は風の刃でも使えるのか?」
「うるさいのう、おぬし聞いてばかりではないか。」
「君が説明しなさ過ぎなんだ!いっ、つ……」
勢いあまって左手で鉄格子を掴んでしまい、イアンは激痛に顔を顰めて手を離した。エリが「説明していない」だけならまだマシだが、「考えていない」なら大問題だ。
下手に逃げようとして捕まれば、次はエリも魔力封じを付けられるだろう。飛び出したところで多勢に無勢なら、どの道脱出が叶わない可能性もある。
「風の刃はロイが言ってたやつじゃろ。」
「誰だよ…」
「鍵を壊せばよいな?うむ。血の助けがあるゆえ、多少の無茶は利くはずじゃ」
ぶつぶつ独り言を呟き、エリは未だに血がダラダラと流れる親指をぎゅっと握り込む。その拳を牢の鍵へ向けて宣言を唱えると、檻の扉の一部ごとズパンと切断する風の刃が放たれた。
床にまで入った切れ込みはコントロール不足の証だ。イアンが顔を引きつらせている。
「よいしょと、ほうら出れたぞ!ふふん、次はおぬしじゃな。」
「エリ嬢。僕はここにいるから。いい?君はそこへ立ってあちらを向いて、こういう角度で魔法を」
「ごちゃごちゃうるさいのう!出れればよかろう出れれば!」
「シーッ!大きな声を出さないでくれ!良い子だから!」
そんなやり取りはあったがイアンも無事に檻の外へ出た。
牢部屋から出る前に左腕の怪我を治しておこうとエリが提案する。
「ありがたいが、君は治癒も得意なのか?」
「当たり前じゃ!オトコを落とすには、疲れ傷ついた時の癒しがキモと聞く。ヴェンを癒すため特に鍛えておった。あっ、おぬし…」
「うん?」
ハッとして声を低めたエリに、イアンも何か不安があるのかと真面目な顔で聞き返す。
エリは疑うように目を細め、胸元を守るように両手を交差させた。
「いくらわらわが麗しの美女でも、治したからといって恋に落ちるでないぞ。面倒じゃ」
「……言っておくと、僕には同い年の婚約者がいる。式の日取りも決まってるし」
「ほう!可愛いのか?美人系か?このこの!」
「いいから、やるなら早くしてくれ!君がずっと流血してるのが気になって仕方ない!」
黒水晶の首輪さえなければ自分である程度治すのだが、今は頼るしかない。
後で詳しく聞かせろと言うエリに適当な返事をして、イアンは牢部屋の入口を見やった。エリがぶつぶつと宣言を唱え、イアンの傷に手をかざす。
――言うだけあって、上手いな。
イアンは素直に感心した。エリの治癒は傷口に温かく濃密な泡が触れるような感触があるくらいで、少しだけくすぐったいけれど、副作用と呼ぶ程ではない。
痛々しい傷跡はハッキリ残っているが、ひとまず拳を握ったり開いたりしても響かないくらいには治ったようだ。
「ありがとう。できれば武器が欲しいから、道中あれば確保していこう。」
「うむっ。ではよろしく頼むぞ」
「ああ、こちらこ…そ……」
シャツの袖口を直して振り返ると、エリが縮んでいた。
声は幼くなったように感じられ、見た目は元通りにシャツとズボン姿の少女がポンチョを羽織っている。イアンは瞬いた。走るなら絶対に大人の姿の方が早いはずだ。
「……そう、か。化けるための魔力が尽きたのか。」
「こっちが化けた姿じゃ阿呆め!」
「いたっ、な、何だって!?なぜわざわざ…」
「靴が子供用じゃからな、あちらの姿だと入らんのじゃ」
言いながら、エリはペタペタと自分の檻に戻って靴を履いた。
通路の石床は冷たかったろうに、イアンの解放と治癒を優先したのだ。
「それに戦いは不慣れでのう、足が竦むかもしれぬ。そうなると大人の身体の方が的が大きい。」
「理解したよ。姿を消す魔法は使える?」
「わらわ達を攫った者が使っていたやつか。できん」
「…そっか……」
もしやいざという時は自分がエリを抱えて走りつつ、敵の追撃をどうにかするしかないのか。
イアンは眉を顰めてこめかみに手をあてた。
体格も良く筋骨隆々のヴェンならいざ知らず、イアンにそれがこなせるかは甚だ疑問である。しかし少女一人ここへ置いていくわけにはいかない。意を決して顔を上げる。
「…まだ、正式に名乗っていなかったね。僕はイアン・マグレガー。侯爵家の長男だ」
「ほう。中々のお偉いさんの坊ちゃんという事か」
「助かったら、君達に沢山お礼をしなきゃな……よし、行こう。」
「うむっ!」
不安を振り払うように笑い合い、二人は耳を澄ましてから慎重に扉を開けた。
酒瓶が乗ったテーブルと椅子三脚、牢番がいるべき部屋には誰もいない。頷き合い、忍び足で反対側の扉へ向かう。
伸ばした手がドアノブに触れるより早く、扉が勝手に開いた。
足音はしなかったはずだ。イアンは咄嗟にエリを庇いながら後ずさった。
「おや、もう出てきたんですか?ンッフフ…お転婆ですねぇ。」




