418.一目惚れ兄妹
ロベリア王国 王城――第三王子の執務室。
「なんて事だ……」
食後の会議も終えた夜十時、自分宛の手紙に目を通していたヴァルターはため息混じりに呟いた。
やや外跳ねした髪は肩を越す長さで、襟足で一つに結ばれている。特徴的なのはロベリア王家直系に特有の、白から青へグラデーションになった髪色だ。
眉目秀麗で瞳は青く、有事に動ける程度には体も鍛えている。しかし目元に浮かんだクマがどうしても不健康な印象を与えていた。
手紙の差出人はツイーディア王国宰相の息子、ルーク・マリガンだ。
かつてロベリアに留学していた彼をヴァルターはもう一人の兄のように慕い、尊敬している。首元に薄青いガラスの嵌ったゴーグルを下げているのも彼の影響だった。
――シャロン嬢は、俺が女性を苦手にしていると知って…男装しようかとまで考えてくれているのか……。
ヴァルターは思わず奥歯を噛みしめ、にやける口元に手の甲をかざす。
頬はうっすらと赤らんでいた。彼女が自分の為を考えてくれた事が嬉しい。
シャロン・アーチャーはツイーディア王国の公爵令嬢で、会った事もないヴァルターの初恋相手だ。
微笑む令嬢の絵姿を見てヴァルターは初めて女性に見惚れ、さらに彼女が実在すると知ってひどく驚いた。会ってみたいと思うのは当然だ。
彼女に会うため、十二月にツイーディアの王立学園を訪れる事も確定した。
――二ヶ月前、俺と会ってくれるらしいと書かれていた時も嬉しかったが……その後、ルークへ彼女についての質問を書き綴ったら返事は「うるさい」――手紙に対してそう書いてくるところがルークらしいが――久々の情報が俺を思いやる内容だと、胸に沁みるな。
今年で十七歳になる第三王子、ヴァルターは未だに婚約者がいなかった。
というのも、女性に触れられないのだ。
それは彼が十一歳の頃、年上の貴族令嬢から薬を盛られて個室に連れ込まれ、無理矢理襲われかけた事による。
下を脱がされる前に助かったが精神的ショックは大きく、母や姉妹以外の女性に対して身体的な接触ができなくなった。盛られた薬の解毒に、副作用として強い吐き気が伴ったせいでもあるだろう。
我慢すれば手袋越しのエスコート程度は可能だが、必要以上に近付かれるのも手指が直接触れるのも拒絶反応を示すようになった。
そして去年。
ヘデラ王国第一王女、ロズリーヌ・ゾエ・バルニエの来襲である。
どうしても別件で手が離せなかった兄王子二人に代わり、またロズリーヌが未婚の王子による対応を求めた事もあって、ヴァルターが案内せざるをえなかった。
悲劇は手袋を引き剥がされての強引な素手の握手で始まる。
挙げればキリがない暴言、暴挙、侮辱、破壊、無礼、彼女が王族である事を幾度疑ったかわからない。
末王子として国内外の交渉役も多く買っていたヴァルターは限界まで努力したが、貴重な絡繰りを破壊しなおも止まらぬロズリーヌにとうとうキレた。
『我が国への留学は拒否させてもらう!貴様のような人間は、勉学に励む者達の邪魔でしかない!!』
普段の彼ではまずありえない怒鳴り声を上げ、ロズリーヌを突き飛ばし、
『わかったらとっとと出て行け!!』
了承した王女を置いてその場を後にした。
廊下を歩きながらため息をついたところで昏倒。自室で目覚めた彼は使用人を呼ぶベルを鳴らしたが、入室した侍女を見た瞬間――胃の中のものを吐いてしまう。
ヴァルターが小さい頃から仕えてくれている侍女だった。
彼を傍で見守り、世話を焼き、時に身を案じて小言を言う、母のような人だ。少しだけ弱音を吐きたい時、聞いてくれる人だ。励ましてくれる人だ。女性の使用人の中でもっとも信頼していた。
それなのに。
慌てて駆け寄ってくる彼女を「気持ち悪い」と思う自分がいた。
ただ心配して世話しようとしただけの、皺の入った彼女の手を震えながら拒否し、目を閉じて顔を背ける。ヴァルターはひどい自己嫌悪に苛まれたが、黙っているだけでは状況は変わらない。
「触らないでくれ」と、「頼むから出て行ってくれ」と、言わねばならなかった。
医師の診断結果は女性恐怖症の悪化。
兄王子や護衛兵、例の侍女を始めとした女性使用人達とも意見を交わし、排除するのではなく慣らす方針になった。ヴァルターが女性を見る度吐いてしまっては仕事にならない。
そうして男装侍女集団ができあがったのだが、誰にとっても予想外だったのは、意外にも男装にハマる侍女が多かった事だ。貴族の中には眉を顰め嘲笑う者もいたが、男装麗人こそ至高と言い出す夫人も現れ、城内には男装侍女のファンがいる始末。
男装の完成度によって少しずつ慣らし、ヴァルターは何とか日常を取り戻した。
しかしただでさえ政務と研究で忙しい中、ヘデラ王国への賠償請求に破壊された絡繰りの精査、修理に必要なパーツの調査等も加わり、徹夜も珍しくない上に二日に一度は悪夢を見る生活が続き、目の下にはすっかりクマができてしまった。
そんな彼が、ガブリエル・ウェイバリーの描いた少女に一目惚れしたのである。
ツイーディア上層部との会議のために訪れた王城で、ヴァルターはそれとなくシャロンの情報を集めた。
聞けば聞くほど気になる令嬢だった。
外見や所作を褒める声はもちろんのこと、去年の女神祭では帝国の皇子が唯一踊った相手だという。帝国と聞くだけで震え上がる者もいるのに。
加えて自ら剣を手に戦う術を学んでおり、ヴァルターが尊敬するルーク・マリガンに弟子入りして《薬学》を学んでいる。
――あのルークが傍にいる事を許した、それだけでも凄いことだ。……早く話してみたい。
目を閉じて深呼吸し、ヴァルターはルークからの手紙を机に置いた。返事には必ず、服装は気にしなくて良いと伝えて欲しいと書き添えなければ。
――…あるいは、カードくらいなら……彼女へ直接送っても良いだろうか。それは気がはやり過ぎか?
悩みながら次の封筒に手を伸ばせば、星をあしらった印璽で押された青い封蝋が目に入る。
差出人はツイーディア王国の第一王子、ウィルフレッド・バーナビー・レヴァインだった。
「…うっ……」
読み進めるにつれ表情が険しくなり、ヴァルターはとうとう呻き声を漏らす。
どうやらツイーディアに留学中のロズリーヌ王女が、謝罪の機会を頂きたいとほざいているらしかった。
ウィルフレッド王子は、自分もロベリアへ行く前のロズリーヌに会っており、印象強い当時の彼女については理解している、と書いている。
ツイーディア国王にも「人が変わったように大人しい」と報告していたようだし、信じ難い事だが、あの癇癪王女は改心したらしい。
――とはいえ、俺が受け入れられるかはまったく別問題だ。どの道許せはしないし、会って普通の対応ができるかは…見てみないと何とも言えないな。
見たくもないがとハッキリ心の中で付け加えた。
ヴァルターにとってロズリーヌはトラウマそのものだ。ツイーディアの王立学園を訪問するにあたって、こればかりは憂鬱だった。会わずに済むならそれに越した事はない。
後ほど丁寧に返事することにして、ひとまず手紙を封筒にしまい直した。
コンコン。
ノックの音に気付いてヴァルターが顔を上げる。
部屋の扉が開き、鋭い目をした背の高い女性がずかずかと入ってきた。
「ヴァルター、入るぞ。」
「…それは入る前に言った上で、俺の返事を待ってから開けてください。姉上」
呆れと諦めを込めた声で言われても構う事はない。
スレンダーラインのドレスに身を包み、第一王女、エーファ・イルムヒルト・ノルドハイムが机越しにヴァルターと相対した。
やや外跳ねした長髪は後ろで高く結い上げ、今年で二十歳になるが婚約の「こ」の字も恋愛の「れ」の字もない。
そんな彼女の後ろからひょっこりと顔を出したのは恋する少女だ。
「こんばんは、お兄様。今日もずるいです」
「やぁ、フィーネ。俺は今日もずるくないよ」
ヴァルターの二歳下の妹、第二王女フィーネ・ラーレ・ノルドハイム。
背中まであるストレートの長髪を一部三つ編みにし、カチューシャのように巻き付けて右側に細いリボンをつけている。表が黒、裏が赤地のリボンだ。ヴァルターは見る度に「重い」と思っている。
柔らかい顔立ちのフィーネはふんわりとしたAラインドレスに身を包み、細い人差し指を唇にくわえて大きな目に涙を溜め、じぃっとヴァルターを見つめていた。お菓子を取られた子供のように。
「未来の妻であるわたくしを差し置いて、ルーク様から直筆のお手紙を頂いたのでしょう?ずるいではありませんか。わたくしがどれだけ愛を書き綴ったお手紙を送っても、ルーク様は焦らしてばかりですのに……ああっ、そんな冷たいところも…好・き!」
「…姉上、昨日がフィーネの見合い日では?五人はいたでしょう。」
「全滅だ。ふん、軟弱者達め。ルークのどこが好きか二時間ほど説かれただけで心が折れたそうだ。」
仁王立ちで腕組みをするエーファがキッパリと言う横で、フィーネは赤く染まった頬を両手で押さえ恥じらうように身をくねらせている。
六年前。
九歳のフィーネは十七歳の留学生ルーク・マリガンに恋をして、即座に言い放った。
『わたくしと結婚してください!』
『断る。何だおまえは』
『フィーネです!』
『そうか。調合の邪魔だから去れ』
『はい!』
以来、飽きもせずにアプローチを続けている。
父王は妻によく似た顔立ちの次女に甘く、じきに戴冠する王太子ギードは「まぁ好きにさせてやれ」というスタンスだ。自称「ルークの親友」であるため、多少の恋文は良いだろうと考えているらしい。
「カルステンお兄様から聞きましたわ、十二月にルーク様に会いに行かれること。」
「学園の視察だな。ルークが目的じゃない」
薄く微笑んだヴァルターはしれっと言ってのけた。
本当は一目惚れした令嬢に会いたいのだ等と言えるはずもない。無論、行くからには仕事もするけれど。
「あんまりではありませんか?お兄様はわたくしの気持ちをご存知ですのに、どうして一緒に行こうと声をかけてくださらないのです。ご自分だけルーク様に会うなんて!」
「お前はまだ学生だからね。気付け薬の調合課題は終わったのか?」
「エメラルド色になりましたわ。教科書には透明だと書いてあったのに…」
「うん、その状態でルークの嫁は無理だ。」
「そんなことっ!」
「俺を訪ねる暇があったら勉強しなさい」
至極真っ当な意見を返したヴァルターに頬を膨らませ、フィーネはぷりぷりしながら部屋を出て行った。
ヴァルターは小さく苦笑し、前へと視線を戻す。
「それで、姉上の用件は?」




