413.唯一の罪滅ぼし ◆
『…まさか、死ぬ気ですか?貴女が?』
からからに乾いた喉で僅かな唾を飲み込み、緑髪の男は掠れた声を返した。
薄暗い牢獄の明かりに照らされ、桃色の瞳は鉄格子の向こうを見つめている。粗末な椅子に腰掛けた女性がくすりと笑った。
『どうにも頭が良くありませんから、なかなか時間がかかりましたわね。……わたくしがここにいるから、お兄様達は今、縛られている。そうでしょう?』
でなければ会いに来てくださるものと彼女は言う。
来ないのなら、来れないのだと。恐ろしい事が起きていると、ようやく悟って。
『だからもういいのですわ。決めました――この命は、ここまでだと。』
『っ……!』
冷たい石の床に膝をつき、男は二人を隔てる鉄格子を掴んだ。
囚われの貴人は立ち上がると、彼の前で同じように両膝をつく。
かつて丸々としていた彼女の身体は不健康にやせ細り、輝いていたプラチナブロンドも今はくすんでいた。薄青色の瞳だけが変わらない。
『な、んで……そんな事を、言うんです。』
男が絞り出した声は震えていた。
彼は戦う力などまるでない腰抜けだったから、見張り番はこの牢部屋の外にいる。再会の日から今日まで、二人は何度も会って沢山の話をしてきた。
彼女が怒って暴れて、男が苦笑いして。
拗ねても彼女に逃げ場はなく、男の話を聞くしかなく。
やる事がなければ自然、男に言われた事を思い返した。
『わたくし、貴方のお陰で目が覚めましたもの。自分の状況を考える事もできましたわ』
『駄目だ!……違う、でしょう。そんな…』
学園でどうして上手くいかなかったのか。
愛されているはずの彼女がなぜ、欲するままに与えられなかったのか。
あの王子は、令息は、令嬢は、平民達は、何を思って彼女に言葉を投げていたのか。
少しずつ理解し、納得し、後悔して、ようやく。
ヘデラ王国第一王女、ロズリーヌ・ゾエ・バルニエはすっかり人となりを変えていた。
『ここに居れば貴女は少なくとも、』
『生きてはいる……えぇ、そうですわ。わたくしが生きている事が問題なの。ラウル』
『……昔の貴女は、そんなにいなくなってしまいましたか。もっと、自分の事を…』
桃色の瞳を持つ目を閉じ、項垂れて男は唇を噛みしめる。
あまりにも非力だった。
逃げてくれとも、逃げようとも言えなかった。だって、その先に何があると言うのか。
入学した日に戻ってやり直したいと、何度も願っていた王女の言葉を思い返す。戻りたいという気持ちの強さは男も同じだった。全てをやり直せたら。
鉄格子を掴む手に力がこもる。
――ずっと、目を背けてた……どうせ、助からないって。あいつはきっと、いつもみたいに笑いながらこの人を死なせてくんだ。…そ……そうなる、くらい、なら……。
『ね、お願いしますわ。』
そっと手に触れられて男はビクリと肩を揺らす。
心を入れ替えた王女殿下はやつれた顔で、それでも希望を見つめるように微笑んだ。
『わたくしに死に方を教えてくださいな。』
男の目から涙が溢れ出す。
牢で再会した時こそ、傲慢な王女の行く末などどうでも良いと考えていた。相手をするのも面倒で退屈だと思っていた。
けれど彼女はきっとこれまで、高貴な生まれ故にハッキリ言ってくれる誰かがいなくて。居たとしても追い出す力があって、逃げ込む場所もあって。
この牢部屋に来てようやく、向き合う事ができたのだ。
いつの間にか、男は少しずつ変わっていく彼女と話す時間が楽しくなっていた。
たった一人の友人ができたと思っていた。
黒く塗り潰された人生の中で少しだけ、僅かでも良い事をしていると思えた。それなのに。
――もうそれしか、してやれる事…ないの、かな。……あるわけ、ないか。
『…一つだけ……ど、毒を、持ってます。』
男は震える手で毒薬を取り出した。
彼には帰る場所などどこにも無かったから、一緒に死んでしまいたいと思ったけれど。自分も死ぬと言うつもりで口を開いたけれど、恐怖でどうしても声が出ない。
鉄格子の隙間から伸びた手が、毒の入った薬瓶を奪ってしまった。
『あ……』
『これを飲めば良いんですのね。…ありがとう。』
彼女は微笑んでいるのに、まるで泣いているようだと男は思う。
立ち上がったロズリーヌは一歩下がり、今更引き止めるように伸ばされた手は届かなかった。
『わたくしは自由と音楽を愛するヘデラの王女――ロズリーヌ・ゾエ・バルニエ。』
細くやつれた手にあるのは奇跡の薬ではない。自決用の毒薬だ。
空も見えない牢の中、ロズリーヌは天井を仰いで遠い故郷を想った。
『国に自由を、民に自由を。これが愚かに生きてきたわたくしにできる、唯一の罪滅ぼしですわ。』
『…ッ嫌だ、待ってよ!駄目だ!』
『さようなら、貴方。』
男の瞳を真っすぐに見つめ、唯一の友人は温かく微笑んだ。
『どうかわたくしの分まで、生きてくださいな。』
笑い声が響いている。
『‘ あっはっはっはっはっは!!ちょーウケる! ’』
腹を抱えて笑う男の足元で、薄紫の髪をした青年が血と吐瀉物にまみれて倒れていた。
痛めつければ言う事を聞く、臆病者のジャッキー・クレヴァリー。変装に使っていた緑色のウィッグはとうに外れ、桃色だった瞳は髪と同じ薄紫に戻っている。
捕まって拷問にかけられた場合にと渡した毒薬を、まさかロズリーヌに使うとは。
息も絶え絶えのジャッキーを蹴るため、笑顔の男は片足を軽く引いた。
『お前みたいな馬鹿でもさぁ!人質を勝手に殺しちゃ駄目って事くらいわかってただろ。なぁ!なあ!?あはっ、緩んでた頭のネジとうとう外れちゃったかー、なっと!』
『う゛ッ、ぐえ、…っおぐ、ぅう゛!』
『‘ …そっちのお前もだよ、見張りって言葉の意味わかる?わかんねーか!じゃなきゃこうならねーよな! ’』
『‘ っお、お許しを!そいつがまさか―― ’』
『‘ じゃ、あ、な! ’』
激痛と眩暈と吐き気の中、意識が遠のきそうな頭に冷水を浴びせられて、ジャッキーは咳き込みながら目を開いた。
ゼィゼィと耳障りな呼吸音は自分のものだ。
視界には先程まで無かった赤い血だまりができていたが、予想できていたためか驚きはしなかった。恐怖で身体が強張るだけだ。
ようやっと笑いの止まった男はドスドスと、見張りの死体に剣を刺し続けている。
ロズリーヌの遺体を運び出す部下達は慣れているのか無反応だった。
『――お前じゃなきゃ殺してたんだぜ?ジャッキー。あんな干からび女でもオレのなんだからさぁ。勝手に潰しやがって。』
『げほっ…ごほ、っ……ずみま、ぜ…ッぐう!!』
『謝って済んだら刑罰とかねぇから!しょうがねぇなーお前は。ロズリーヌの解体手伝う?』
『ひっ!?い、嫌だ!嫌です、お願っ、お願いじます、それは…っぐ、ぞれ、だけは……』
『ぷふっ、くくく……』
身を縮めて床に額を擦りつけるジャッキーを見下ろし、男は肩を揺らして笑う。
靴裏でジャッキーの頭を軽く踏んでから、真綿で包むように優しい声で言った。
『そ~んなビビんなって。いいよ?許してやるよ。お前にはやってもらわないといけない事があるからさ。ほら、覚えてるだろ?』
『っ……』
『覚えてるよな?何のために苦労してアベルを見せたと思ってるんだ?くく……できるよな?』
『はぁっ、はぁっ…!あ…ッ、お、俺、俺ちゃ、は……』
『しくじったり手ぇ抜いたらもちろん殺すぜ、まさに命懸けの大舞台!』
ガタガタと震えるジャッキーの肩を爪先で小突く。
無邪気な子供のように小首を傾け、男は未来を想って笑みを深めた。
『最高の余興を頼むぜ?稀代の名優さん。』
◇ ◇ ◇
シャロンやウィルフレッド様達と一緒のお昼時。
私はご飯を食べ進めるのも忘れて、ちょっと怖いのにそれでもつい、レオの話に耳を傾けていた。
「――笑い声が止んだと思ったら、上から血が垂れてきて……これは本当にヤバイ、ってんで慌てて逃げたらしいぜ。」
話し終えたレオは大きなお肉をフォークで刺して、ばくっと食べる。
友達に聞いたばかりの、最近の噂話らしいけど。まさか学園に幽霊が出るなんて……レオが全然怖がってないから、私もまだそんなには怖くない。ちょっと不気味だな、とは思うけど。
ウィルフレッド様は興味深そうに頷いた。
「血か…それは他の生徒も目撃したんだろうか?」
「んぐ…翌朝何人かで確認に行ったら、血なんか無かったみたいで。嘘とか寝ぼけてたとか言われてるみてーだな。」
もごもごとお肉を噛みながらレオが言う。
ちょっとお行儀が悪い。心なしか冷ややかな目をして、サディアス様がため息混じりに眼鏡を指で押し上げた。
「裏庭の東屋、それも最奥ですか。滅多に人が来ない場所でしょう。その生徒が来る事を知っていた何者かの悪戯では?」
「そ、そうだよねぇ!俺も悪戯に一票。幽霊とかいるわけないし☆」
チェスターさんは今日もニコニコ笑顔だけど、あれ?ちょっと引きつってる?気のせいかな。シャロンはどうだろと思ってそちらをみたら、ちょうど目が合った。
「…裏庭の東屋については、こういう話もあったわ。かつて女神様に賜った《祝福の杯》を飲んで、意中の相手と結ばれた生徒がいたのだと。」
「そんな噂もあるのか。」
ウィルフレッド様が瞳を丸くすると、シャロンは「ただ、私達が生まれるより前の事だそうよ」と続けた。
当時の女子生徒にはすごく人気の噂だったけど、その後同じ体験をした人は誰もいなくてすっかり忘れられていたらしい。
今回の幽霊騒動を聞いて、長年勤めている《治癒術》の先生が「そういえば」と教えてくれたんだって。
「んじゃ、女神サマが悪霊にでもなっちまったんじゃねーの?」
「ダン。」
にやりと笑って言ったダンさんをシャロンがやんわり窘めた。
私は《神話学》を受けてないから詳しいお話はわからないけど、あんまりそういう事言っちゃいけない凄い人達だって事くらいはわかってる。
月の女神様と、太陽の女神様。
女神像なら下町の教会にもあったからね。
大昔、最初の王様……ウィルフレッド様やアベル様のご先祖様と、一緒に戦ってくれて。それでツイーディア王国ができたとか。十二月に行われるお祭りも「女神祭」だし。
不気味に笑う幽霊に、恋を叶える女神様、かぁ……。
どうせいるなら、女神様の方が良いな。
夜に裏庭の奥なんて絶対行かないし、私が出会う事はまずないと思うけど。
早めに次の教室へ向かうのか、苦笑いのチェスターさんが立ち上がった。
「まぁまぁまぁ、噂だよね☆……後でアベル様にも話してみよ~かな…」
「ッ!おいチェスター。お前背中に何か…!」
「はっああ!?いやいやダンくん、趣味悪いって!」
「くっくっく…げほっげほ!」
背中を丸めて咳き込んでるダンさんの肩を、チェスターさんがべしっと叩いた。同い年だからなのかな、この二人は結構仲良しだよね。
ウィルフレッド様とサディアス様は二人を見るでもなく小声で何か話してて、レオはダンさんに背中を叩かれて噎せた。
シャロンは……考え事してるのかな。ちょっとだけ眉を顰めてる。腑に落ちない感じっていうか。私がじっと見たせいか、シャロンはぱちっと瞬いてこっちを向いた。つい慌てて手を軽く振る。
「あ、ごめんね。じっと見ちゃって。」
「大丈夫よ。…カレンは、噂が本当か見に行きたかったりするの?」
「えっ?気にはなるけど……いいかな。」
どうしても知りたいってわけじゃないし、私が行くって言ったらたぶん、シャロンは心配するもんね。自分も行くとか、レオを連れて行ったらとか、言うかもしれないし。
行ってもし恋を叶えるの目当てで来たご令嬢なんていたら……それが、私のクッキーを踏んだあの子みたいな人だったら、危ないから。
「そうよね。夜に出歩くのは危ないわ」
「うん、心配しなくて大丈夫だよ。」
「ふふ」
シャロンは優しく目を細めて笑ってくれて、
「階段を上り下りする時も、きちんと気を付けてね。」
そんな事を言う。
私、だいぶそそっかしいと思われてるのかもしれない。
シャロンの前で躓いてダンさんに助けてもらったりとか、うっかり転びかけて前にいたレオに頭突きしたりとか、あったからかな……。
ちょっと恥ずかしい。
顔が赤くなってないか気になりながら、小さい声で「気を付けるね」と返した。
最近、ロズリーヌ殿下も階段に気を付けてるもんね。
今日も遠目にだけど、誰か探すみたいにきょろきょろしてから足下を見て、一段ずつ真剣に上がる姿を見かけた。お付きのラウルさん?も、何かあればすぐ支えられるよう、殿下の背中に手をかざしてたし。
……それとも、あれは何かの特訓だったのかな……?




