40.俺と僕 ◆
『アベルー!』
太陽は眩しく光っていた。
当時まだ五歳の俺は笑顔で、城の中庭でようやく見つけた弟のもとへと、大きく手を振りながら走っていた。
『なに。』
池の端に座っていたアベルが立ち上がり、落ち着いた様子でこちらを振り返り――止まりきれなかった俺に激突されて、一緒に池へ落ちる。
水しぶきと通りすがりの使用人達の悲鳴が上がった。
『ぅわあああ!ごめんアベル!水が!水が!』
『ッ暴れないで…!運びにくいでしょ』
反射的にじたばたしてしまう俺の襟首を自身の肩へ引っ張り上げ、アベルが岸へと泳いでくれる。
さほど距離がなかった事もあり、また飛んできた使用人達の手も借りて、俺達はすぐに池から上がる事ができた。その後は湯浴みへ強制連行だ。
すっかり身体が温まってから、アベルの手を引いて俺の部屋に向かった。
バルコニーへ続く扉を使用人に開けてもらって、外の風にあたる。会話を盗み聞きしないように、使用人は自ら部屋の中へ下がってこちらを見つめていた。
手すりにはまだ届かないし、その手すりを支える支柱の間からは外は見えても身体は通らない。安全なはずだけど、それでも心配らしい。
『ごめんアベル、ぼくのせいで…』
『別にいいよ。ぼくがあんな場所にいたのが悪い』
なぜか自分のせいだと言うアベルが不思議で、俺は首を傾げてしまう。アベルは城の敷地よりも先を見ていて、まるで空と地面の境目を探してるかのようだった。
『それで、用はなんだったの。』
『そう!そうだった。今ぼくたち、《ぼく》って言ってるだろ?』
『うん。』
『大人は《おれ》って言うんだって!』
『………、なるほど?』
誰に聞いた情報だったかはすっかり忘れてしまったけど、この時アベルが少し黙ったのは、反応に困っていたのかと今では思う。成人男性の一人称が俺で統一されているかといったら、そうではないのだから。
ただ、当時の俺はそういうものなんだと思い込んでいた。
『ぼくは兄だから、これから《おれ》にしようと思うんだけど、どうかな?』
『いいんじゃないの。』
『じゃあそうする!』
俺は嬉しくてにこにこしていた。
大人の中にはアベルを「可愛くない」とか「全然笑わない」と言う人がいたけれど、目の前にいる弟が小さく微笑んでくれている事も、その目がとても優しい事も、俺にはわかっていたから。
『それなら、ぼくは《ぼく》のままがいいのかな。』
『あ!そっか、でもそれはさ、アベルの自由にしたらいいと思う。』
お前は弟だから《ぼく》のままにしておけ、と言いたかったわけではないけれど、そう聞こえなくもないと気付いて俺は慌てて手を振った。
『好きにするよ。ぼくはウィルの弟だからね。』
『う~ん?本当にいいんだからな!』
念を押してもアベルは笑うだけだった。本当に、「全然笑わない」と言う人達はどこを見ているんだろう。アベルの何を知っているというのだろう。
――なんて愛想のない。
――笑顔の一つもありませんな。ふてぶてしい
――殿下、あまり弟君に近づかれませんよう。御身に何かあれば…
――第二王子殿下は子供らしくなくて不気味だよ。
――短剣を持っていたというのは本当で?恐ろしい。
『………。』
『ウィル?』
つい怒った顔になってしまった俺に気付いて、アベルが声をかけてくれた。はっとして、無理やり笑顔を作る。心配をかけたくないし、話したって嫌な気持ちにさせるだけだ。
『アベル、大丈夫だ』
俺は弟の手を握って、その瞳をじっと見た。父上と同じきれいな金色。
俺と一緒にこの世に生まれてきて、この先もずっと一緒に生きていくだろう、大事な弟。
『おれは兄なのだから、アベルをまもるよ。』
当たり前だと思うのに、アベルはなぜか驚いたように目を丸くしていた。
それから、苦笑する。
『ぼくを池に突き落としたのに?』
『あ、あれはだから、ごめんって。』
『ふふ』
俺達は仲の良い兄弟だったと思う。
『じゃあぼくもウィルを守るよ。弟なのだから。』
『えーっ!弟にまもられるなんて、かっこわるいじゃないか。』
『嫌ならがんばるんだね、ぼくに守られないように。』
でも、
『よーし、見てろアベル!おれは強くなるぞ。がんばる!』
『うん。がんばれ、ウィル』
どんなに頑張っても、俺は――…
『そこまで。勝者、アベル第二王子殿下。』
何度も聞いた言葉。
差し出された手に気付かないフリをして立ち上がると、アベルは黙って手を引っ込め、剣を前に掲げた。
『ありがとうございました。』
『…ありがとう、ございました。』
俺は肩で息をしているのに、アベルの呼吸はほとんど乱れがない。疲労困憊状態になってるのは俺だけだ。
踵を返してその場から離れ、崩れ落ちるように壁際のベンチへ腰掛けた。
アベルは毎回恒例になった、騎士団の希望者からの挑戦を受けている。それも一気に複数人を相手取って。もちろん難癖をつけそうな人達には内緒の取り組みだ。
希望者が多過ぎるため、時間をかけると全員回せない。ほとんどが一、二撃で打ち倒されていくのは、順番が後の方が強い騎士を配置しているから。
『…第二王子殿下さぁ、自分の兄貴にだけやたら時間かけるよな。』
離れた場所で見学している騎士達の声が、微かに聞こえてくる。
『あの力量差ならもっと早く決着つけられるのにね。』
『まるでいじめだ。見ててちょっと気分悪いわ』
『遊ばれてるみたいで可哀想だよな……』
『長引いたって事にするのが大事なんじゃない?王族的には』
無意識に、唇の裏を噛んでいた。
俺だってわかっている。本当ならもっと早く倒されているだろう事を。
アベルはいじめてるつもりも、遊んでいるつもりもないだろう事も。だってそんな事をする奴じゃない。
……でも、じゃあ、どうして?
『いやぁ、相変わらずすごいですねぇ。』
いつからそこにいたのか、アベルの護衛騎士であるロイ・ダルトンが話しかけてきた。開いているかすらわからない目も、いつも薄く笑みを浮かべているのも、「読めない男」という印象が強い。
彼が見学席へ顔を向けると、ひそひそ話していた騎士達がギクリとして口を引き結んだ。
『……貴方は参加しないのか。』
『ンッフフ、私など参加しても…ねぇ。やる気のある人に回すべきですから。』
俺の護衛であるヴィクターとセシリアも順番待ちをしている。
そのあたりまでいくと複数人ではなく一騎打ちに入るのだが、ヴィクターは必死に、セシリアは楽しそうに打ち合って、二人とも豪快に負ける。
アベルのもう一人の護衛、リビー・エッカートなどは負けた後いつも恍惚の表情だ。口元は布に隠れて見えないけれど、目がうっとりしているからわかる。
打ち合いの中、弾き飛ばされた剣がロイへ向かって飛んできた。
『おっと。』
彼は直上へ蹴り上げてガキンと音が鳴り、回転しながら落下した剣は演習場の地面へ突き刺さる。稽古用に刃を潰されているとはいえ、当たればそれなりの怪我を負っていただろう。
持ち主らしき騎士が青ざめて走ってくる。アベルはこちらを見もせずに剣を振るい続けていた。
『はは…荒い忠告だ。』
ロイの言う意味がわからず彼を見たけれど、やはりその笑みからは何もわからない。
『けど、ねぇ。ウィルフレッド様。』
刺さった剣を抜いて数歩進み、回転しないように持ち主のもとへ放ってロイが言う。
『わかりませんか?』
俺に背を向けたままだった。
声色も変わらないように思えたのに、なぜか空気が張り詰めたような気がする。何の話だと聞こうとして、ロイが左にずれた瞬間、その横を剣が通り過ぎる。
ガキィン!
壁に跳ね返って回る剣をぱしりとキャッチして、振り返ったロイは口を開けて笑った。
『アッハハ、怒られちゃいました。』
『な…』
二度も剣が飛んできた事に驚き俺が視線を移すと、ただ一人立っているアベルから、負けたらしい騎士達がよろよろと離れていく。
ロイがそちらを見ると、アベルは無表情に指で示した。こちらへ来いと。あれは怒っている顔だ。ロイも怒られたと言った。…でも、何を?
それよりわざと剣を飛ばしたのかと、弟の所業に眉を顰めてしまう。危ないだろう。
『ご指名じゃしょうがないですねぇ。』
たったった、と走りながらロイが呑気に言う。
一歩ごとに足を速め、やがて駆け――その長身から繰り出される重い一撃が剣を打ち鳴らし、演習場をビリビリと揺らした。俺なら力負けしていただろうそれを、アベルは眉を顰めながらも受け切る。
ロイの参加が珍しいからだろう、見学している騎士達もざわざわと色めき立った。
激しい打ち合いを、ただ眺めていた。
俺よりずっと強い弟の姿。
わかっていた。
たぶんこの先も、俺はあいつには…
勝てないと。
――そんな奴じゃないって思いながら、心のどこかで怯えていた。
俺を見下していないか
馬鹿にしていないか
『魔法さえ使えれば、次代の王はアベル様に決まりだったろうに』
そんな声がどれだけ聞こえてきたか。
授業をすっぽかしたってアベルが不勉強な発言をした事などなくて、状況についていけない俺に説明もないまま泣き叫ぶ人々を引きずっていって、
アベルは常に尊敬と畏怖の渦中にいた。
俺はいつの間にか弟の事がわからなくなった。
弱い自分が情けなくて、説明してくれない事に苛立って、心の拠り所だったシャロンのところへ何度も逃げた。
アベルを見る度に自分の弱さが、小ささが浮き彫りになるようで怖かった。顔を合わせたくなかった。
でも、サディアスの言葉を聞いて。
『はっきり言いますが、容疑をかけられながらアベル様が黙っているのは、貴方とヴィクターの今後を案じてのこと。あの方が声高に無罪を主張すれば、それこそ私の父のような者達が貴方がたを有罪にするでしょう。』
あまりに予想外で、俺は、驚いていた。
俺は兄なのに、アベルがそんな事を考えていたなんて気付けなかった。
アベルの気持ちを利用した奴を、気付けなかった自分を――許せないと。強く思った。
『もっと、何ていうか…よほどの物証か何かがあって、突きつけに行ったわけではないんだ?』
『なかったさ!ただもう、居ても立っても居られないというか、まぁ、その…腹が立って。』
『豪快だね、ウィル。かっこいい兄を持って僕は幸せだよ。』
『お前!それ絶対に思ってないだろう!』
久し振りに、アベルと真正面から話した。
呆れの混じった笑顔には確かに喜びがあって。俺は一体いつから、この瞳を見れなくなっていたんだろう。周りの声ばかり気にして。
こんなにも真っ直ぐ、俺を見てくれるのに。
『私、何の役にも立てなかったわ。…だからこそ、次があった時のために強くなる。』
弟より弱くて情けないと思っていた俺には、
弱い俺では守れないと思っていた、俺には。
『足手まといにならないように。そしていつかは私だって、貴方達を守れるように。』
シャロンの言葉が眩しかった。
誰かを守りたいという気持ちは、守ろうとする事は、その相手より強いか弱いかなんて関係ないのだと。
……当たり前の事に、今更気付いた。
守るためには、アベルに勝てなきゃいけないと思っていた。
それがいつの間に、「勝てない自分は駄目だ」と、その一言に変わっていたんだろう。
アベルより弱くたって俺にできる事はあるし、俺はあいつを守りたい。
だって、俺は。
「そこまで。勝者、アベル第二王子殿下。」
何度も聞いた言葉。
差し出された手を掴むと、アベルの手がぴくりと震えた。見上げると目を丸くして固まっている弟がいて、息切れしながら俺がにやりと笑ったら、ようやく引っ張り上げてくれた。
「…ウィル」
「うん、アベル」
確認するように俺の名を呟いた弟を、呼び返す。
負けたのに、いつも通りに疲れ切って息も苦しいのに、なぜか気分は晴れやかだった。自然と顔がほころんだ。
「お前はやっぱり強いなぁ。」
まだまだ俺は、その傍に立てそうにないけれど。
アベルはどこか信じられないような顔で俺を見つめてから、少しだけ眉尻を下げて笑う。
「ウィルの弟だからね。」
「はは、兄も頑張るよ。」
「…うん。頑張れ」
たった一言が温かくて。俺は久し振りに――…ようやく、その心に触れられた気がした。
アベルは今でも俺を見てくれていたんだ。出来損ないだとか、どうでもいい相手だとか、そんな風には思っていない。ただ、普段はっきりと言葉にはしていないだけで。
長らく素直じゃなかった俺達は手を離し、互いに一歩後退して胸の前に剣を掲げた。
「「ありがとうございました。」」
そして笑い合う。
なぜか沸き起こった拍手の中、連戦を控えた弟に「頑張れ」と手のひらを向ければ、小さく微笑んでパチンと手を合わせてくれた。
後できちんと謝ろう、これまでの態度を。
俺が勝手に卑屈になっていた事を告げて。
ベンチに向かいながら、俺は悪い事に……「あの事件が起きてよかった」なんて、思ってしまった。
シャロンがあの日、王立図書館に来てくれた事も。
だって彼女がいなければサディアスは机の下に隠れる事なく、伯爵たちの話は聞かなかっただろう。きっと俺は何もできないまま、事件は騎士団が解決していた。
自分よりずっと背の高い大人を何人も圧倒する弟を眺めながら、俺は密かに、彼女に感謝した。




