406.頭が真っ白です
アベル様と約束した土曜日の午後、私は《護身術》を受ける時と同じに運動着へ着替えた。
三つ編みは二つとも解いちゃって、今日は一つ結び。
デイジーさんがレベッカにいつも言うように、まずは鏡の前に立って髪がぼさぼさしてないか、目やにとか、お昼ご飯の食べかすがついてないか、服にシミとかないか、確認する。
うん、たぶん大丈夫!
約束の時間よりちょっと早めにコロシアムへ。
入口に貸し切りの札がかかっていて、アベル様の名前が書かれてる。訓練場でやったら絶対に目立つし落ち着いてできないからって予約してくれた。
休日にわざわざここへ来て、しかもこれを見た上で突入してくる人は中々いないと思う。
重い扉をよいしょと開けて中に入り、
「ああ、緊張するなあ。」
独り言を呟いてコロシアムの地面を踏みしめた。
来月にはここで剣闘大会が開かれるらしい。
もちろん私は出ないし、レオやシャロン達は出る。当日は応援に行かなくちゃ。
さて、アベル様が来る前に準備運動を済ませておこう。
腕を高く上げたり、回したり、脚を曲げ伸ばししてみたり。《護身術》の授業でやる手順を思い出して身体をほぐしていく。
あれ?立ったまま前屈みになって地面に手を伸ばすのは、さっきやったっけ?忘れちゃったから、もう一回やっておこう。いたた……これで終わりかな?
ぐっと両腕を高く伸ばして、ふうっと息を吐く。こういう時、なんでか自然と笑顔になる。
「よし!」
「終わった?」
「わぁああ!」
思わずビョンと跳びあがって、バクバク鳴る心臓を押さえて振り返る。
入口見えるとこでやればよかった、入口が見えるようにやってればよかった!背中向けちゃってた!!
軽装のアベル様が呆れ顔で私を見ていた。
「…今日もそれか。」
「ご、ごめんなさいっ!」
「謝れとは言ってないでしょ。」
「うっ……えと、つい反射的に…。」
終わったか聞かれたって事はつまり、見られてたって事だよね。準備運動を……ちょっと恥ずかしくなってきた。
アベル様は私との間にある地面を見て「この距離でも駄目か」って呟いた。二、三メートルはある。
確かに真後ろで声をかけられるよりマシだけど、そこじゃないと思う。
「そのっ、今日はよろしくお願いします!」
「うん、よろしく。」
ぺこりとお辞儀して頭を上げる。
アベル様、制服の上着はどこかに置いてきたのかな?私は着替えたけど、アベル様は運動着じゃなくていいのかな。
腰にはいつも通り剣を納めた帯剣ベルトがあって、珍しく白い手袋をつけてる手には、長い木の棒。私の身長よりはちょっと短いかなってくらいの。
『僕に頼んだんだ、優しく教えてもらえるとは思ってないよね。』
そう言ってたけど……私もしかして、あれで叩かれるの?
ごくりと唾を飲み込む私の横を通って、アベル様は棒でテキパキと地面に大きな四角を書いた。私を囲むお部屋ができる。その広さには覚えがあった。
「これって…」
「《護身術》の試験、これくらいのスペースだったでしょ。」
「うん!そうです。逃げるか何とかするかで……私、捕まっちゃって。」
「じゃあ僕から逃げてくれる。」
「えっ。」
私は胸の前で両拳をぎゅっと握ったポーズで固まって、アベル様を見る。棒が線の外側に放られた。
逃げろって……
「反撃してもいいけど。」
「え、えっ?」
ちょっと待って、無理だよそんなの。
同じ一年生とはいえ男の子だし、それも《剣術》と《格闘術》で満点取ってる人だよ…って、本気のはずないか。試験官の人もそうだったし。でも、でも!
「あの、えっと!おお、教えてくれるって、」
「だから、まず君の何が駄目か見ないといけないでしょ。やりながら指摘するから覚えて。」
「そんな」
「五秒後に始める。」
「待っ」
――…てくれるわけないんだから、逃げなきゃ!
私は慌てて走り出して、「始め。」と言ったアベル様が追いかけ…早いね!?軽く走ってるだけに見えるのにどんどん距離が縮まってる!
「早い!早いよ!」
「周囲に人がいるなら叫ぶのも手だけど、いないんだから黙って逃げたら。呼吸が乱れると持久力が落ちてすぐ捕まる事になる。」
「待って、あの、待って…!」
「捕まえた。」
「うっ…」
角に追いやられてあっさり腕を掴まれてしまった。
立ち止まると手は離れて、私は肩を上下させて呼吸を整える。……倍以上喋ってたアベル様が、全然息切れしてないのは…ズルくないかな。
「カレン」
「はい…」
「まず壁沿いに走って角に向かうのは無しだ。何でそんな馬鹿な逃げ方したの。」
グサッ。
「早いだの待ってだの、待つわけないでしょ。意味のない喚き声を出すな」
グサッ。
「追いつかれるとわかったら振り向かないと。捕まるのを待ってどうする?授業内容は全部忘れたのかな。」
グサッ。
容赦ないなぁ!
指摘が全部心に刺さってくる!な、何も喚き声なんて言わなくても……
「うう…と、突然だったから……」
「実戦で突然じゃない事はないでしょ。それも五秒も待った。」
「はい…すみません」
「《護身術》は不真面目な生徒も多いと聞くけど、君は真面目に受けてたと思っていいんだよね。」
「も、もちろんちゃんと受けたよっ!とっさに出てこないだけで…」
できてない事実があるからどうしても声が尻すぼみになる。
しゅんと肩を落とした私に、アベル様はちょっとゆっくり片手を伸ばして聞いた。
「こう掴みかかられたらどうする?」
「あ、えとっ……掴まれるのがダメだから、こっちに押しのけて…」
エンジェル先生の言葉を思い出しながら体を動かす。相手の腕の内側に入らないように。
私は一歩引きながら、アベル様の腕を外側からぐいっと押しやる。そしたら、横をすり抜けるんだよね。
アベル様の後ろへ抜けてから振り返ると、もう手首を掴まれていた。あれっ?
「次。掴まれたらどうする。」
「……あ、頭が真っ白です。」
「………。」
「すみませんっ!」
慌てて頭を下げたらアベル様に頭突きしかけたけど、さっと避けてくれた。…あぶ、危なかった!
もう一度謝ろうとしたけど、アベル様が反対の手で私の手を指すので大人しくそれを見る。
「この掴み方をされてる時は、こう捻って踏み込んでこうすれば外れる。」
勝手に動かされて勝手に外れた。
うーん……確かに授業の最初の方でもこんな感じの事、してた。ペアを作って流れを繰り返したりして。
「うん、思い出したよ。なんかこう、エイッ!てやったら外れるんだよね。」
「じゃあそれでやってみて。五、四、三」
「えっ」
「二、一」
「うわーっ!」
「だから喚くな。」
そんな事言われても!そんな事言われても!
私は走ってる間に一生懸命心を落ち着けようとして、確認した手順を思い返して、決心して振り返る!
「あ……」
私を見据える金色の瞳と目が合った瞬間、怖くなった。
左手首を掴まれる。
焦っちゃって、上手く足が動かなくて、踏み込めなくて無理に手を振りほどこうとした。そんな力技で敵うわけもなく、アベル様の反対の手が拳を作って振りかぶる。
掴まれた手を何とかしなきゃって気持ちがいっぱいで、殴られるのを防御しなきゃって考えが咄嗟に出ない。それは無防備だった私のお腹の前でぴたりと止まった。
「…実戦になると、身体が固まる。」
アベル様はそう言いながら手を放してくれて、私はへなへなと座り込む。
心臓がどきどきしてる。
「《護身術》で組む相手より僕の方が怖かったでしょ。」
「は、はい……」
「そういうものだよ。別に君が特別臆病だという事はないし、抵抗しようとしただけマシな方だ。君がもし今後……ウィルやシャロンを狙う誰かと相対する事があれば。今僕に対して感じたよりもっと強い恐怖を覚えるはずだ。」
足に上手く力が入らない。
まるで覚悟を問うかのようなアベル様を、私はじっと見上げて。
シャロン達はきっと守ってくれる。皆がいるなら怖くないかもしれない。
でも自分で自分を守れるようになったら、皆だって私じゃなくて自分を守れるかもしれない。
【 私が思う未来は… 】
力が入りにくい足を無理に動かして立ち上がった。
怖いけど、頑張りたいから。
「あのっ……ありがとう、アベル様。ちゃんと考えてくれて…」
お礼を言ったら、瞬いた彼は少し驚いたような顔をした。
突然始まる追いかけっこは怖いけど、なんか理不尽だってちょっと思っちゃうけど、でもアベル様はちゃんと考えてくれたからこそ、ちゃんと見てくれてるからこそ、私を怖がらせたんだ。
しっかり向き合ってくれたんだから、応えたいと思う。
「この前、言ってたもんね。恐怖で動きが鈍るのは慣れの問題もある…って。」
だから実戦形式で、だから突然で。
貴族ですらないちっぽけな私に、わざわざ時間を使ってくれている。無駄にしたくない。
もう走れるようになったかなって、ちょっと足踏みしてみて。レオの真似をして、ぺち、と自分の頬を叩く。
「うん、大丈夫!もう一回お願いします!」
「……ふ、」
アベル様が柔らかく笑った。
すごいびっくりしたけど、「三」が聞こえて慌てて走り出す。時間が短くなってるー!!
それから、私が疲れ切って動けなくなるまで……三十分もかからなかった。
ううん、長く感じただけで実際は二十分も無かったかも。自分の体力の無さを思い知った。筋肉痛がすごい事になりそう……。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…げほっけほ!」
「ここまでだね。」
「ぅあ、ありがとう、ございました……」
よろよろと立ち上がって頭を下げる。
あ、暑い…。顔を上げたら、汗ひとつ見当たらないアベル様がすぐ前にいて、「平気?」と手を差し出してくれた。掴まっていいよって事だろう、けど。
「だ、大丈夫!」
私いま、あの、汗くさいかもしれないから…!とは言えずに、頭をぶんぶん振って後ずさる。挙動不審に思われたのか、アベル様はちょっとだけ首を傾げて手を下ろした。
「少しは感覚が掴めたかな。今後も慣らしていきたいなら、できればダンに相手してもらうといい。」
「ダンさんに?」
「君、レオじゃ怖くないでしょ。」
「あっ、そっか。」
レオは快く引き受けてくれるだろうし、笑顔で教えてくれそうだけど。
足がすくまないように、相手が怖くても動けるように、って考えたら…背が高いダンさんの方がいいのかも。シャロンがレオと鍛錬してる時を見計らって、頼んでみようかな。
アベル様が地面にほっとかれてた棒を拾う。よく見たら訓練場の備品だと気付いて、「返しておくよ」と手を出した。
「そう。ありがとう」
「わっと…結構重いんだね。」
「棒術に使う物だからね。」
さくさく歩くアベル様に遅れないよう、せっせと足を動かす。コロシアムの扉を出ると、アベル様がぴたりと立ち止まった。
視線を辿って前を見たら、運動着姿の女の子が一人。
青っぽい灰色の髪、眼鏡にピアスに、目を細めたあの笑顔……確か同じ一年生だ。《国史》とかで見かけた覚えがある。レベッカが、「あいつだよ」って。
あいつがシャロンの顔蹴りやがったんだって、言ってた人だ。
「おやおや……そちらもデートでしたか~。」
「で!でで、違うよっ!?違います!」
「くだらない。何の用かな」
私は大慌てで首を横に振ったけど、アベル様は至って冷静だった。
女の子は「い~え、」なんてもったいぶった声で言う。
「シャロン様もホワイト先生と二人っきりだったので。今日はみ~んなデート日和なのかなって思っただけですよ。」
なんか、ちょっと含みのある言い方に聞こえて眉を顰めた。
シャロンは、より専門的な事まで学ぶためにホワイト先生に弟子入りしたって聞いてる。そんなの皆知ってるのに……。ちょっと重たい棒をぎゅっと握り締めて、勇気を振り絞る。
「ご、誤解を招くような言い方っ…止めた方が……」
「んひっ、嘘はついてませんとも。校舎に向かってたから、きっとこの後は研究室じゃないですか?」
「そう。じゃあね」
アベル様は素っ気なく言って歩き出した。えっ、そういう扱いで良いの!?
きょとんとした女の子とアベル様の背中を交互に見て、私もそそくさとその子の前を通り過ぎる。
「さっすが、つれないなぁ。」
後ろから声がするけど、足音はないからついてきてはないと思う。たぶん。
アベル様が立ち止まりも振り返りもしないから、私もそれに倣った。
「今度ぼくともデートしてくださいね、殿下。……お土産、用意しておきますから。」




