400.焦燥の夜に
週末の夜、ベッドに腰掛けた私の心は落ち着かない。
もう一週間近く経つのに、アベルの笑みが消えた瞬間を忘れられなかった。
前世の記憶を取り戻してからずっと、少しずつ、少しずつ、未来は変わっているはずなのに。
チェスターの家族は無事で、魔獣は早く出てしまったけれど、その分研究と対策を進められている。オペラハウスの事件だって、未然に防ぐ事ができて。
だけど。
『いなくならないで、アベル……』
みっともなく懇願したあの日から、アベルの心は変わってくれたのだろうか。
私達がいる事を忘れないと、言ってくれたけれど。
それでも貴方は、ウィルの言葉にすら肯定を返さない。
こくりと、唾を飲み込んだ。
本当はわかっている。まず、何をすべきなのか。
自分が恐れているから踏み出せないのだと、本当はずっとわかっている。
『貴方が生きてこの国に居ても、ウィルの治世は揺らがないわ。』
『それでも、僕がいなくなった方が早道だ。』
あの頃とは違う。アベルはとっくに、ウィルは大丈夫だってわかっているはず。
だけど彼の答えは変わらない。
女神祭の夜も、勿忘草を見た時も……私は一緒に生きていたいと願うばかりで、伝えるばかりで、肝心な事をアベルに聞けていない。
聞くのが、怖い。
意識して深く、呼吸をする。
喉が震えていた。心臓がどくどくと嫌な音を立てる。胸元のネックレスを握った。
『何年先の未来でも、こうして三人で笑い合っていたい。俺はその未来を守りたいんだ』
ウィル。
私も、私もよ。
貴方達が二人揃ってちゃんと生きていて、私だって傍にいて、皆がいて。
そんな未来を作りたい。
……ゲームのシナリオを知っているから対策できるけれど、シナリオを知らずにいればきっと、こんなに不安になる事はなかったのでしょう。
誰か道を示してほしい。
こちらへ歩けば何も心配はいらないと、そんな道があるのなら。
誰か――…
「……言っておくが、アメ。」
いつの間にか目を閉じていた私の耳に、ジークハルト殿下の声が飛び込んできた。
驚いて顔を上げると、テーブルの向かいに座る男性の白い瞳と目が合う。
「あまりここへ来ぬ方が貴様のためだぞ。」
「……レイモンド、様……。」
私は呆然と呟いた。
白銀の長い髪を一つに結い、ジークハルト殿下そっくりのお顔をしたレイモンド・アーチャー様は、鋭い歯を見せてにやりと笑った。
瞬いて部屋を見回す間に、記憶が戻る。
少し離れた位置に立って私をぎょっとした目で見るのは、若返ったお父様のようなお顔立ちのエルヴィス・レヴァイン様。金色の髪に青い瞳をしている。
ちょうとエルヴィス様と話していたのだろう、その近くにいるカレンそっくりの女性はポカンと口を開けていた。
長い黒髪を三つ編みにして前へ流し、右目に眼帯をした赤い瞳のアンジェさん。……たぶん、アンジェリカ・ドレーク様。
そして…
「アメちゃんじゃないかーっ!」
「わっ」
ぎゅう、と横の椅子から抱き着いてきたのは、翡翠色のポニーテールと同じ色の瞳をした女性。
唯一お名前がわからないこの方を、私はヒスイさんと呼んでいる。
反対に皆様には私の名が伝わらないから、アメと呼ばれていて。
「あァ、思い出した。貴様、先日はなぜ泣いた?彼とは誰の事だ。」
ゆるりと瞬いたレイモンド様に問われたけれど、私にはわからなかった。
先日というのは、アンジェさんと出会った時のこと?泣いただろうか、私は。覚えていない。
「ふん、わからんならいい。今日は何――」
「あああっ!貴女、この前の変な子ッ!!」
アンジェさんが私をずびしと指して叫ぶ。
お会いするのももう何度目かのレイモンド様達と違って、彼女とはまだ二回目だ。混乱した様子で「何なの」「本当に!?」「嘘でしょ」と呟いている。
エルヴィス様、「俺も前はそういう感じだった」とでも言いたげな顔で頷いているわね…。
「アンジェ、騒がしいぞ。」
「貴方たちは何でそう静かなの!?おかしいでしょ…!」
「いいじゃないか、ほら。可愛いだろう?アメちゃん。」
べったりとくっついたヒスイさんが私の頭にぐりぐりと頬ずりしている。
アンジェさんは頭痛がするとばかり、眉間に皺を寄せてこめかみに手をあてた。レイモンド様がパチンと指を鳴らす。
「そうだ、こいつもお前の目で見てやればどうだ?」
「なっ…何で!」
「単純に興味がある。余は《加護》、エルヴィスは《未来視》なのだろう?さて、アメには何が見えるか。」
「嫌!どうして私が貴方の指示に従わなきゃならない!」
「アンジェ、喧嘩は駄目だぞ!ほらほら、レイモンドは怖くないからな~噛みついたりしないから大丈夫だぞ~。」
「怖いわけじゃないよ!もうっ!」
ヒスイさんにぎゅーっと抱きしめられて、カレン…じゃなかった、アンジェさんがわぁわぁ言っている。
皆様はもしかして、スキルの話をしている?
アンジェさんの目とは一体…
「レイモンド、本気で信じているのか?」
いつの間にかこちらへ来ていたエルヴィス様が、ぼそりと小声で聞く。
「俺は自分にそんなチカラがあるとは思えない。」
「まァ、よかろう?後ろを向いておけ、アメ。あれは目を見られたくないらしい。」
「は、はい。」
言われるがまま壁の方へ身体ごと向いておく。
目を見られたくない?……まさか、あの眼帯は失明しているわけではないの?
ヒスイさんに宥められたらしいアンジェさんが、レイモンド様達にも背を向けろと言っている。
数秒、沈黙が漂った。
「……もう、いいよ。」
動揺を押し隠すような声だ。
私が振り返って椅子に座り直すと、アンジェさんは怪訝に私を見ていた。ヒスイさんがわくわくした様子で「どうだった?」と聞く。
「…ヒスイ」
「何だ?」
「この子、貴女と同じ力を持ってる。」
「おおっ!?お揃いか!なんだか嬉しいなあ!」
無邪気な笑顔で飛び跳ねるヒスイさんとは裏腹に、アンジェさんは険しい表情だ。レイモンド様はにやりと笑う。
「アンジェ。貴様は以前、ヒスイの力ならばここへ来るのも不可能ではないと言ったな。」
「か、可能性があると言っただけ。気の…魔力の量だって問題だし……レイモンド。説明した通り、私の目はその人が持つ素質を見るだけなの。必ずその能力に目覚めるとは限らないし、使いこなせるとも限らない。」
「アメ。貴様自分の意思で身体能力を上げたり、薬まがいのモノを作れるか?」
「できますね…」
「何でできるのッ!」
アンジェさんが我慢ならないとばかりに叫ぶ。
ギルバート陛下に指摘されていなければ、ここで即答はできなかったかもしれない。ヒスイさんが嬉しそうに私の手を取って立たせ、「お揃い♪お揃い♪」とゆらゆらと踊り始めた。……何の踊りかしら、これは。
「あ、あの…先日、皆様は赤い目の男を追っていると仰いました。」
私は私で聞きたい事を。
赤い目の男と言った瞬間、アンジェさんが身体を強張らせた。ヒスイさんが瞬いて踊るのをやめる。
初めてレイモンド様達に会った時、エルヴィス様は突然現れた私に「瞳が赤い男を見たか」と聞いてきた。
ヒスイさんは「赤い目の男を追っている」からと、お二人をアンジェさんに紹介した。
「一体何者なのですか?」
「…俺の祖国を滅ぼした男だ。たった一晩で城を落とした」
眉間に深く皺を刻んで腕組みをし、そう答えたのはエルヴィス様だ。
神話学に出てくる「古の大国」……の事かしら。今はもう、名前が失われた国。アンジェさんがぎゅっと自分の服を握っている。
「王族は…死に絶え、騎士だった俺の父も亡くなった。レイモンドさぐぅッ!!」
脚に攻撃を受けたらしいエルヴィス様が呻いた。
様付けを注意されたのでしょう。兄弟じゃなかったらしいご様子、この風格に騎士家系のエルヴィス様を連れていた事を考えると……レイモンド様は上級貴族?
「ごほん。……混乱の中、レイモンドと合流できた事だけが幸いだな。治める者のいなくなった広大な土地で、今は強奪と力による支配、衝突、殺し合いが起きている。そのような状況で、あの男は代わりに上へ立つでもなく、気まぐれに破壊を続けているという……俺は、彼を止めねば平和は成らんと考えているんだ。父の仇でもあるしな。」
「…レイモンド様も、同じですか?」
「はっ、余は仇などどうでも良い。あの逃げ足の早い阿保面を黙らせたいだけだ。」
国の平定に興味があるのはやはり、エルヴィス様のほうみたい。
初代国王陛下なのだから当然だけれど…
きちりと立っておられる事から言っても、未だレイモンド様に仕えているつもりのご様子。
エルヴィス様は、果たしてご自分から国王になると言ったのかしら。
「アンジェ。こちらは戦力を、そちらは情報を。共闘の約束は成っただろうが、早くしろ。」
「こ、この子の前で言えって言うの。」
「問題なかろう?ここがどこかわかっているのか。」
「………。」
諦めたようにため息をついて、アンジェさんは私達を見回した。
「赤目持ちの男は私の故郷、君影村で重罪を犯して……逃げている。彼を討ち取る事が私の責務。貴方がたの言う《魔法》は、遥か昔に君影の《術》が漏れ伝わったもの。だからもし学びたければ、少しは教えられる。」
アンジェリカ・ドレーク様は、王立学園の初代学園長だ。
母親は君影国の出身だと伝わっているけれど……どうやらご自身も、君影国の人なのね。
考えてみれば、エルヴィス様とレイモンド様に血の繋がりがない時点で、「六騎士の父親は同一人物である」という前提が崩れ去る。
「レイモンドから少しは教わったが…」
魔法が苦手なのだろうか、エルヴィス様が渋い顔で顎を擦った。
アンジェさんが眉を顰める。
「……貴方がたの国は、王家が魔法を独占していたと聞いたけど。」
「あァ、下々は禁止されていたさ。だが教本が存在しないわけじゃない。余は忍び込むのが得意でな。」
「盗み見て覚えたというわけ?呆れた……ともかく、私は■■■を捕まえなきゃいけない。」
私が知らないから、アンジェさんはその名を口にしても声が出ない。
眉を下げた彼女は少し、寂しげに見えた。
「アンジェさん、もしかしてその人と――…」
親しかったのですか?
そう聞こうとして、言葉が途切れる。頭の中で何かが鈍る。わからなくなる。
時間切れだと察した。
覚えていないと、これまであった事を。
忘れずにいよう、今会って話した事を。
「ヒスイ、出番だ。送り帰してやれ」
「あ、そういう事か!わかった!」
でも、でも、どうやって……
「大丈夫だからね、アメちゃん。また会いにおいで」
大丈夫だよ、とヒスイさんが言う。
いつの間に目を閉じたのか、私の意識はゆっくり沈んでいって。
誰かが笑って呟いた。
【 凶星の片割れは殺される。この世界の必然。 】
ハピなしをお読みくださり誠にありがとうございます。
本日で書き始めてからちょうど二年経ったようです。
第二部も折り返し(作中で半年)、400話になりました。
ブクマ、ご評価、いいね、ご感想も本当にありがとうございます。
一つ一つとても励みになっております。
これからもまったり見守って頂ければ幸いです。




