39.スイッチ
馬車が動き出す頃にはもう、私は笑顔を保てなかった。
じわりと嫌な汗が滲む額に手を添えて、やりきれない思いで床に目を落とす。
「…魔法はほぼ関係ない。その意見には賛成です」
私が俯いた理由をわかっているサディアスが、呟くように言った。
……ショックを受けている場合じゃない、そうよね。ちゃんと、考えなくては。
私は手を膝の上に揃え、彼の瞳を見て小さく頷き、続きを促した。
「魔力鑑定と隔離、オークス家がとった行動は正しい。基本的に発動時は目に見えるものですから、ご令嬢や侍女が気付かない事を考えても、長期間伏せっている事から言っても……やはり、魔法は関係ないと思いますよ。」
「……そう、なるわよね。」
一体、どういう事なのだろう?
『魔法、だったんだってさ……妹の、病気。』
ゲームで、チェスターはそう言っていた。
全ては仕組まれていたと。チェスターがアベルの従者に決まった時から狙われていたのだと…。それが叔父の嘘である可能性――
私は頭を横に振った。
ない、ないに決まっているわ。そんな嘘をついたって、ただチェスターを絶望させるだけで、そんな、ありえないわ。
だって、もしそれが嘘だったら
救えないじゃない。
「………っ。」
血の気が引いていくのが自分でもわかった。
私は医師でも薬師でもないただの子供なのだ。どうしてあと半年ちょっとで、新種の病の根治なんてできるだろうか。
「……大丈夫ですか。」
「大丈夫、だわ。だって、私より…」
ジェニーとチェスターの方がよほど辛いはず。
胸元に手をあて、ゆっくりと深呼吸して背筋を伸ばした。少し顔をしかめたサディアスが私を見ている。
「ごめんなさい。もう大丈夫。」
「そんなにショックですか?」
言葉の意味を探るために、私は彼を見つめ返した。魔法が原因という視点でジェニーに会う、そんな私の目的を知っている彼を。
「まるで魔法が原因であるとほぼ確信していて、それを裏切られたかのような狼狽え方だ。」
どう答えるべきか、少し迷った。
「…やっぱり、私のようなただの子供には……どうにもできない事だと、思い知っただけだわ。」
「当然でしょう。公爵家が何年も手を尽くして解決していないのですから。」
「……そうね。」
どうしても暗い顔になってしまう。サディアスはまた少し眉根を寄せると、私から顔を背けた。
「私にも貴方にも、どうする事もできませんよ。…誰の落ち度でもない。」
素っ気なく言って、彼は窓の外を見つめた。
諦めろという意味かと思ったけれど、最後の一言で「気にするな」の方ねと察する。
彼なりに励ましてくれているのだ。
「ありがとう、サディアス。」
「……礼を言われるような事は、何も。」
こちらを見ないままの言葉に苦笑して、私は自分の額に軽くハンカチを押し当てた。
大丈夫、今日ジェニーに会えたのは確実な一歩。
魔法が原因なら、オークス公爵家の使用人については除外して良いということ。
他にどんな可能性があるのか……また、考えてみましょう。
今は話を変えようと、私は口を開いた。
「伯爵邸で助けてくれた時のこと…改めて、本当にありがとう。」
サディアスの瞳がこちらに向く。
あの時、彼はたった一言「火」と呟いて魔法を発動させ、私が逃げ出す隙を作ってくれた。
「……貴女こそ、怯まずによく即座に反応しました。」
まさかの言葉に驚く。
私は褒められるほどの事をしてないはずだ。だって、サディアスはわざわざ事前に聞いてくれた。「ある程度の覚悟は、元からおありですね?」と。
「貴方はちゃんと教えてくれたもの。言葉と目で、今から何か起きると。だからすぐに動けたのよ」
「普通のご令嬢なら、恐らくその場ですくみ上がっていましたよ。」
「そうかしら…?」
味方であるサディアスが出した火よりは、敵が首に突きつけるナイフの方が怖いのではないかしら。彼が出した火は私の頭上で、視界には入らなかったし。
「それより、あれほど短い宣言は初めて聞いたわ。属性の名前を言うだけなんて。」
「奥の手です。」
「普通、あんな一瞬で魔法を使えるなんて思わないものね。」
直前に広範囲へ魔法を放っていたけれど、そこでは普通に宣言を唱えていた。だからこそ敵もあれほど短縮できるとは予想外だっただろう。
サディアスは未成年なのだから、余計に。
「貴方は属性を五つとも使えるのよね。どの属性でも同じくらい短縮できるの?」
「…何の詮索ですか、シャロン・アーチャー様?」
にっこりと微笑まれてしまった。
詮索のつもりはないけれど、と肩を落とす。
ウィル、あるいはサディアスの命を狙う輩にとって、彼の戦闘能力の詳細はかなり大事な情報だ。
警戒はもっともなのだけれど、私ってそういう…過激派と繋がりがある風に見えるのかしら?
「……そんな困り果てた顔をしないでください。わかっています。」
ついと目をそらし、眼鏡を押し上げてサディアスが言った。
「貴女が政治的な理由で詮索するとは思えませんが、私も自分の能力をベラベラ話す気はありません。特に、今朝がたそちらの執事殿とご挨拶をさせていただきましたし。」
「ランドルフのこと?」
「えぇ。」
確かに屋敷を出発する時、玄関まで見送りに出てくれていたわね。
ニクソン公爵家はあまり良い噂がないものだから、今日一緒に出掛ける事もランドルフは快くは思っていない様子だった。
私がサディアスを信頼しているし、伯爵邸の一件で彼が私を守ってくれた事もあって、表立って反対はされなかったけれど…。
「貴女は、宣言の短縮について聞きたいだけですね?」
確認するような目を向けられ、こくりと頷いた。ぜひとも教えてほしい。
「まだ水を少し出せるだけなのだけれど、今後のために。」
「…魔法が使えるようになったんですか。それは、おめでとうございます。」
サディアスが意外そうに瞬いた。
そういえば、魔法を使えるようになったという報告はしていなかったわね。「ありがとう」と微笑みを返した。
「宣言の短縮は、他人がどこまでできるかなどまったく関係ありません。貴女自身が、今、どこまでなら発動可能かを知っておく事が何より大切です。」
以前チェスターにも言われた事だ。でなければ、いざという時に不発になると。
「私はあの時、宣言だけでなくこれも使いましたね。」
サディアスはそう言って右手を胸の高さまで上げる。指を鳴らす時の形だ。私は頷いた。
伯爵邸では、自身の腰の後ろへ回した方の手を鳴らしたようだった。同時に私に手を差し出していたのは、鳴らす方の手に注意を向けないためだったのかもしれない。
「ただ宣言を削るだけでは無理が出ます。私達が魔法を使う時に必要なのは、発生させる内容のイメージと発動のタイミング。限界以上に削るなら他で補填してやればいい。」
「なるほど…だから貴方はそれを。」
サディアスの手に目を向けて言うと、彼は頷いてから手を下ろした。
一般の人はあまり関係ないけれど、戦いに身を置く人々にとって宣言の短縮は重要な問題だ。
咄嗟に発動できるかどうかもそうだし、何より声に出す内容が詳細であればあるほど、相手に「今からこんな魔法を使います」と教えてしまうから。
そう、だから――皇帝となったアベルは本当に厄介だった。
もう魔法が使える事を隠す必要のない彼は、宣言を必要としないために属性もタイミングも悟らせない。
主人公のスキルで徹底的に彼の力を下げなくては、まともに戦う事もできないのだ。
まだ未熟なうちに対峙した時は「何の魔法で防御するか」の選択肢が出るのだけど、クイックセーブ&ロード機能無しで一発クリアは無理だった。
開発側の優しさなのか、間違えても怪我の度合い(治るまでの日数)が変わるだけでストーリー進行は問題ないようになっていたけれど。
「宣言を唱えるにあたっての構成はおわかりですか?」
「えぇ、《宣言》《属性》《何を行うか》の三つを含むのが基本なのよね。」
私は曲げた指を一つずつ伸ばしながら答えた。
たとえば私なら「宣言。水よ、この手の中に現れて」で手の上にふよふよと浮く水を出せる。
宣言と属性は言わば単語なので、自然と長くなるのは「何を行うか」の部分だ。
どこまで細かく言葉に出す必要があるかで変わってくる。属性を削る人は滅多におらず、宣言は…
「最初に《宣言》と唱えるか否か…ほとんどの魔力持ちが、通常は唱えます。魔法の基礎訓練が唱える事を推奨していますから、それをスイッチに魔力を使う準備に入るよう、身体が覚えてしまうせいでもあります。」
「……前から不思議だったのだけれど、最初に《宣言》と言うのは、無しでも発動できる人もいるのよね。貴方のように。そちらに寄せようという動きはないのかしら。」
今から魔法使いますね!と発表するようなものだし、言わない状態を基礎として、どうしても難しければ言う…という方向になってもおかしくなかったはずだ。
「魔法が使えるようになって最初期は特にですが、意図せずに魔法が発動する事があります。経験は?」
「今のところないけれど、そういう例があるのは知っているわ。」
書類が水浸しになったり、洗濯物が風で飛んだりするのはまだしも、火の魔法ではボヤ騒ぎに発展する。そう頻繁に起こるものではないと聞くけれど…。
「スイッチを作るのは安全策でもあります。本当にイメージだけで発動できてしまったら、感情のままに殺傷事件が起き、本気ではない「こうなってしまえ」が現実になりかねない。寝ぼけて発動しても困りますしね。」
「それは……あまりにも危険ね。」
「えぇ。また、最初に《宣言》と唱える事は、集団戦においては「自分がやる」という合図でもあります。ですから短縮するならそこではなく…という話になるわけです。」
私はふむふむと頷いた。
どの道一番長くなりがちなのは《何をするか》のところだし、無理にスイッチを無くして何か起きると危ないという事ね…。
そういえばサディアス以外にも宣言をかなり短縮した人を見た、と思い出して、私はつい顎に手をあてながら呟いた。
「お父様は…」
サディアスはその呟きだけで察してくれたみたいだ。
『ひれ伏せ!!!』
たった一言で発動した、強力な風の魔法。
「あれは…恐らくですが、急いだが故の省略であって、発動した効果にイメージとのズレはあったはずです。」
「えっ!?」
「問題はありません。公爵としては、貴女やウィルフレッド様に危害を加えた者がどうなっても構わなかったでしょうし……まぁ、今回圧死した者はいませんでしたが。」
出る可能性もあったと!?
てっきり元々そうやって使う事に慣れているのかしら、と思っていたのだけれど…。何せ我が家で過ごすお父様は、私の前で攻撃魔法を使った事などなかったから。
「ちなみに私の奥の手も多少綱渡りでした。気を付けはしましたが、貴女に火の粉が飛んで髪の一部が焦げるくらいの可能性はあったので。」
「えっ!…でも、ナイフよりはマシね。」
言われて驚いたものの問題は無い。
髪はチリチリになってもまた生えるけれど、頸動脈を切られたら終わりだもの。
「感情を宣言に取り入れるやり方も時々聞くわ。図書館でウィルもやっていたわね。」
風の魔法で飛び出す時に「怒りに応えろ」と言っていた。これくらい怒ってるからこれくらいで、という事ね。
小説やオペラでも登場人物が「この喜びを糧に」とか、「嘆き悲しんだ日々を全て」などの言葉を宣言に取り入れていたりする。
「感情の強さと発動規模のイメージを重ねる事は可能であり……使用する魔力を多く確保する目的では、昂った感情は有用であるというレポートもあります。」
「なるほど…さすがはウィルね。」
「……本人に聞かないように。」
謎の釘を刺されて、首を傾げてしまう。
「感情の乗った言葉というのは、後で聞かれると嫌なものです。」
「そうかしら……?」
怒るのも無理はない状況だったし、すごい勢いで飛び出していったから魔法としては成功だったと思う。
でも確かに、普段あまり怒らないウィルとしては掘り返されたくない事かもしれない。
次に会ってもそこは追及しない事にして、私は遠くに見えてきた我が家へ視線を移した。




