3.幼馴染のバーナビー
城を出るために、馬車へ乗り込もうとした時だった。
「どこか行くの、ウィル。」
後方から楽しげに声をかけられ、俺は一拍だけ間を置いて振り返る。
この国の第二王子……俺の双子の弟であるアベルが、口元に薄い笑みを浮かべて歩いてきた。
腰の帯剣ベルトには俺と揃いの剣が納まっている。
なんとなくそれから目をそらすと、俺の手はいつの間にか自分の剣に触れていた。意識的に手を離す。
「…お前には関係ないだろう。」
「あるよ。アーチャー公爵邸でしょ?」
奥歯を軽く噛みしめた。
わかっているならなぜ聞いてきたんだ。
俺があからさまに顔をしかめても、アベルは何も気にした様子がない。その格好が俺と同じく、普段より質素なものである事に気付いてはっとした。
「僕も行くよ。怖がらせちゃったみたいだしね。」
「来なくていい!」
「はは。」
俺の拒絶を笑って流し、アベルは俺が乗る予定の馬車にひらりと乗り込んだ。
「あっ…この!」
手を伸ばして届く距離ではなく、バタンと扉が閉められる。――普通、閉めるか?俺が乗れないじゃないか。
何をするんだと目を見開く俺の前で窓が開き、平然としたアベルが顔を出した。
「ちょっと寄る所があるから、先に使うよ。ウィルには次の馬車を用意したから。」
「ふざけるな、アベル!どうしてお前はそう勝手な事ばかり…!」
「第二王子殿下、困ります!自分は第一王子殿下を――」
ガンッ!
御者の言葉が終わる前に、アベルが内側から壁を蹴った。御者の背中側にあたる壁だ。馬車が揺れる。
「いいから出しなよ。僕の言う事が聞けないのか」
「ひっ…」
空気がビリリと震える。
俺と同じ十二歳の子供の声で、視線で。大人であるはずの御者が恐怖を覚えている。
「アベル!」
「…ほら、馬車が来たよ。そっち使っていいからさ。」
アベルが見やった方を振り返ると、確かに馬車が一台こちらへ向かっていた。俺が用意したのと同じく、王族である事を誇示しない、あえて装飾を無くした馬車だ。
ガタンと音がして視線を戻すと、アベルが乗った馬車の窓は閉まっている。
「待て!第一お前、護衛を」
連れてないじゃないか、そう言いたかったのに。
ドンというくぐもった音と同時、また馬車が揺れた。壁を蹴られたのだろう。
御者は短い悲鳴を上げて合図し、馬が勢いよく駆け出した。
「アベル!」
呼んだところで弟は戻らないし、馬車も止まらない。
俺から一定の距離を保って控える護衛騎士二人も、アベルを追おうとしないし止めもしない。
言っても無駄だと理解しているし、第二王子の行動には口出しできないとわかっているからだ。
「あ~らら。我が主はもう行っちゃいましたかねぇ。」
呑気な声が聞こえて、ゆっくりとそちらを見やる。
やって来た馬車から下りたのは、ゆるくウェーブした赤茶の長髪を後ろで縛り、シャツのボタンをだらしなく開けた男だった。
俺とアベルより三つも年上なのだから、服装くらいきちんとしてほしい。俺は苦い気持ちで息を吐いた。
「チェスター、従者ならもう少しアベルを抑えてくれ。」
「いやぁ無理ですよ、あの暴れん坊ったら言っても聞かないんですから…おっと、失礼。ささ、この馬車をどうぞ。」
チェスターはへらへらと笑いながら、茶色の瞳で俺を見下ろしている。
その垂れ目は彼の性格を穏やかに見せているが、今は笑い方のせいか嫌味な印象を受けた。…あまり気分の良いものでは無い。
「…何だ。」
「いえ、何も。ただね、アベル様は寄る所がありますから、貴方はお早めにアーチャー公爵邸に向かわれた方がいいですよ。ご令嬢に会うのは、先の方が良いでしょう?」
「……わかってる。」
一瞬、アベルが先に会ったらどうなるか想像して、俺は少し早足に馬車へ乗り込んだ。
どうなるかなんてわからないけど、ただあの二人だけで会う光景を思い浮かべると、嫌な気分になった。焦りがあった。……彼女を奪われたくない。
俺の大切な友達を。
扉を閉めると馬車はすぐに動き出す。
窓の外では、チェスターが笑顔で手を振っていた。
「はは……ほ~んと、呑気ですこと。」
外からの呟きは当然、聞こえないまま。
俺とシャロンが出会ったのは五年前だった。
この国では、子供は七歳になると《魔力鑑定》が行われる。
鑑定石と呼ばれる白く透き通った石に触れると、「火・水・風・光・闇」の中で最も適応する属性がどれかを色で示してくれるのだ。
基本的にそこで示された属性の魔法が最も身体に馴染み、扱いやすい。
逆に苦手な属性は扱いにくく、無理に使うと暴走したり不発になったりする。人それぞれだ。
俺は光だった。鑑定石が黄色く輝いた瞬間、会場にいた大勢が歓声を上げた。
王位を継ぐには魔力がなければならない。
双子の「兄」である俺の、王位継承権第一位が確定した瞬間だった。
鑑定石に触れる時、俺は心臓がものすごくドキドキして……光るまでの一瞬すら、気が遠くなりそうだったのに。
アベルはさっさと済ませたいとばかり、入れ替わりに平然と手を置いた。
……石は、何の色も示さなかった。
鑑定を終えた事だけわかる、淡い輝き。
魔力無し。
落胆のため息が、驚いて息を呑む音が部屋をいっぱいにした。「何かの間違いでは」と言う人が多かった。
俺も唖然としていた。
だって、アベルは優秀なんだ。
皆がどよめく中、弟は眉一つ動かさずに踵を返し――立ち尽くしていた俺と、目が合った。
何か言わなくては。
幼いながらそう思って、俺は口を開く。
何を言えば――ほっとした。違う。残念だったね、違う。大丈夫だよ、何かの間違いだ。アベル、お前はとっても優秀なんだから、魔力がないはずはないよ。違う。だって光らなかった。俺は、父上の跡は、お前は期待されてるのに、どうして俺が、
アベルが笑った。
『――っ。』
それは俺だけに向けた、ただ口角を上げるだけの笑みだった。
俺は喉が締まったように何も言えなくなって、アベルが通り過ぎるのを、足音が遠ざかり出ていくのを、何人かが「どうかもう一度お試しを」と追いかけていくのを、聞いていた。
笑顔の意味はわからない。
誰もが残念がっていたのに、裏を返せば誰もがお前に期待していたのに。
魔力を持たない人は珍しくないけれど、この国の王家や古い血筋の貴族に限ると、事例は極端に少ない。
あって当然なのだ。
俺だったら血の気が引いて内心頭を抱えたと思う。
魔力の無い王子なんて、周りにどう言われるかわからない。父上に失望されたのではと思ったはずだ。
笑う事なんかとてもできなかっただろう。
あいつみたいに堂々と歩き去るのではなく、逃げるように走り出していたかもしれない。
何で笑ったんだ?
……俺の胸に溢れた嫌な感情を読み取って、狭量さを嘲ったのだろうか。
気付くと、幼い俺はふらふらと城を抜け出していた。
随分昔にアベルと探索して見つけた、城の外に通じる抜け道を使って。どこへともなくひたすら歩いていたら、いつの間にかアーチャー公爵邸の前だった。
その時はまだ誰の屋敷かは知らず、漂ってきた紅茶の香りにぼんやりと、「ティータイムか」なんて考えていた。
『そこの方、失礼だがどちらのご令息でしょうか。』
門番に声をかけられてハッとした。
正体を知られるわけにはいかないと焦った頭で考える。
『いえ、その――』
『どうかしたのか。』
聞き覚えのある声に青ざめた。陛下の側近である男性がそこにいたのだ。
魔力鑑定の場にもいただろう彼が目を見開いたのは、間違いなく俺を認識したからで。咄嗟に人差し指を自分の口にあてた。
王子がやる事にしては、あまりに子供じみた口止めだった。
『……今から我が家はティータイムなのですが、ご一緒にいかがですか?』
彼はどうしてか、優しく微笑んでそう言う。
城で見かける時はいつも眉を顰めて唇を引き結んでいたから、俺は一瞬、双子の兄弟がいたのかとすら考えた。
『シャロン、お客様だ。ご挨拶しなさい。』
案内された先にいたのは、花の色のような、薄紫の髪をした少女。
同じ色の大きな瞳で俺をじっと見つめて、スカートをつまんで軽く腰を落とす。美しい所作だった。
『シャロンです、初めまして。あなたのお名前は?』
『俺は……』
初めて城を抜け出した俺は、王子ではない、ただの自分でいたかった。
ウィルフレッドではない誰かで、いたかった。
『俺は、バーナビー。』
アーチャー公爵が与えてくれた「王子ではない時間」は、心地よかった。
俺を王子だと知らない優しい友達と、ゆっくり話して、お茶を飲んで、笑って、普通の子供みたいに遊んで、たまに悪戯をして叱られて、それだけで心が満たされるようだった。
前は、アベルとも城で好き勝手に遊んだものだけど……いつからだろう、あいつは一人でいる事が多くなって、俺が探しても見つからない事が増えて、授業にもあまり来ない。
聞いた話では、結構な頻度で城を抜け出しているらしい。
大人達はそういう行動に眉を顰めるものの、アベルの能力について貶す者はいなかった。
俺達は双子で、俺は兄で、何においても弟の方が優れていたのだ。
気付いた瞬間にひどく息苦しくなった。
皆、俺とアベルを比べている。
かつて俺に手を引かれてばかりいた弟は、たった一人で遥か先を歩いていた。
嬉しそうに少しだけ微笑むあいつの、優しい瞳を覚えているのに。
冷笑を浮かべてこちらを見るあの金色は、思い出を掻き消していくかのようで。
今となっては俺はもう、アベルが何を考えているのか……まったく、わからない。
突出した才のない第一王子。
ただの少年でいられるアーチャー家が、シャロンの隣だけが、ゆっくり息をできる場所のように思えていた。
だけど王立学園に行ったら、もう王子である事を隠していられない。
彼女なら、きっと本当の事を知っても今まで通り接してくれると思っていた。
だから入学するより前に、王子として会おうと。自分の口から告げようと考えた。
公爵に頼んで招待状を送ってもらおうとした。
そうしたら父上は、アベルも連れて行くべきだと言った。仕方ない。
父上とアーチャー公爵は旧友で、本当ならもっと家族ぐるみで付き合いたいと何度か聞いていた。
公爵は俺とアベルどちらにも招待状を送った。アベルはその招待を受けた。
仕方ない。
…いいじゃないか。アベルが一緒にいたって、きっとシャロンは俺を見てくれる。
だって何度も会っているのだから。
大事な友達だから。
だから、シャロン
『アベル、皇帝陛下……』
どうして、アベルを陛下なんて呼ぶんだ。