397.憧れの人の色
十月。
シャロン達が入学して半年が過ぎ去り、後期の始まりである。
五限目終了の鐘が鳴ったばかりの放課後、ドレーク王立学園の訓練場には笑い声が轟いていた。
「がーっはっはっはぁ!何だ何だ、こんなものか今年の若人達は!これでは到底我らが八番隊には入れんぞぉ!!」
逆立った血紅色の髪を揺らし、二メートルはあろうかという筋骨隆々の大男が豪快に笑う。試合後とあって騎士服の上着は脱ぎ去り、逞しい筋肉がよくわかる軽装をしていて、組んだ腕の太さはちょっとした丸太の如しだった。
来年でちょうど四十歳を迎える彼は、ツイーディア王国騎士団の八番隊長、ギャレット。
「なーっはっはっはぁ!相手の見た目に惑わされるなど未熟も未熟っ!油断して良い時があると思うてかぁ!」
百四十センチもない小柄な女性騎士が楽しそうに笑う。
両耳にピアスをつけた彼女は浅葱色の髪と緑の瞳を持ち、騎士服の裾にはフリルを手縫いしていた。身長のせいでより若々しく見えるが、現在三十二歳である。
ツイーディア王国騎士団八番隊副隊長、ピュー。
三、四年生の《剣術》等の特別授業のため、今年は騎士団本部からこの二人がやってきていた。
他隊からも騎士は来ているが、隊長格は二名までと決まっている。
普通はそれが同じ隊から選ばれはしないものの、諸々の事情を加味してギャレットとピューに決定したのだ。
「お二人とも!授業は終わったのですよ。」
手を数回打ち鳴らし、《剣術》中級担当のトレイナーが厳しい声を飛ばす。
生徒は鐘が鳴った時点でさっさと立ち去った者もいれば、助言を求めて騎士に話しかける者、くたびれ顔でへたり込む者など様々だ。
「私は職員室へ戻って本日の記録をまとめねばなりません。ここを離れますが、いいですか。騒ぐだけなら、レイクス先生に苦情を言いつけてでも詰所へお戻り頂きますので。貴方がたはあくまで、未来ある生徒達のために――」
「おお、これは懐かしい!貴女に注意されるのも十年振りか。遡ればここでもよく叱られたものだ、なぁ!がっはっは!!」
「はぁ……少しは声量の押さえ方を学んでいてほしかったですね。」
騎士団での所属部隊こそ違ったが、ギャレットはトレイナーの一つ下の後輩にあたる。学生時代も新米騎士時代も、この声も身体も大きな男はやたら目立っていたのだ。
ギャレットの横で両腕をグッと伸ばし、ピューは校舎の方を見ながら軽く肩を回す。
「あたしは息子を探してこよっかなー!んじゃ、さっそく!せんげ」
「歩いて行ってください!」
ピシャリと言いつけられ、ピューは笑顔でウインクして走り去った。
こめかみに手をあてて首を振り、トレイナーも歩き出す。生徒に話しかけられたのだろう、後ろからはまたギャレットの笑い声が響いていた。
「いたいた!バージル~っ!」
飛び跳ねるような喜びのこもった声、それも学園でまず聞くはずのない声で呼ばれて、温室から校舎へと歩いていた小柄な男子生徒――バージル・ピューは瞬いた。
浅葱色の癖毛を低い位置で結った彼が振り返り、緑色の瞳がぎょっとして丸くなる。
「かっ、母さ」
「元気だったかぁーっ!」
「うぐはッ!!」
バージルの方が十センチ以上背が高いとはいえ、砂埃を巻き上げて走ってきたのは騎士団の副隊長だ。
減速せずに飛び込んできた母を受け止めきれるわけもなく、両足が浮いたバージルは数メートル飛んで背中からスライディングした。
バージルにのしかかったまま、ピューが頭をわしわしと撫でる。
「お前またちょっと背が伸びた?ん?よぉしよしよし、成長してて偉いぞーっ!」
「な…何でいるの……」
「授業に呼ばれてね!ギャレットと一緒にちょいと出掛けてきたんだ。驚いた?」
「そりゃ驚いたよ…」
「なぁーっはっはっは!そうでしょそうでしょ!」
けたけたと笑う母をどかし、バージルはよろよろと立ち上がった。
背中が土まみれになっているだろうし通りすがりの生徒から遠巻きに見られているが、今は気にしない事にする。
半年ぶりに家族と会えた事は素直に嬉しかった。
上着を脱いでズボンをはたき、せっかくだからと食堂二階へ移動する。
木苺のパフェと珈琲を二つずつトレイに乗せ、空いている個室席へ入った。
とすんと席についたピューが早速パフェの生クリームを珈琲へ投入し、スプーンでくるくると混ぜていく。
「…それで、後期から《体術》に変える事にしたんだ。」
「いいと思うよー、身体の動かし方がいっちばん基礎だからね。」
《護身術》で満点だったという報告は、ピューにとっては予想の範囲内だ。
パフェの器に盛られたフルーツをぱくりと噛みしめていると、ふと、バージルがどこか気まずそうに目をそらしている事に気付く。きょとりと瞬いて、ピューは首を横へ傾けた。
「どしたー?バージル。」
「あの……前に、聞いたかもしれないけどさ。」
「うんうん。」
アイスが溶けちゃうぞ、という言葉を飲み込んで促す。
ぱっとこちらを見たバージルは笑っていた。
「僕って…騎士になるのかな。」
「うんっ!」
「…あー、」
「なりたいなら絶対なれる!」
「――…え?」
何かを言いかけたバージルが言葉を途切れさせる。目は驚いたように見開かれていた。小さな母はまっすぐ、自信に満ちた目で口角を上げる。
「お前は強いし、騎士の子だから!」
「う、うん。」
「でもね…今、なるのかなって言ったでしょ。あたしが騎士だから自分もって考えたんなら、それは勿体ないよ。」
「……そうなの?」
「えーっ、そうでしょ!」
何を言っているんだという顔で、ピューはスプーンをぴこぴこと動かした。
遠い昔、寝落ち寸前に同じ事を聞かれた記憶はないらしい。
「あたしがどーとかじゃなくて、バージル。お前がどうしたいかがいっちばん大事なんだから!ホラ、ちっこい頃からお出かけとかお散歩、好きだったでしょ?」
「…うん」
「チャンバラしてる時も楽しそうだったけど、行った事ないトコ行く方がもっと笑ってた。って、おかーさんには見えたから。ね!実際どうかはお前が思ったままだけど。」
「うん……っ」
涙ぐんでしまって、バージルは困り顔で笑った。
もう一度聞く事を避けていた自分が馬鹿らしくて、こんな簡単な事だったと気が抜けて、母の期待を裏切りたくないという重荷が消えてなくなる。
――そうだよなぁ。母さんって、こういう人だった。
だからこそ幼いバージルは、「絶対なれる」「騎士の子だから」「勿体ない」と言われたあの夜、ショックを受けたのだ。
信じていた母まで、そんな事を言うのかと。
――あの時聞かずに、ちゃんと起きてる母さんに聞いてれば…なんにも問題なかったんだな。
「なになに、ちょっと悩んじゃったかー?」
「あはは…」
「大丈夫!だいじょーぶだからね、バージル!」
揃いの緑色の瞳を強く輝かせ、母の顔でピューが笑う。
「あたしはお前が器のでっかい男になったら、ま~ならなくても、元気で笑ってたらそれでいーんだから!成績だって良かろーが悪かろーがいいんだからね、好きにしな!」
「っそれ、親としてどーなの……」
「何に悩んだって、どうしたら自分が笑って楽しめるかだけ覚えておけば!結構平気なんだから、人生なんて。」
「……母さんくらいずっと笑ってる人も、あんまりいないよ。」
「我が相棒がいるぞぅ!」
ピューは自慢げに言いながら珈琲カップに手をかけ、「ちょっとカッカしやすいけどねー」と付け足す。
鼓膜破れる勢いの笑い声を思い出し、バージルは苦笑して溶けかけのアイスにスプーンを差した。
「ゲッ、マジで親父じゃねーか!」
場所は戻って訓練場。
心底イヤなものを見つけたとでも言いたげな叫びが聞こえて、ギャレットは振り返った。
一人の女子生徒が憤怒の表情で走ってくる。
ぴょんぴょんと外跳ねした血紅色の長髪、前髪には黒のヘアピンをつけ、灰色の瞳をした彼女はレベッカ。ギャレットの三女である。
その後を追うように駆けているのは友人だろう、濃いブラウンの髪を編み込んでポニーテールにした少女だ。
「おおレベッカ!我が娘よ、元気そうだなあ!」
「うるせーっ!終わったんなら早く帰れよ!!」
「がっはっは、威勢が良くて何よりだが、ちと待っていなさい。第二王子殿下と話しておるのだ」
「な……!」
距離が近付いてようやく、レベッカはギャレットの巨体の向こうにアベルがいる事に気付いた。
もっともここに居てほしくない人物だ。
レベッカの足がぴたりと止まり、目が合った金色の瞳からサッと顔をそむける。
「お、親父、余計なこ」
「すみませんなぁ、挨拶もできん子で!どうか寛大なお心でお許し頂ければ。なにせご存知の通り、娘は殿下に強く憧れているものですから!!」
「バッ――……、え?」
今、なんと言ったのか。
頭にのぼっていた血がスーッと引いていき、レベッカは冷や汗を垂らして唾を飲み込んだ。
ぎ、ぎ、ぎ、と瞳だけアベルの方へ動かしかけて、やっぱり確認するのは怖いとばかり、父親へ視線を戻す。
シンとした空気に気付かないギャレットが大声で話を続けた。
「五年は前でしたか!母子ともども暴走馬車からお救いくださったあの日!あれ以来儂が家に帰る度に殿下の武勇伝を聞きたがり!早くまた殿下に会いたい会いたいと騒ぐ日々で!自分には全然剣才が無い、あの人みたいになれないと泣きじゃくり!髪留めだろうが首飾りだろうが黒を好みまして!」
「――……、…………っ!?」
愕然と目を見開き、レベッカはもはや言葉も出ない様子だった。
口をぱくぱくさせながら震える指先で父親を指している。当然、そんな事でギャレットは止まらない。
「良くない噂を聞いた日には、殿下がそんな事をするわけがないと怒り!去年のパレードなんぞ、あれの母に聞いたらボーッと呆けて帰って来たとか!殿下の御威光にあてられたのでしょうなぁ!がっはっはっはっは!ああ、すみませんこのようなもうした話を!」
「なっ、あ……」
レベッカの頬にじわじわと赤みが戻ってきた。
同時に目には涙が浮かび出したようにも見える。
浅く呼吸を繰り返しながら、父と同じ灰色の瞳をおそるおそる第二王子殿下へと向けた。黙って目をそらしてくれている。
つまり、
『騒いだ奴ら呼び出して、お決まりの隠ぺいってヤツか。』
中庭の騒ぎで会った時も。
『それで、何がわからないの。』
勉強会で近くに来た時も、ずっと。
アベルは、レベッカが自分に憧れている事を。
「は、あ、うぅ……し、知ひっ……ぐぅ……っ!」
黒のチョーカーをつけた首筋まで真っ赤になって、わなわなと震えたレベッカは拳を握り締めた。すべての元凶である己が父を睨みつける。
「し、死ねえくそ親父ーーーっ!!」
「おお!久々に父とぶつかってみるか!来い来い!がーっはっはっはっは!!」
「………、さすがに不憫ね。」
静かに呟いたデイジーの言葉に、周囲は心の中で頷いた。




